屋島やしま

瀬戸内海に突き出た標高292m、南北約5km、東西3kmのテーブル状の高地で、大きな屋根のように見えるため屋島と呼ばれている。約1400万年前に噴出した山上の讃岐岩質安山岩が他の岩石よりも硬く、その後の浸食で取り残され、頂上部が平らになった。典型的な「メサ」と呼ばれる地形であり、南嶺(292m)と北嶺(282m)の2つのピークがある。かつては瀬戸内海に浮かぶ島で、今の相引川一帯は遠浅の海が大きく入り込み、港も存在していたという。史跡としては、古代山城の「屋嶋城(やしまのき)」や鑑真の創建と伝えられる屋島寺、源平合戦*の古戦場跡をはじめとした歴史的由緒をもつ場所が多くある。
 山上からの眺めは瀬戸内海国立公園の中でも随一で、国立公園の指定の決め手になったともいわれている。南嶺西側にある獅子の霊巌からは瀬戸大橋や多島海に沈む夕陽、高松市街の夜景を眺められる。南嶺東側にある談古嶺からは対岸の五剣山を望み、眼下には源平の古戦場を、北嶺の北端に近い遊鶴亭からは320度のパノラマが広がり、女木島がすぐ間近に見え、天候がよければ本州の山並みまでも見渡せる。そのほかにも山上には水族館や旅館、レストハウス、土産物店があり、観光地らしい賑わいを見せている。遍路道をはじめとする山麓からの登山道、南嶺と北嶺を結ぶ遊歩道も整備されていて、山歩きやピクニック、野鳥や植物などの観察に訪れる人も多い。
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みどころ

屋島は瀬戸内海や高松市内の多くの場所から見ることができるため、地元ではランドマークとして親しまれている。スカイウェイを利用して山上に着くと、平坦部が意外と広く、周回の散策路が整備されている。屋島寺から獅子の霊巌、新屋島水族館にかけてが最も賑わうところで、獅子の霊巌では開運の「かわらけ投げ」が定番。東側の談古嶺からは「船隠し」「那須与一扇の的」「義経の弓流し」など源平合戦ゆかりの地が眼下に広がる。北嶺の遊鶴亭までは観光地の南嶺とは対照的に静かで自然豊かな遊歩道を尾根伝いに進む。山上駐車場から片道30~40分ほどかかるが、途中、創建当時の屋島寺があったとされる千間堂跡に広場が整備されており、休憩に最適。ここからは周回路になっており、往復で異なるコースを歩くことも可能である。展望所はこのほかに、讃岐平野や阿讃山脈が望める南嶺南端の冠ヶ巌展望台や屋嶋城の復元に合わせてできた西尾根展望台がある。遊鶴亭から北へ下山すれば、北端の長崎ノ鼻まで行くこともできる。(勝田 真由美)
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補足情報

*屋島ノ合戦:1183(寿永2)年、木曽義仲に京を追われ、いったんは九州に入った平氏は、幼い安徳天皇を奉じて屋島に本拠を移した。1184(元暦元)年1月、平氏は源頼朝の義仲追討に乗じて、摂津国の福原(現在の神戸)を奪還したが、翌2月、一ノ谷の合戦で源義経の奇襲に遭い、再び屋島に退いた。翌1185(元暦2)年2月、義経は暴風雨を利用して摂津から阿波へ渡り、陸路で屋島の対岸の高松(現在の古高松)に出た。そして、民家に火にかけて一挙に総門を占拠し浅瀬を渡って屋島に攻め込んだ。海上戦に備えていた平氏は不意を打たれて、いったんは海に逃れたが、その後、両軍対峙する乱戦となり「那須与一扇の的」、「義経の弓流し」などの場面が展開された。この戦で源氏方では義経を守って矢面に立った佐藤継信が戦死したが、源氏の後続部隊が到着したため、平氏は西に敗走し、翌月、長門の壇ノ浦で滅亡する。