ロシア兵墓地
日露戦争で捕虜となり、この地で亡くなったロシア兵の墓が、ロシア兵墓地である。日露戦争が始まった1904(明治37)年、松山市に全国初の収容所が設けられた。松山が捕虜収容所となった理由としては諸説あるが、港があり輸送に便利なこと、気候が温暖であること、港から街まで鉄道があったことなどが理由といわれている。捕虜収容所には、延べ6,000人に達したとも言われる捕虜が収容された。当時の松山市の人口は約30,000人であった中、多い時には4,000人を超える捕虜が松山にいたといわれている。
ロシア兵墓地は、1960(昭和35)年に現在の場所に移転され、観光施設として駐車場や多目的トイレ、スロープなどが整備されている。墓地には、国に戻ることなく亡くなったワシリー・ボイスマン海軍大佐ら捕虜98名が埋葬されている。柱を断ち切った形をした1mほどの高さの石の墓碑が並び、その墓碑には、日本文字で銘が刻まれている。埋葬者の出身地は、当時の広大なロシア帝国の各地に及んでおり、ロシアやポーランドに限らず、現在のウクライナ、ベラルーシ、バルト諸国、中央アジア諸国が含まれている。1961(昭和36)年から毎年慰霊祭を開催しており、また地元の中学生や市民による清掃活動が続けられている。
ロシア兵墓地は、1960(昭和35)年に現在の場所に移転され、観光施設として駐車場や多目的トイレ、スロープなどが整備されている。墓地には、国に戻ることなく亡くなったワシリー・ボイスマン海軍大佐ら捕虜98名が埋葬されている。柱を断ち切った形をした1mほどの高さの石の墓碑が並び、その墓碑には、日本文字で銘が刻まれている。埋葬者の出身地は、当時の広大なロシア帝国の各地に及んでおり、ロシアやポーランドに限らず、現在のウクライナ、ベラルーシ、バルト諸国、中央アジア諸国が含まれている。1961(昭和36)年から毎年慰霊祭を開催しており、また地元の中学生や市民による清掃活動が続けられている。
みどころ
収容所は全国各地にあったが、捕虜兵の博愛処遇が徹底されていたことから、松山がもっとも有名であったといわれている。また、外出も自由で、温泉や観劇等を楽しみ、地域住民との交流も行われた。その噂は戦地のロシア兵の間にも広がり、彼らが投降の際には「マツヤマ」と叫んだともいわれている。2019(平成31・令和元)年には、史実に基づく絆をテーマにした映画「ソローキンの見た桜」が公開された。
国際交流のかけ橋となった彼らの墓碑は、祖国を望むように北向きに建てられている。これは、異国の地で亡くなった方々に、せめて祖国を眺めながら眠ってほしいという地域住民の思いが込められている。流れる静かな時間を感じるとともに、祖国の地を踏むことができず亡くなった彼らに思いを馳せ、平和への誓いを新たにしたい。
国際交流のかけ橋となった彼らの墓碑は、祖国を望むように北向きに建てられている。これは、異国の地で亡くなった方々に、せめて祖国を眺めながら眠ってほしいという地域住民の思いが込められている。流れる静かな時間を感じるとともに、祖国の地を踏むことができず亡くなった彼らに思いを馳せ、平和への誓いを新たにしたい。
関連リンク | 松山市(WEBサイト) |
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関連図書 | ソローキンの見た桜(2019年、 豊田美加著) 坂の上の雲(司馬遼太郎著) マツヤマの記憶―日露戦争100年とロシア兵捕虜(2004年、松山大学著) |
参考文献 |
松山市(WEBサイト) 四国瀬戸内松山(松山市)(WEBサイト) |
2022年11月現在
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