新居関跡あらいのせきあと

JR東海道本線新居町駅から西へ800mのところにある。箱根の関とともに東海道の重要な関所であり、当時の建物が現存する全国唯一の関所跡である。1600(慶長5)年に徳川家康により設置され、当初は今切(遠州灘の浜名湖開口部)近くにあったため、今切関*1と呼ばれ、1707(宝永4)年の大地震の翌年に二度目の移転で現在地へ移った。関所の敷地は約1860坪(約6200m2)で、東と北は湖水に接し、面番所・船会所・女改之長屋・土蔵などの建物があった。現在は埋め立てにより周囲は陸地となっている。
 この関所では特に「入鉄砲出女」*2の詮議がきびしいことで有名だった。またここを避け、浜松の北から湖北を回る姫街道*3を通るルートもあった。1854(嘉永7)年の地震で倒壊したため、現存の建物は1855(安政2)年から1858(安政5)年にかけて建て替えたもの。国の特別史跡に指定されている。
 現在は、間口11間(約20m)、奥行3間半(約6m)の面番所や、関所を通行する女性を取り締まる改女(あらためおんな)の住居であった女改之長屋などを一般公開しており、このほかにも今切渡船場の石垣・護岸や関所入口の枡形広場の土塁柵、高札場、大御門などを復元している。
 新居関所史料館には関所関係の文献や遺品をはじめ、旅道具、道中絵図などが展示されている。
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みどころ

ここでのみどころは、なんといっても江戸時代の関所が現存している唯一の建造物の見学だろう。取り調べ、改めがなされたという面番所などの構造をみれば、いかに厳めしい雰囲気のなかで詮議が行われたかは想像に難くない。関所跡では、史料館をはじめ、各所に関所、街道に関する解説資料の掲示、史料の展示がなされ、興味深い。関所跡周辺にはかつての旅籠や芸者置屋なども内部を公開しているので、町歩きをしてみるのもよい。
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補足情報

*1 今切関:浜名湖の遠州灘に向かっての開口部である今切が出来る以前、新居(荒居、荒井、新井などとも表記)の浜名川の河口近くに浜名橋が架けられており、『日本三代実録』の884(元慶8)年9月1日の条に「遠江国濵名橋長五十六丈。廣一丈三尺。高一丈六尺。貞観四年(八六二)修造。歴二十餘年、既以破壊。勅給彼國正税稲一萬二千六百四十束改作焉」と、862(貞観4)年には長さ約170m、幅4mほどの橋が修造され、884(元慶8)年に改修したことが記録されている。また、清少納言の『枕草子』でも「橋は あさむづの橋。ながらの橋。あまびこの橋。 浜名の橋。・・・後略・・・」としても書かれており、古代、中世からこの地が重要な街道筋にあたったことが分かる。なお、この橋があった頃は浜名湖は淡水湖であったが、1498(明応7)年の大地震と高潮で大幅に地形が変わり汽水湖化され、「今切の渡し」として舟運でつなぐことになった。のちに西岸に今切関(新居関)が設けられた。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』でも今切の渡しの船頭が新居関に着いた際、「サア〳〵お関所まへでござる。笠をとって、ひざをなをさつしゃりませ、ソレ〳〵舟があたりまするぞ」と乗船者に声をかける様子を描いている。                                                             
*2 「入鉄砲出女」:幕府は江戸を防御するため、主な街道に50以上の関所を設置、江戸に入る鉄砲と出ていく女性について厳しく取り締まった。とくに新居関は設置当初の約100年間、幕府直轄として厳重な警備体制をとっていた(1702⦅元禄15⦆年から三河吉田藩に移管)。                                                                               
*3 姫街道:東海道の脇往還。見付や浜松から三方ヶ原、気賀、三ケ日を経て本坂峠を越え、御油(豊川市)で再び東海道に合流する。今切の渡しの海難と、新居関のとくに女性に対する厳しい取り調べを嫌って、この街道を利用する女性が多かったことからこの名が付いた(諸説あり)。毎年3月の最終土曜日には「姫様道中」が気賀の都田川堤で行われる。

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