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タイプ「史跡」

三内丸山遺跡の写真

三内丸山遺跡 ( 青森県 青森市 )

青森駅の南西約7km車で約20分、青森県立美術館や県総合運動公園に隣接した緑豊かな空間の中にある三内丸山(さんないまるやま)遺跡は日本最大級の縄文集落跡である。1992(平成4)年から始まった発掘調査では、縄文時代前期~中期(紀元前約3900~2200年 現在から約5900~4200年前)の大規模な集落跡が見つかり、たくさんの竪穴建物跡や掘立...

無量光院跡の写真

写真提供:平泉町教育委員会

無量光院跡 ( 岩手県 平泉町 )

JR平泉駅の北800mにある。鎌倉幕府の事跡を記した史書『吾妻鏡』によれば、無量光院跡は新御堂(しんみどう)と号し、奥州藤原氏三代秀衡が宇治平等院を模して建立したといわれ、現在土壇・礎石・池跡などが残されている。毛越寺・観自在王院と並ぶ臨池伽藍(りんちがらん)*で、堂内の四壁の扉に観経(かんぎょう)*の大意を図絵し、本尊...

骨寺村荘園遺跡の写真

写真提供:一般社団法人東北観光推進機構

骨寺村荘園遺跡 ( 岩手県 一関市 )

JR東北線・東北新幹線一ノ関駅から西北西へ約16km、バスで山間部を約40分かけて上っていく。  骨寺村荘園遺跡は、『陸奥国骨寺村絵図』(以下、「荘園絵図」。)とよばれる中世荘園絵図の景観が今なお残る貴重な遺跡である。骨寺村荘園遺跡がある一関市厳美町本寺地区は、その昔「骨寺村」と呼ばれた荘園で、中尊寺経蔵別当領であった。荘...

大湯環状列石の写真

大湯環状列石 ( 秋田県 鹿角市 )

JR花輪線十和田南駅から北東へ約4.5km、大湯温泉*1からは西南3kmの台地上にある。県道をはさんで東に野中堂環状列石、西に万座環状列石の2つの環状列石を有する縄文時代後期(約4000年前)の大規模な遺跡である。遺跡近くにはガイダンス施設、大湯ストーンサークル館*2もある。野中堂環状列石は最大径44m、万座環状列石の最大径は52mあり、と...

払田柵跡の写真

払田柵跡 ( 秋田県 大仙市 )

JR秋田新幹線・奥羽本線大曲駅から東へ約6km、横手盆地の北部、仙北地方の平野部にある真山・長森の2つの小丘陵*1を取り込むように展開する遺跡。遺跡周辺は「あきたこまち」で知られる稲作地帯で水田が広がる。  払田柵跡の発見は、明治30年代に行われた耕地整理の際、土中から角材が並んで発見されたことが端緒である。規則的・連続的に...

上杉家廟所の写真

上杉家廟所 ( 山形県 米沢市 )

JR米坂線西米沢駅から約1km、JR山形新幹線米沢駅からは約4kmの米沢市街の西部にある。上杉家*の初代謙信から12代斉定(なりさだ)までの歴代藩主の廟所。杉木立に囲まれた約2万m2の敷地に謙信の廟が中央に建ち、右側に奇数代の藩主、左側に偶数代の藩主の霊屋形式の廟が並んでいる。霊屋の前には家臣が寄進した燈籠群が整然と立...

白河関跡の写真

写真提供:白河市役所

白河関跡 ( 福島県 白河市 )

白河関跡は、JR東北本線白河駅から南へ約12kmの山間に位置している。栃木県境からは約3km北の地点に、南北約300m、東西250mほどの小高い丘があり、丘の上にはこんもりとした木立の中に白河神社が鎮座し、周囲には中世に城館として使われた際のものと考えられる空堀や土塁がみられる。  古代の白河は、陸奥国の南端に位置し、南側は下野国・...

侍塚古墳群の写真

侍塚古墳群 ( 栃木県 大田原市 )

大田原市南部の湯津上地区に11基の古墳が集まる。中でも国道294号沿い東側に下侍塚古墳、さらに約800m南下したところにある上侍塚古墳は、いずれも国指定史跡となっている。  4~5世紀ごろの古墳で、上侍塚は全長114m、下侍塚は全長84mある。近くにある那須国造碑に刻まれた人物の墓を解明するために、1692(元禄5)年、徳川光圀により両古...

下野薬師寺跡の写真

写真提供:下野市教育委員会事務局文化財課

下野薬師寺跡 ( 栃木県 下野市 )

下野薬師寺跡は、今から1300年前頃、飛鳥時代に建てられた寺の跡である。  下野薬師寺は、当時の中央政界で活躍した下野国出身の下毛野古麻呂をはじめとする下毛野氏の寺として創建されたと言われている。  奈良時代に国立の寺院に昇格し、761(天平宝字5)年には僧の養成所である戒壇が設置され、奈良の東大寺、九州の筑紫観世音寺とと...

岩宿遺跡の写真

写真提供:岩宿博物館

岩宿遺跡 ( 群馬県 みどり市 )

岩宿駅の北西1kmにある、旧石器時代の遺跡。縄文時代の遺跡は関東ローム層の上に堆積した黒色土層から出土するのに対し、岩宿遺跡では関東ローム層の中から遺物が出土したので、縄文時代以前の旧石器文化が日本にもあったことを裏付けたとされている。  発見者の相沢忠洋氏*と明治大学考古学研究室による発掘調査個所に岩宿遺跡の碑が立つ...

上野三碑(金井沢碑・山上碑・多胡碑)の写真

写真提供:高崎市教育委員会

上野三碑(金井沢碑・山上碑・多胡碑) ( 群馬県 高崎市 )

群馬県下にある金井沢碑・山上碑・多胡碑という平安時代より古い3つの碑をいう。それぞれの碑には覆堂が立っているが、一定時間の照明でのぞき窓から見ることができ、またテープによる解説を聞くことができる。 <金井沢碑>  根小屋駅の南西、小高い丘の中腹に立つ。高さ1.1m、幅0.7m。碑面には726(神亀3)年、群馬県下賛郷の豪族三家の...

保渡田古墳群の写真

写真提供:高崎市教育委員会

保渡田古墳群 ( 群馬県 高崎市 )

高崎市保渡田・井出にまたがる田園地帯の中に点在する3つの大きな丘が保渡田古墳群で、八幡塚古墳、二子山古墳、薬師塚古墳の総称。3つの古墳は、約1,500年前の豪族が葬られた墓で、いずれも墳丘長約100mの前方後円墳。広大な二重の堀を巡らし、多量の埴輪を立て並べていたという。  八幡塚古墳・井出二子山古墳を中心とする地域は「上毛野...

さきたま古墳公園の写真

さきたま古墳公園 ( 埼玉県 行田市 )

市の南東部、県名発祥の地に所在する古墳群。二子山*・鉄砲山・稲荷山古墳など8基の前方後円墳と1基の円墳、日本最大級の円墳である丸墓山古墳*、方墳の戸場口山古墳などの総称。もとは近辺に多数の小円墳があったことが確認されており、関東地方でも有数の古墳群といえる。これらは武蔵国造の一族の墳墓と考えられている。  稲荷山古墳...

和銅採掘遺跡の写真

和銅採掘遺跡 ( 埼玉県 秩父市 )

「続日本書紀」によると、708(慶雲5)年に「武蔵国秩父郡、和銅を献る」とあり、自然銅(にぎあかがね)を朝廷に献上したとある。貨幣を鋳造した朝廷では宣命を発し、年号を和銅と改めた。和同開珎は長い間わが国最初の貨幣とされていたが、1999(平成11)年の富本銭(ふほんせん)の出土によりその座を譲ることになった。  しかし、富本...

吉見百穴の写真

写真提供:吉見町役場

吉見百穴 ( 埼玉県 吉見町 )

東松山市との境界付近は凝灰岩質砂岩の丘陵で、白い岩肌にたくさんある横穴が、まるで蜂ノ巣のような奇観を呈する。江戸時代には十数個が開口し、不思議な存在であった。  吉見百穴には横穴住居説をめぐる激しい論争の歴史がある。オーストリア公使シーボルトの視察以来有名になり、1887(明治 20)年には当時の東京帝国大学生坪井正五郎ら...

草加松原の写真

写真提供:草加市教育委員会

草加松原 ( 埼玉県 草加市 )

1630(寛永7)年、草加に日光街道第二の宿駅が開かれ、その後草加宿の北に接する綾瀬川の西側に松並木が整備された。  江戸時代の往時の面影を残す松並木となった。しかし、1970年代になると、排気ガスなどの影響で成木は70本にまで著しく減少し、それを憂えた市民が松並木保存会を結成して、松の保護や補植に取り組んだ結果、623本まで回...

加曽利貝塚の写真

写真提供:加曽利貝塚博物館

加曽利貝塚 ( 千葉県 千葉市 )

加曽利貝塚は、直径140mの環状である縄文時代中・後期の北貝塚と、直径190mで馬蹄形をした縄文時代後・晩期の南貝塚が8字形に連結した、日本最大級の貝塚である。貝塚やその周辺からは多数の住居跡が発見されており、この地域の中核的な「ムラ」の跡が拡がっている。2017(平成29)年に、縄文時代の遺跡としてはわが国で4箇所目となる国指定特...

永福寺跡の写真

永福寺跡 ( 神奈川県 鎌倉市 )

鎌倉宮から瑞泉寺に向かう途中にある。永福寺は、源頼朝が、源義経など奥州攻めで亡くなった数万の将兵の鎮魂のため、平泉の毛越寺・中尊寺に範をとり、1192(建久3)年に造営したもの。歴代の将軍たちによる蹴鞠や花見なども行われた。  二重屋根の本堂は二階堂と呼ばれ、今の地名の起こりとなった。阿弥陀堂・薬師堂ほかの堂塔に池をめぐ...

佐渡金銀山の写真

写真提供:新潟県観光文化スポーツ部文化課世界遺産登録推進室

佐渡金銀山 ( 新潟県 佐渡市 )

国史跡の佐渡金銀山遺跡は、「佐渡島(さど)の金山」の名称で、2022(令和4)年2月に世界遺産候補としてユネスコに推薦された。  佐渡島の金生産の最古の記録は、平安時代後期(12世紀)に編纂された『今昔物語集』で、佐渡島で金を採取したという説話が収録されている。15世紀半ばには佐渡へ流された世阿弥が『金島書』の中で、佐渡島を...

佐渡国分寺跡の写真

佐渡国分寺跡 ( 新潟県 佐渡市 )

奈良時代、諸国に建てられた国分寺の一つ、佐渡国分寺の跡。真野宮から県道約3km北上した松林に、国分寺史跡公園として整備されている。面積約2,000m2、金堂・中門・回廊・七重塔跡の礎石が芝生の中に並び、往時の伽藍配置がよくわかる。特に金堂と中門をつなぐ回廊があったのは珍しいといわれる。また、金堂の東に残る礎石は平安...

前田家墓所の写真

写真提供:金沢市

前田家墓所 ( 石川県 金沢市 )

金沢市街の南、野田山丘陵の傾斜地にある、加賀藩前田家歴代の藩主・正室および一族の墓地。藩祖前田利家(としいえ)を頂点とした歴代藩主の墓をとりまく正室・子女等の墓約80基からなる。6万m2を超える広い墓所に並ぶ墓のほとんどは、土を盛った古墳式で、石の墓標が立てられている。なお、墓所の中で6代吉徳の左にある富子(ふ...

雨の宮古墳群の写真

雨の宮古墳群 ( 石川県 中能登町 )

眉丈山(標高188m)の山頂を中心に、4世紀の中頃から5世紀の初めにかけて造られた古墳群で、現在、36基が発見されており、大部分が円墳である。最高所の通称雷ヶ峰に位置する1号墳は、墳丘長64mの前方後方墳としては県内最大規模とされる。2号墳は、1号墳の北東に、向き合って立地する墳丘長約65mの前方後円墳である。これら2つの古墳の墳丘...

森将軍塚古墳の写真

森将軍塚古墳 ( 長野県 千曲市 )

千曲市屋代駅東側、約1kmにある「科野の里歴史公園」*の一角にある森将軍塚古墳。約1650年前に造られた全長100mの、日本最大級の竪穴式石室を有する古墳である。11年間かけ1992(平成4)年に造成当時の姿を再現し復元されたもの。  古墳上から一望できる地域を治めた豪族の墓として造られたもので、標高約490mの高台にあり、歴史公園内の...

高山陣屋の写真

写真提供:(一社)岐阜県観光連盟

高山陣屋 ( 岐阜県 高山市 )

高山駅から700m程にある。江戸時代1692(元禄5)年に飛騨が幕府直轄領となり、その出先機関として高山城主だった金森氏の下屋敷を陣屋としたもの。明治維新まで25代の代官・郡代が江戸から派遣され、飛騨の行政・財政・警察などの政務を行った。御役所・郡代役宅・御蔵等を併せて「高山陣屋」と称する。  陣屋設置以来、江戸時代1725(享保...

関ケ原古戦場の写真

写真提供:(一社)関ケ原観光協会

関ケ原古戦場 ( 岐阜県 関ケ原町 )

現在、古戦場一帯はのどかな田園風景が広がり、山上や林の陰・田の中に石碑が立ち、武将の陣旗がはためき、合戦を偲ばせる。関ケ原の戦い*は、天下分け目の合戦とも言われるほど、歴史上でも重要な戦いである。  JR関ケ原駅の北約900mに古戦場を一望できる「丸山」(岡山烽火場、黒田長政・竹中重門陣跡)があり、山頂から南を見ると細長...

特別史跡 登呂遺跡の写真

写真提供:静岡市立登呂博物館

特別史跡 登呂遺跡 ( 静岡県 静岡市 )

JR東海道本線・東海道新幹線静岡駅から南に約3kmにある。登呂遺跡公園として整備され、静岡市立登呂博物館*1が隣接している。 1943(昭和18)年、プロペラ工場の建設のために水田が掘り起こされた際、地下1mあたりから広範囲にわたって約1900~2000年前の弥生時代の遺跡が発見された。第2次世界大戦後、1947(昭和22)年から4年間をかけて発...

新居関跡の写真

新居関跡 ( 静岡県 湖西市 )

JR東海道本線新居町駅から西へ800mのところにある。箱根の関とともに東海道の重要な関所であり、当時の建物が現存する全国唯一の関所跡である。1600(慶長5)年に徳川家康により設置され、当初は今切(遠州灘の浜名湖開口部)近くにあったため、今切関*1と呼ばれ、1707(宝永4)年の大地震の翌年に二度目の移転で現在地へ移った。関所の敷地...

小牧山城跡の写真

写真提供:小牧市教育委員会

小牧山城跡 ( 愛知県 小牧市 )

小牧駅の西1.7kmにある小高い山の全体が史跡に指定されてい る。織田信長が斎藤道三なきあと、美濃攻略の拠点として、1563(永禄6)年に本格的な石垣と先進的な城下町をともなう城を築き、約4年間居を構えた。1584(天正12)年の小牧・長久手の戦い*では織田信雄・徳川家康連合軍の本陣が置かれた。  山中には空堀や土塁・大手道が残り、...

松平氏遺跡の写真

写真提供:松平観光協会

松平氏遺跡 ( 愛知県 豊田市 )

名鉄三河線豊田市駅からバス。1994(平成6)年、高月院*・松平氏館跡*・松平城跡*・大給(おぎゅう)城跡*の4か所が一括されて、「松平氏遺跡」として、国指定史跡となった。松平氏は江戸幕府の創始者である徳川家康の祖で、この地が発祥の地、松平郷である。伝承によると時宗の遊行僧徳阿弥が東国からこの地に入り、在原信重の娘婿にな...

三河国分寺跡・国分尼寺跡の写真

三河国分寺跡・国分尼寺跡 ( 愛知県 豊川市 )

南西を名鉄名古屋本線の国府駅と八幡駅に、北東を東名国速道に囲まれた一帯に、三河の総社・国府・国分寺跡・国分尼寺跡が集まることから、この地が、三河の国の中心であったことがわかる。  1985~1988(昭和60~昭和63)年度と2007~2009(平成19~平成21)年度の確認調査で、国分寺は、東西・南北各180mの広い寺域に築地塀を張り巡らし...

斎宮跡の写真

斎宮跡 ( 三重県 明和町 )

近鉄山田線「斎宮駅」から徒歩約5分。三重県多気郡明和町にある遺跡。斎宮とは、天皇に代わり伊勢神宮に奉仕するために派遣された皇族の女性斎王*が住む御殿と運営のために置かれた斎宮寮という役所があった場所。斎王は天皇の代替わり毎に交替し、飛鳥時代から南北朝時代まで660年間続いたとされる。斎宮跡は都と伊勢神宮を結ぶ古代伊勢道...

妻木晩田遺跡の写真

妻木晩田遺跡 ( 鳥取県 大山町 )

妻木晩田(むきばんだ)遺跡は、鳥取県大山町(だいせんちょう)と米子市の丘陵上にある弥生時代の集落遺跡である。1999年に国の史跡に指定されている。遺跡面積は約1.7km2で、竪穴住居跡約460棟、掘建柱建物跡約510棟、墳墓(四隅突出型墳丘墓含む)39基、環壕等が見つかっている。 現在は、「鳥取県立むきばんだ史跡公園」とし...

石見銀山遺跡の写真

写真提供:大田市観光協会

石見銀山遺跡 ( 島根県 大田市 )

大田市域の南西の山峡にある、近世から近代にかけて栄えた鉱山遺跡。石見銀山は1527(大永7)年に九州博多の豪商神屋寿禎(かみやじゅてい)によって発見された。以後、室町・戦国の両時代を通じて、銀山は大内・尼子(あまこ)・毛利・小笠原4氏の、激しい攻防にさらされることになった。この結果、1562(永禄5)年ついに銀山の守り山吹城(...

荒神谷遺跡の写真

写真提供:荒神谷博物館

荒神谷遺跡 ( 島根県 出雲市 )

JR荘原駅の南西約4kmの谷あいで、1984(昭和59)年に弥生時代の青銅器が大量に発見された。  遺跡からは、銅剣358本*が出土し、翌年には、銅剣出土地点から約7m離れた場所から、今度は銅鐸6個と銅矛16本が同時に発掘され、考古学界の注目を集めた。

田儀櫻井家たたら製鉄遺跡の写真

田儀櫻井家たたら製鉄遺跡 ( 島根県 出雲市 )

島根県中部、JR山陰本線田儀駅から車で10分の所にある。たたら*製鉄とは、土製の炉の中で木炭の燃料で砂鉄を溶かして鉄をつくる日本古来の製法。中国地方では6世紀から盛んに行われた。出雲、石見地方は、良質の砂鉄と炭になる森林資源が豊富なことから、幕末から明治初頭にかけて鉄生産量の9割を占めた。  江戸前期、奥出雲町にある可部...

造山古墳の写真

写真提供:岡山市教育委員会

造山古墳 ( 岡山県 岡山市 )

岡山市北西部から総社市にかけての「吉備路」と呼ばれる一帯は、古代吉備王国時代の中心地だったと考えられており、畿内の大王墓に匹敵する巨大な古墳が多くある。なかでも、JR吉備(桃太郎)線 備中高松駅から南西へ約2.5kmのところにある造山古墳は、古墳時代中期(5世紀初頭)に築かれた全長約350m、県下最大、全国第4位の墳丘規模をもつ...

板東俘虜収容所跡 の写真

板東俘虜収容所跡  ( 徳島県 鳴門市 )

JR高徳線板東駅の北西に、第一次世界大戦時のドイツ兵の捕虜収容所跡地がある。第一次世界大戦が始まると、日本も参戦し、ドイツの租借地だった中国山東半島にあるチンタオ(青島)を攻撃。敗れたドイツ兵士約4,600人 が俘虜となり、日本各地の収容所へ送られた。大戦の長期化に伴い、四国の徳島・丸亀・松山にいた俘虜953人を一か所に集める...

塩飽勤番所跡の写真

塩飽勤番所跡 ( 香川県 丸亀市 )

塩飽勤番所跡は、本島港(泊港)から県道沿いを北へ徒歩10分ほどの所にある。  塩飽諸島は古来、秀吉、家康の朱印状により、人名(にんみょう)と呼ばれる650人の船方衆が治めてきた。人名の代表者は名字帯刀を許された4人の年寄で、1年交代で自宅を役所として朱印状を保管し、政務を執ってきた。1798(寛政10)年、本島に勤番所が設置され...

屋島の写真

屋島 ( 香川県 高松市 )

瀬戸内海に突き出た標高292m、南北約5km、東西3kmのテーブル状の高地で、大きな屋根のように見えるため屋島と呼ばれている。約1400万年前に噴出した山上の讃岐岩質安山岩が他の岩石よりも硬く、その後の浸食で取り残され、頂上部が平らになった。典型的な「メサ」と呼ばれる地形であり、南嶺(292m)と北嶺(282m)の2つのピークがある。かつ...

陸軍芸予要塞来島要塞の写真

陸軍芸予要塞来島要塞 ( 愛媛県 今治市 )

今治市波止浜港から渡船で10分の来島海峡に浮かぶ周囲3kmの小島にある。日露戦争(1904(明治37)年~1905(明治38)年)当時、大日本帝国がロシア艦隊の来襲に備えて造られた芸予要塞がそのまま残っており、砲座跡、展望司令塔、赤レンガの地下兵舎、弾薬庫などが点在し、ツバキ並木の遊歩道で結ばれている。  芸予要塞は1922(大正11)年...

ロシア兵墓地の写真

ロシア兵墓地 ( 愛媛県 松山市 )

日露戦争で捕虜となり、この地で亡くなったロシア兵の墓が、ロシア兵墓地である。日露戦争が始まった1904(明治37)年、松山市に全国初の収容所が設けられた。松山が捕虜収容所となった理由としては諸説あるが、港があり輸送に便利なこと、気候が温暖であること、港から街まで鉄道があったことなどが理由といわれている。捕虜収容所には、延...

別子銅山跡の写真

別子銅山跡 ( 愛媛県 新居浜市 )

別子銅山は、新居浜市(旧別子山村)四国山地の山中に位置しており、足尾・小坂・日立とともに日本の代表的銅山であった。1691(元禄4)年の開坑に始まり、1973(昭和48)年3月の閉山に至るまで283年の歴史を有する。地中深く掘り進められた坑道の延長は約700km、深さは地下1,000mまで掘り続けられ、総産出量は約65万tにものぼり、新居浜市...

石人山古墳の写真

石人山古墳 ( 福岡県 広川町 )

八女市と広川町にまたがる八女丘陵には大小約300基の古墳がある。これらの古墳群のうち代表的な石人山、岩戸山、乗場、善蔵塚、弘化谷、丸山塚、丸山、茶臼塚の八基が八女古墳群として1978(昭和53)年史跡に指定された。  その中の一つ石人山古墳は、長峰丘陵の一部を利用し5世紀前半代に築造された八女地方最古の前方後円墳。最古期の装...

岩戸山古墳の写真

写真提供:岩戸山歴史文化交流館

岩戸山古墳 ( 福岡県 八女市 )

八女古墳群のひとつである岩戸山古墳。墳丘長約135m、全長170m以上の規模を誇る北部九州最大の前方後円墳である。古墳の形の特徴として、後円部の北東側に1辺約43mの方形区画が存在する。筑紫君磐井の墓といわれ、石人・石馬や多くの埴輪が出土。出土品は八女市岩戸山歴史文化交流館に多数展示。

三井三池炭鉱跡の写真

写真提供:大牟田市

三井三池炭鉱跡 ( 福岡県 大牟田市 / 熊本県 荒尾市 )

1469(文明元)年に、地元の農夫が焚き火の中で燃える石を見つけたというのが、大牟田における石炭発見の歴史だと伝わる。  江戸時代から採掘が行われ、1873(明治6)年には官営化され、西洋技術による近代化を進めていった。1889(明治22)年、三井財閥に払い下げられ、勝立坑、宮原坑、万田坑などを次々と開坑。日本の近代化を支えてきた...

大宰府政庁跡の写真

写真提供:太宰府市

大宰府政庁跡 ( 福岡県 太宰府市 )

大宰府は律令制下において九州を治め、外交と防衛を担った地方役所。大陸に近いという立地の重要性から対外交渉を担うなど朝廷から大きな権限を与えられた時期もあった。7世紀後半に太宰府市内にその中枢がおかれ、その遺跡が残っている。  現在、大宰府政庁跡は3基の石碑の立つ辺りが正殿跡、ほかに中門・南大門・東殿・西殿などの礎石が...

王塚古墳の写真

写真提供:王塚装飾古墳館

王塚古墳 ( 福岡県 桂川町 )

JR桂川駅の北500mに位置する。6世紀中ごろに造られたと推定される前方後円墳で、横穴石室内部のいたるところに描かれた装飾壁画で知られる。玄室は長さ4.43m、幅3.00m、奥壁に沿い複式棺床がある。壁画は赤・黄・緑・白・黒の5色を使用して三角文、靫、盾、大刀、弓、蕨手文、双脚輪状文、同心円文、珠文や馬などが描かれ、美術史上でも非常...

竹原古墳の写真

竹原古墳 ( 福岡県 宮若市 )

市の中心部の西方、竹原の諏訪神社の境内にある。円墳と推定され、6世紀後半ごろの優れた壁面古墳として知られる。石室は前室をもつ横穴式石室で全長6.7m。奥壁下部の横2m、縦1.4mの緑泥片岩に黒と朱の2色を用い、一対の翳(さしば)*をはさんで人物や怪獣、馬、舟などを大胆な筆致で描いた原始絵画が鮮やかに残る。一説には怪獣は青竜で、...

日岡古墳の写真

日岡古墳 ( 福岡県 うきは市 )

若宮八幡神社の境内に立地。月岡古墳、塚堂古墳とともに若宮古墳群を形成する。  6世紀前半に造られたとされる装飾古墳として有名で、全長約74m、高さ約5m。後円部には横穴式石室があり、奥の壁面には赤、白、緑の3色で同心円文、三角文、わらび手文など、幾何学的な文様が描かれている。周囲の壁にも武具や魚、船、馬、獣などが描かれてい...

吉野ヶ里遺跡の写真

吉野ヶ里遺跡 ( 佐賀県 吉野ヶ里町 / 佐賀県 神埼市 )

旧神埼町・旧三田川町、旧東脊振村の3つのエリアにまたがる国内最大規模を誇る弥生時代の環濠集落跡。1986(昭和61)年から発掘調査が行われ、「魏志倭人伝」に記された邪馬台国を彷彿とさせるということで全国の注目を集めた。周囲を外壕に囲まれた遺跡の面積は、約40万m2。450を超える竪穴住居跡や甕棺墓列、集落のリーダーたち...

日本二十六聖人殉教地の写真

写真提供:日本二十六聖人記念館

日本二十六聖人殉教地 ( 長崎県 長崎市 )

JR九州新幹線・長崎本線長崎駅かもめ口(東口)前、NHK長崎放送局の裏手にある小高い丘が西坂公園となっており、その園内に日本二十六聖人記念碑と同記念館が建つ。また、隣接して聖フィリッポ教会(日本二十六聖人記念聖堂)がある。  日本二十六聖人殉教地は、1597(慶長元)年この地で26人のキリスト教徒*が磔刑に処され殉教*した聖地...

平和公園の写真

平和公園 ( 長崎県 長崎市 )

長崎市浦上地区にある。原爆落下中心地とその北側の丘に、世界平和の願いを込めてつくられた公園。  1945(昭和20)年8月9日午前11時2分、長崎市上空で人類史上2番目となる原子爆弾がさく裂、多くの人命が失われた。  公園内は、平和祈念像や平和の泉がある「願いのゾーン(祈念像地区)」、被爆により亡くなられた方のご冥福を祈る空間...

出島の写真

出島 ( 長崎県 長崎市 )

JR西九州新幹線・長崎本線長崎駅から南へ約1km、中島川を渡ったところにある。出入口は北側の中島川に架かる出島表門橋となる。出島は徳川幕府が、キリシタン弾圧とともに対外貿易の統制*を強め、窓口を長崎に限定する過程で、1634(寛永11)年に長崎の有力な町人に命じて扇形の人工島を築かせたのが始まりである。1636(寛永13)年に出島が...

端島(軍艦島)の写真

端島(軍艦島) ( 長崎県 長崎市 )

長崎港の南西に約18km、船で約40分の海上に浮かぶ端島(はしま)は、石炭の量産地として有名だった島。岩礁の周りを埋め立てられて作られた人工の島であり、島の周囲をコンクリートの岸壁が囲み、高層アパートが密集して建ち並ぶその外観が軍艦「土佐」に似ていることから、「軍艦島」と呼ばれるようになった。  1810(文化7)年に端島で石...

鷹島神崎遺跡の写真

写真提供:松浦市教育委員会

鷹島神崎遺跡 ( 長崎県 松浦市 )

長崎県北部の伊万里湾に浮かぶ鷹島南岸海域にある元寇の古戦場跡。40年以上にわたる発掘調査により、元軍の武器(「てつはう」)や沈没した元軍船などが見つかっている。その鷹島海底遺跡のうち、国の史跡に指定されている約38万mの区域を指す。海底遺跡が国史跡に指定されたのはここが日本初で、日本における水中考古学の先進...

原の辻遺跡の写真

原の辻遺跡 ( 長崎県 壱岐市 )

壱岐島の南東部の台地から平野部(深江田原)に広がる、弥生時代中期から後期にかけての大規模集落跡。3世紀末に記された中国の歴史書『魏志』倭人伝に登場する、「一支国」の王都と特定されている。  多重の環濠に囲まれた集落の規模は0.24km2で、周辺の遺構を含めると約1km2に及ぶ。弥生時代の環濠集落としては最...

田染荘の写真

写真提供:豊後高田市

田染荘 ( 大分県 豊後高田市 )

火山活動でできた円錐形の国東半島。その南部に広がる田染盆地では、743(天平15)年の墾田永年私財法の成立によって、この地を豊かな水田地帯にしようと、農民や宇佐神宮が尽力。誕生したのが、この田染荘だ。宇佐神宮の「本御荘十八箇所」とよばれる根本荘園のひとつで、最も重用視された荘園として栄えた。土地の地形をそのまま利用した、...

臼杵石仏の写真

写真提供:臼杵石仏事務所

臼杵石仏 ( 大分県 臼杵市 )

凝灰岩の岩壁に刻まれた磨崖石仏。平安時代後期から鎌倉時代にかけて彫刻されたと言われる。その規模と数、また彫刻の質の高さにおいて、わが国を代表する石仏群であり、1995(平成7)年6月15日には磨崖仏では全国初、彫刻としても九州初の国宝に指定。61体ある中、59体が国宝となった。石仏群は4群に分かれ、地名によって、ホキ石仏第1群(...

西都原古墳群の写真

西都原古墳群 ( 宮崎県 西都市 )

西都原は西都市街の西方に北から南に延びる東西2.6km、南北4.2kmにおよぶ洪積台地。この標高60mほどの平坦な台地上に、瓊瓊杵命(ににぎのみこと)や木花開耶姫(このはなさくやひめ)の墓とされる古墳をはじめ、4世紀初頭から7世紀に造られた300基以上の大小さまざまの古墳が続き、全国初の特別史跡公園として整備されている。  公園は花...

薩摩国分寺跡の写真

写真提供:薩摩川内市川内歴史資料館

薩摩国分寺跡 ( 鹿児島県 薩摩川内市 )

741(天平13)年、聖武天皇の命により、鎮護国家を願って全国に建立された国分寺*の一つ。川内川の右岸の台地にあたり、その敷地は南北約130m、東西約118mと推定され、その区域内に国分寺の建物が立っていたことがほぼ判明している。発掘調査は1968(昭和43)年から始まり、金堂跡、掘立柱の建物跡、講堂基壇跡、塔跡、西金堂跡などの遺構が...

尚古集成館の写真

写真提供:株式会社 島津興業

尚古集成館 ( 鹿児島県 鹿児島市 )

島津家の歴史や文化と、集成館事業を紹介する博物館。仙巌園(せんがんえん)正面入り口の左手にあり、1865(慶応元)年に竣工した日本最古の石造洋式機械工場「旧集成館機械工場」の建物を使っている。島津家28代斉彬(なりあきら)は造船、造砲、ガラス製造、紡績などの事業を展開し、磯に一大工場群「集成館」を作った。薩英戦争でこれら...

玉陵の写真

玉陵 ( 沖縄県 那覇市 )

首里城の西、守礼門から約200m離れた場所にある第2尚氏王統の陵墓。1501(明応10・文亀元)年、尚真王が父である尚円王のために造営した壮大な石造建造物で、墓域は2,442m2。外庭と内庭に区切られ、内庭に墓室がある。3つに分かれた墓室の出入口には石扉が設けられ、墓室の左右を獅子像が守っている。中央の墓室は洗骨前の遺骸を...

ひめゆりの塔の写真

ひめゆりの塔 ( 沖縄県 糸満市 )

沖縄戦さなかの1945(昭和20)年3月末、沖縄県立第一高等女学校および沖縄師範学校女子部の生徒222名と、引率教職員18名が看護要員として動員された。ひめゆり学徒隊は、この看護隊の通称である。米軍上陸後も最後まで軍と行動を共にし、多くの犠牲者を出すこととなった。  ひめゆりの塔は、もっとも多くの犠牲者を出したといわれる第三外...

平和祈念公園の写真

平和祈念公園 ( 沖縄県 糸満市 )

沖縄本島南部、沖縄戦終焉の地である糸満市摩文仁の切り立った海岸線を望む台地に広がる公園。  1945(昭和20)年4月、沖縄本島に上陸した米軍は激戦を繰り広げながら、日本軍をじわじわと追い詰めた。ついに、沖縄守備軍は首里を撤退して、住民を巻き込みながら南下したため、沖縄本島南部は沖縄戦最大の激戦地となり多大な犠牲者を出した...