広村堤防ひろむらていぼう

JR紀勢本線湯浅駅より南西へ約1km。湯浅広港に向かって並行に南にのびる内外2重の防波堤である。海に向かって前方の石垣は、室町時代に畠山氏*1が築いたものである。後方の土手は、濱口梧陵*2が私財を投じて1855(安政2)年に着工、延べ5万6700余人の労力と4年間の歳月を費やして築いた高さ5m、根幅20m、延長600m余の大防波堤である。1938(昭和13)年に国の史跡指定を受け、2018(平成30)年に追加指定も受けた。
 石垣と土手の間には防潮林が植えられ、3段構えで波を防ぐ工夫がされている。1946(昭和21)年の昭和南海大地震では土手の間際まで海水が押し寄せたが、この堤防により阻まれた。現在も台風による高潮や津波から町を守っている。
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みどころ

広川町の海岸には、多数の松が立ち並び、土盛りの堤防が海との緩衝地帯となっており、さらに沖の突堤、海沿いの石堤と多重の防御システムが構築されている。堤防に添うように形成された町並みには豪壮な木造三階建の楼閣がそびえている。重厚な瓦屋根、漆喰や船板の外壁が印象的な町家が、高台に延びる通りや小路に面して軒を連ねる様からは、避難を意識した町が築かれていると感じることができる。
 安政津波の避難場所となった 廣八幡宮は、被災後には犠牲者の鎮魂と町の活性化を祈願し、神楽を舞い、餅撒きを執り行うなど、復興をめざす人々を励まし元気づけた。広八幡神社は今も崇敬を集め、暮らしと結びついた避難場所として人々に意識されている。
 広村堤防から海岸とは反対側に500mほど入ったところに、濱口梧陵記念館*3と津波防災教育センターからなる「稲むらの火の館」がある。濱口梧陵が自らの稲むらに火を放って住民を救った「稲むらの火」*4の物語や津波防災に関する様々な資料がわかりやすく展示されている。
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補足情報

*1 畠山氏:1400(応永7)年から1515(永正12)年の約110年余りの間、紀伊国守護職に就いた一族である。畠山氏は、広庄天洲の浜を埋め立て居館を作り、海岸沿いに四百間余の波除石垣を築いた。
*2 濱口梧陵:広村(現在の広川町)で分家濱口七右衛門の長男として生まれ、12歳の時に本家の養子となり、千葉県銚子での家業であるヤマサ醤油の事業を継いだ。1854年(安政元年)、広村に帰郷していた際、突如大地震が発生し、紀伊半島一帯を大津波が襲った。折しも津波が押し寄せた時刻は夜間であり、梧陵は稲束を積み重ねた「稲むら」に火を放ち、この火を目印に村人を誘導して安全な場所に避難させた。これが「稲むらの火」として今に語り継がれている物語である。被災後、津波により村には大きな爪痕が残され、変わり果てた故郷の姿を目にした梧陵は被災者用の小屋の建設や農漁業具の提供をはじめ、各方面において復旧作業に尽力した。広村堤防は後の津波から村人の命と故郷を守りたいという梧陵の強い思いを体現した史跡である。
*3 濱口梧陵記念館:旧濱口家の敷地と邸宅であった住居の寄贈を受け、梧陵の偉業や精神を広く発信するため顕彰館として整備された。美しい庭園もある。
*4 「稲むらの火」:この出来事は、1897(明治30)年に明治の文豪小泉八雲(Lafcadio Hearn)により「生ける神(ALiving God)」として世界に発表された。その後、1937(昭和12)年から10年間、小学国語読本(5年生用)に「稲むらの火」のタイトルで教科書にも掲載。不朽の防災教材とされた。