上杉家廟所うえすぎけびょうしょ

JR米坂線西米沢駅から約1km、JR山形新幹線米沢駅からは約4kmの米沢市街の西部にある。上杉家*の初代謙信から12代斉定(なりさだ)までの歴代藩主の廟所。杉木立に囲まれた約2万m2の敷地に謙信の廟が中央に建ち、右側に奇数代の藩主、左側に偶数代の藩主の霊屋形式の廟が並んでいる。霊屋の前には家臣が寄進した燈籠群が整然と立ち並んでいる。8代目藩主までは火葬にしていたが、9代目藩主からは土葬になっている。
 また、藩主の夫人たちの墓所は、直江兼続ら有力家臣の墓所とともに廟所の南、約2kmの林泉寺にある。廟所に隣接して立つ法音寺(ほうおんじ)*や林泉寺は、いずれも上杉家の菩提寺で、越後の春日山から移したものである。
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みどころ

霊屋形式の廟所として、代表的な近世大名家の墓所であり、世子顕孝公(相続前に死去)を含め、13の霊屋が整然と並ぶのは壮観。
 周囲の杉木立は第二次世界大戦の戦中から戦後にかけ伐採され、江戸時代の鬱蒼とした雰囲気は薄れたといわれるものの、質実剛健を旨とした藩の気風を示すが如く清潔で深閑とした趣は残されている。
 上杉家と米沢藩との関りをより深く知るためには、この廟所以外にも米沢市内の上杉神社、伝国の杜(米沢市上杉博物館)、林泉寺などを巡ってみることもお勧めしたい。(志賀 典人)
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補足情報

*上杉家:桓武平氏を祖とする上杉謙信が越後守護代長尾景虎のとき、室町幕府の関東管領上杉憲政に管領職と家名を譲られたのが始まり。謙信と二代景勝は越後春日山城を本拠とした。景勝は豊臣時代の五大老で、会津120万石に移封後、関ヶ原の戦いで石田側に味方し、戦後は米沢30万石に減封。以後幕末まで米沢藩主として代々続いた。四代綱勝の急死で跡目相続未定のため、さらに15万石に減封。5代綱憲は元禄年間(1688~1704年)の江戸城刃傷事件の吉良義央の長男である。9代上杉治憲(鷹山公)は藩政改革を行い、白河藩主松平定信と並び称される名君といわれている。
*法音寺:天正年間(1573~1592年)に聖武天皇の命で諸国巡視をしていた藤原政照の没後、菩提を弔うために建立された寺。上杉家歴代藩主の位碑や謙信の帰依していた泥足毘沙門天などがある。
関連リンク 米澤藩主上杉家廟所(WEBサイト)
参考文献 米澤藩主上杉家廟所(WEBサイト)
参拝のしおり
伝国の杜 米沢市上杉博物館(WEBサイト)
文化遺産データベース(文化庁)
『山形県の歴史散歩』山川出版、2011年

2020年12月現在

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