藤原宮跡
近鉄大阪線大和八木駅から東南へ約2.4km、JR桜井線(万葉まほろば線)畝傍駅から東南へ約1.8kmのところに藤原京の中心であった藤原宮跡がある。大和三山に囲まれた地域に694(持統天皇8)年から710(和銅3)年に平城京へ遷都されるまでの16年間、持統・文武・元明*1の3代の天皇が営んだ宮跡。藤原宮は藤原京のほぼ中心に位置し、その規模は、東西925.4m、南北906.8m、面積は約84万m2にもおよぶ。
藤原宮は3つの区域に分けられ、中央区には大極殿・朝堂院・朝集殿*2といった政治の中枢となる施設が北から南に並び、大極殿の北に天皇の住まいである内裏が置かれた。また、東・西区には行政の実務を執り行う役所が建ち並んでいた。
藤原京の大きさは従来、西端を下ツ道*3、東端を中ツ道*4、北端を横大路*5とした東西2.1km、南北3.2kmと推定されていた。しかし、近年の発掘調査結果から現在では、東西約5.2km、南北約4.8km、平城京をしのぐ広大な都だったとされている。京内は条坊制により大小の道路で碁盤目状に区切られ、3万人ほどが住んでいたと推定。短期間ではあるものの、藤原京は日本最初の都城制を敷いた都であった。
現在の藤原宮跡では、季節ごとに、菜の花、ハナハス、コスモスなどが植栽され、遺構が保存されており、発掘調査が続けられている。藤原宮跡の大極殿跡の西側には藤原京の復元模型がある橿原市藤原京資料室*6があり、東南1kmのところには発掘などの調査研究の成果を展示する奈良文化財研究所藤原宮跡資料室*7がある。
藤原宮は3つの区域に分けられ、中央区には大極殿・朝堂院・朝集殿*2といった政治の中枢となる施設が北から南に並び、大極殿の北に天皇の住まいである内裏が置かれた。また、東・西区には行政の実務を執り行う役所が建ち並んでいた。
藤原京の大きさは従来、西端を下ツ道*3、東端を中ツ道*4、北端を横大路*5とした東西2.1km、南北3.2kmと推定されていた。しかし、近年の発掘調査結果から現在では、東西約5.2km、南北約4.8km、平城京をしのぐ広大な都だったとされている。京内は条坊制により大小の道路で碁盤目状に区切られ、3万人ほどが住んでいたと推定。短期間ではあるものの、藤原京は日本最初の都城制を敷いた都であった。
現在の藤原宮跡では、季節ごとに、菜の花、ハナハス、コスモスなどが植栽され、遺構が保存されており、発掘調査が続けられている。藤原宮跡の大極殿跡の西側には藤原京の復元模型がある橿原市藤原京資料室*6があり、東南1kmのところには発掘などの調査研究の成果を展示する奈良文化財研究所藤原宮跡資料室*7がある。
みどころ
現在の藤原宮跡は、野原や田んぼが広がり、発掘調査で確認された一部の建物跡には礎石や柱の位置を示す模造柱が立てられている。また、大和三山の美しい山容を見渡すことができ、宮跡には植栽された草花が季節ごとに咲き競う。万葉集所載の「藤原宮の御井の歌」(詠人不詳)では、藤原宮の東にあった「埴安の池の堤」に天皇が立って見渡せば、「大和の 青香具山は 日の経の 大御門に春山と 繁さび立てり 畝火の この瑞山は 日の緯の 大御門に 瑞山と 山さびいます 耳無の 青すが山は 背面の 大御門に宜しなへ 神さび立てり」(大和の青々と茂った香具山は、東の御門のところにいかにも春の山らしく木々が生い繁っている。この瑞々しい畝傍山は、西の御門のところに如何にも山らしく立っている。青々と菅の生い茂っている耳無山は、北の御門のところに如何にも相応わしく神々しく 立っている。名もめでたい吉野山は、南の御門から遥か空の彼方に遠く見える。佐佐木信綱訳)と三山の景観を詠み、寿いでいる。また、この景観と合わせ、奈良文化財研究所藤原宮跡資料室の展示解説などもみて、万葉の時代に思いを馳せるのもよい。
補足情報
*1 持統・文武・元明:「日本書紀」の675(天武天皇4)年の項に「是の年、将に新城(にいき)に都つくらむとし」と、新しい都を造営する意志を見せたが、その後崩御したため、実際には藤原宮に遷ることはなかった。実際に遷都したのは694(持統天皇8)年で「日本書紀」には、同年の12月に至り「藤原宮に遷り居(ま)す。戌午、百官拝朝す」としている。元明天皇は「続日本紀」によれば710(和銅3)年の3月の項に「始めて平城(なら)に都を遷す」として、藤原京から平城京への遷都を行っている。
*2 大極殿・朝堂院・朝集殿:大極殿は天皇が重要な政治や儀式を行うところで、その大きさは正面45m、奥行21m。当時日本最大の建物だった。朝堂院は貴族や役人たちが政務や儀式などを行った空間で、南北約320m、東西約235mの区画に12棟の建物が東西対象に並ぶ。朝集殿は役人たちが朝堂院に入る前に前に待機したところで、南北に長い2棟の建物が東西に相対する。
*3 下ツ道:平城京羅城門~田原本~八木~見瀬へ至る古代の幹道。さらに北は近江へ、南は吉野へ向かう。
*4 中ツ道:下ツ道の東側にあり、平城山~奈良市北之庄~田原本村屋神社~耳成山東北麓~橘寺を通る。
*5 横大路:桜井~八木~大和高田~近鉄磐城駅、磐城から竹内街道を経て難波へ出る。
*6 橿原市藤原京資料室:JAならけん橿原東部経済センター2階にある。1/1,000スケールの藤原京の復元模型や、瓦などの出土品、当時の柱を再現したものなどを展示。毎週月曜日(月曜日が祝日の場合は、その翌日)、年末年始が休室。入室無料。
*7 奈良文化財研究所藤原宮跡資料室:発掘調査による出土品、復元資料、解説パネルなどを展示。CGによる藤原京の再現映像も見られる。年末年始・展示替え期間を除き通年開館。入館無料。
*2 大極殿・朝堂院・朝集殿:大極殿は天皇が重要な政治や儀式を行うところで、その大きさは正面45m、奥行21m。当時日本最大の建物だった。朝堂院は貴族や役人たちが政務や儀式などを行った空間で、南北約320m、東西約235mの区画に12棟の建物が東西対象に並ぶ。朝集殿は役人たちが朝堂院に入る前に前に待機したところで、南北に長い2棟の建物が東西に相対する。
*3 下ツ道:平城京羅城門~田原本~八木~見瀬へ至る古代の幹道。さらに北は近江へ、南は吉野へ向かう。
*4 中ツ道:下ツ道の東側にあり、平城山~奈良市北之庄~田原本村屋神社~耳成山東北麓~橘寺を通る。
*5 横大路:桜井~八木~大和高田~近鉄磐城駅、磐城から竹内街道を経て難波へ出る。
*6 橿原市藤原京資料室:JAならけん橿原東部経済センター2階にある。1/1,000スケールの藤原京の復元模型や、瓦などの出土品、当時の柱を再現したものなどを展示。毎週月曜日(月曜日が祝日の場合は、その翌日)、年末年始が休室。入室無料。
*7 奈良文化財研究所藤原宮跡資料室:発掘調査による出土品、復元資料、解説パネルなどを展示。CGによる藤原京の再現映像も見られる。年末年始・展示替え期間を除き通年開館。入館無料。
関連リンク | 橿原市観光政策課(WEBサイト) |
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参考文献 |
橿原市観光政策課(WEBサイト) 奈良県歴史文化資源データベース「いかす・なら」(WEBサイト) 佐佐木信綱 校・訳 「万葉集(現代語訳付)」kindle版 黒板勝美編「日本書紀 訓読 下巻」岩波書店 昭和7年 138・171/183 国立国会図書館デジタルコレクション 「国史大系 第2巻 続日本紀」経済雑誌社 1897~1901年 38/405 国立国会図書館デジタルコレクション |
2024年12月現在
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