前田家墓所
金沢市街の南、野田山丘陵の傾斜地にある、加賀藩前田家歴代の藩主・正室および一族の墓地。加賀藩藩祖の前田利家(としいえ)の遺言でこの地に墓が造られて以降、歴代藩主や正室、子女など、約80基が一堂に会す。6万㎡を超える広い墓所に並ぶ墓のほとんどは、土を盛った古墳式で、石の墓標が立てられている。なお、墓所の中で6代吉徳の左にある富子(ふうこ)姫*の墓は陵墓として宮内庁の管理下にある。また、前田家の墓所は野田山丘陵の最高所にあるが、その下方には重臣だった加賀八家(かがはっか)*ほか、前田家の家臣や町人たちの墓も連なっている。明治以降は、金沢市民の墓地として開放され、現在も市民墓地(市営墓地)として営まれている。

みどころ
規模や威厳、独特の形態や意匠に注目してみる価値があるのが前田家墓所だ。霊地としても墓制の実態を示し、近世最大の藩主の権勢をうかがわせる歴史的な文化財でもある。墓地の置かれた野田山は、豊かな自然に恵まれ、山腹からの金沢の街の眺望も一見に値する。金沢出身の多くの著名人や一般市民の墓が集まる里山としても親しまれ、史跡探訪・歴史散歩のコースとしても興味深い。敷地の広大さも含め、対馬の宗家墓地、山口の毛利家墓地とともに「日本三大墓地」と称されることもある。山麓にある大乗寺は、禅宗の古刹として雰囲気のある寺院で、加賀八家の本多家の菩提寺としても知られる。

補足情報
*富子姫:3代利常と珠子の第4女。桂離宮を造営した八条宮智仁親王の嗣子智忠親王妃となった。
*加賀八家:5代藩主綱紀による職制改革で、1690(元禄3)年に確立した、加賀藩年寄(家老)職にあたる門閥の通称。前田家や本多家など8家あったことが名の由来。1万石以上の禄高を世襲した家臣をさす。
*1587(天正15)年、初代藩主利家の兄利久を葬ったのが墓地の始まりとされている。
*史跡指定された「加賀藩主前田家墓所」は、加賀・越中・能登三か国を領有した加賀藩主前田家の墓所を網羅すべく、金沢市野田町野田山の前田家墓所と高岡市の前田利長(としなが)墓所の2カ所からなる。
*加賀八家:5代藩主綱紀による職制改革で、1690(元禄3)年に確立した、加賀藩年寄(家老)職にあたる門閥の通称。前田家や本多家など8家あったことが名の由来。1万石以上の禄高を世襲した家臣をさす。
*1587(天正15)年、初代藩主利家の兄利久を葬ったのが墓地の始まりとされている。
*史跡指定された「加賀藩主前田家墓所」は、加賀・越中・能登三か国を領有した加賀藩主前田家の墓所を網羅すべく、金沢市野田町野田山の前田家墓所と高岡市の前田利長(としなが)墓所の2カ所からなる。
関連リンク | 金沢市(WEBサイト) |
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参考文献 |
金沢市(WEBサイト) 金沢旅物語(金沢市観光協会)(WEBサイト) 『加賀藩墓地めぐり 金沢・野田山に眠る人々』中山善壱 北國新聞社 『野田山の墓碑を訪ねて』金沢市観光課 『金沢墓誌』和田文次郎 加越能史談会 |
2023年08月現在
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