侍塚古墳群
大田原市南部の湯津上地区に11基の古墳が集まる。中でも国道294号沿い東側に下侍塚古墳、さらに約800m南下したところにある上侍塚古墳は、いずれも国指定史跡となっている。
4~5世紀ごろの古墳で、上侍塚は全長114m、下侍塚は全長84mある。近くにある那須国造碑に刻まれた人物の墓を解明するために、1692(元禄5)年、徳川光圀により両古墳は発掘され、鏡・管玉・土師器などが出土したことで知られている。下侍塚古墳は外観の保存がゆきとどき、前方後方墳の特徴がひと目でわかる。
4~5世紀ごろの古墳で、上侍塚は全長114m、下侍塚は全長84mある。近くにある那須国造碑に刻まれた人物の墓を解明するために、1692(元禄5)年、徳川光圀により両古墳は発掘され、鏡・管玉・土師器などが出土したことで知られている。下侍塚古墳は外観の保存がゆきとどき、前方後方墳の特徴がひと目でわかる。
みどころ
樹齢100年ほどのアカマツが生え、前方後方墳の特徴がひと目でわかる下侍塚古墳は、外観の保存がゆきとどき、美しい。徳川光圀が那須国造碑を解明するために、上・下の両侍塚古墳を発掘させたことは、当時としては画期的であり感慨深い。(溝尾 良隆)
補足情報
*徳川光圀が那須国造碑を精査し、保存(現在の碑が納められている堂は、光圀が創設)させた。さらに光圀は碑主の解明をめざして、両侍塚古墳を発掘させた。この地域に光圀が関わり合うのは、水戸藩は隣の那珂川町馬頭まで領有していたからである。
*光圀が発掘を命じ、出土遺物を採図のうえ、埋め戻した行為は、日本考古学における発掘調査の始まりと言われている。
*光圀が発掘を命じ、出土遺物を採図のうえ、埋め戻した行為は、日本考古学における発掘調査の始まりと言われている。
関連リンク | 大田原市(WEBサイト) |
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参考文献 |
大田原市(WEBサイト) Oh!大田原(大田原観光協会)(WEBサイト) 『栃木県の歴史散歩』山川出版、2007年 |
2022年06月現在
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