払田柵跡ほったのさくあと

JR秋田新幹線・奥羽本線大曲駅から東へ約6km、横手盆地の北部、仙北地方の平野部にある真山・長森の2つの小丘陵*1を取り込むように展開する遺跡。遺跡周辺は「あきたこまち」で知られる稲作地帯で水田が広がる。
 払田柵跡の発見は、明治30年代に行われた耕地整理の際、土中から角材が並んで発見されたことが端緒である。規則的・連続的に並び、中には文字が刻まれた角材があることに着目した地元の郷土史家である後藤宙外や、池田家払田分家支配人の藤井東一らの尽力で古代城柵の遺跡であることが判明した。
 1930(昭和5)年10月、文部省が派遣した上田三平によって発掘調査が行われ、外柵の4つの門や材木塀、外郭北門などを発見、遺跡の概要が明らかとなり、この成果をもとに、1931(昭和6)年3月に秋田県内で初めて国指定遺跡となる。1970(昭和45)年代以降には遺跡周辺の総合整備事業が始まり本格的な調査と遺跡の保存復元が実施されるようになった。
 この払田柵は9世紀初頭(801年)*2に、大和朝廷が東北地方を律令体制に取り込もうとして建造した行政と軍事機能を備えた「城柵」と考えられ、10世紀後半にはその役割を終えたといわれている。遺跡の総面積は87.8万m2に及び、2つの丘陵を楕円状に取り囲むように東西1,370m、南北780mの外柵(地上高約3.6m)が設けられていたことが分かっている。政庁は長森の丘陵上に置かれ、正殿・脇殿などを設け、周囲を板塀で囲っていたという。実務を司った建物は政庁からやや離れた長森東側に置かれたと推測されている。また、長森の西側には、主に鉄・銅などの金属の生産加工の場として利用され、丘陵に南面する広々とした平たん部は祭祀関連の遺構・遺物が多く発見されている。
 現在は、外柵の南門と材木塀の一部が復元され、そこから丘陵上の政庁に向かう南大路、外郭南門の柱と石塁が再現されている。丘陵上の政庁だったところからは、掘立柱建物跡が発掘され、建物の位置を平面表示して遺構は保存されている。遺跡全体は遺跡公園として丘陵の杉林を背景として、広々と芝生が敷き詰められ、園路が設けられている。
 復元された外柵南門の近くには「払田柵総合案内所」があり、払田柵の概要などの解説・パネル展示などを行っている。また、道路を挟み、秋田県埋蔵文化財センター*3があり、払田柵を始めとして、秋田県内の遺跡からの発掘品を収蔵・展示している。
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みどころ

周囲の水田の広がりとともに、杉林が繁茂する丘陵を見通す芝生の遺跡公園は開放感があふれ、多賀城跡・秋田城跡等と並ぶ規模を誇ったといわれていることが、実感できる。また、復元された外柵南門及び材木塀、そこから延びる南大路、外郭南門までの道や丘陵上の政庁跡などを巡る園路は、古代におけるこの地の様子を思い起こさせてくれる。政庁跡のある丘陵上からは横手盆地を大きく見渡せ、見事な耕地整理がされた水田が続く。南には鳥海山も遠望することができ、美しい山容をみせている。のんびりと古代のロマンに浸りながらの散策には格好の地だ。
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補足情報

*1 小丘陵:長森の標高は54m、真山の標高は65m。かつて長森には八幡宮が設けられ、真山には中世にこの地を統治していた堀田氏により堀(払)田城が築かれた。菅江真澄もこの地を訪れ、真山は「眞山權現とて石神を齋、靈場也。古城跡にて遠望第一の景地にして舊地也」とし、長森にある八幡宮は「此社を本山と稱ふるは眞山におし並て、雄(男)鹿の嶋山の神なと擬らふものにや」(男鹿半島にある本山・真山にならって名が付けられた)と記述している。
*2 9世紀初頭(801年): 年輪年代測定では外柵が800年及び801年、外郭にも801年に伐採した材木を使用していることが明らかになっており、外柵と外郭は城柵建造と同時に造られ、外郭は終末まで維持されたとみられている。
ただ、この城柵については、当時の歴史書には記載はなく、比定すべき城柵の記述が見つかっていない。このため、学説としても「雄勝城」説や「河辺府説」などがあるが、まだ決着をみていない。
*3 秋田県埋蔵文化財センター:特別展示室があり、秋田県内の遺跡から出土した土器や石器を企画展として随時展示している。入館無料。