板東俘虜収容所跡 ばんどうふりょしゅうようじょあと

JR高徳線板東駅の北西に、第一次世界大戦時のドイツ兵の捕虜収容所跡地がある。第一次世界大戦が始まると、日本も参戦し、ドイツの租借地だった中国山東半島にあるチンタオ(青島)を攻撃。敗れたドイツ兵士約4,600人 が俘虜となり、日本各地の収容所へ送られた。大戦の長期化に伴い、四国の徳島・丸亀・松山にいた俘虜953人を一か所に集めるため、板東俘虜収容所を新設し、ここに俘虜たちを移した。彼らは1917(大正6)年から1920(大正9)年までの約3年弱をここで過すことになった。
収容所は約5万7,000m2。8棟の兵舎や26棟の洋風建物を中心に、将校たちの別荘、パン工房、浴場、病院、ボウリング場などがあった。「諸子を遇するに博愛の精神を縦糸に、武士の情けを横糸にしたい」という松江豊寿所長*の考えで、俘虜たちは朝夕の点呼以外は自由が許された。所内では家具などの生活用具をつくったり、新聞を発行、演劇や音楽も楽しんだ。事実上外出も自由で、ドイツが敗北後は、俘虜たちの別荘*も建設が許可され、コテージが200戸近く立ち並んだ。
 1918(大正7)年6月1日、第一バラッケ(独語baracke,仮兵舎・掘立小屋の意、現在、県営住宅が建つ)でドイツ兵たちがベートーベンの第九交響曲の全楽章を演奏した。これが日本最初の第九の演奏*となった。45人で構成する本格的なものであった。楽器は軍楽隊が携えてきたほか、救援団体からの差し入れがあり、不足の楽器は兵士たちが手づくりで整えた。
 町の人たちは、牧畜や製パン技術、西洋野菜栽培、建築、音楽、スポーツなどの指導を受けた。住民は捕虜たちを「ドイツさん」と呼び親しんだ。ドイツ兵が帰国を前に住民へのお礼として建造しためがね橋とドイツ橋が当時のままの石組みの美しさを見せる。
 現在は俘虜収容所の3分の1が「ドイツ村公園*」として保存されている。収容所跡の北方約700mには、日独親善友好の架け橋として「鳴門市ドイツ館*」が建設されている。隣接して鳴門市出身でキリスト教社会運動家として知られる「鳴門市賀川豊彦記念館」があるが、建物はかつての牧舎がモデルになっている。牧舎は、ドイツ村公園の南、野上の北に残る「船本家牧舎(旧富田畜産部牧舎)」で、設計は、俘虜で建築技師のシュラーダーで、地元の大工・左官、俘虜らが協力して建てたもの。
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みどころ

当時、板東町の人口は約5,100人、ここに町民の2割近いドイツ人捕虜が暮らしていた。捕虜たちも外出が許されたので、町民と交流が盛んに行われた。四国で初めて、キャベツや玉ねぎなどの西洋野菜が栽培され、ウイスキーやブランデーの製造法、家畜の去勢法、ドイツ式の牧場経営も彼らが伝授した。捕虜直伝のパン作りを続けている「ドイツ軒」が今も鳴門に残っている。
 1918(大正7)年、捕虜は解放されたが、全国的にみると169名が日本に残った。その中にもともと東京帝国大学で経済学を講じていたので復職した人やバウムクーヘンで知られる洋菓子店を横浜に開き、そして神戸に移り、自らの名の店で開いたカール・ユーハイム(似島収容所の捕虜)、ソーセージなどで知られるローマイヤーをつくったアウグスト・ローマイヤー(久留米収容所の捕虜)などがいる。今ではすっかりおなじみとなったドイツ文化は、捕虜たちから広まったものが多い。
  鳴門市では6月1日を「第九の日」と定め、今でも6月の第1日曜日に第九を演奏しており、第九発症の地での演奏を聴きに全国各地から
訪れる。
 道の駅「第九の里」の建物は、バラッケを模し、天井や梁は当時の材木が使われている。
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補足情報

*松江豊寿所長:ドイツ政府の要請で、中立国アメリカの調査官が、日本国内の捕虜収容所20か所を視察した結果「徳島(板東)だけは例外だ」と報告。松江所長の捕虜に対する基本的姿勢は、旧会津藩士の長男と生まれ、父から、戊辰戦争に敗れ、1万7,000余人が、北の最果ての斗南藩に移住させられ辛酸をなめた経験を知っているからといわれる。収容所長時代は陸軍中佐、後、大佐・少将になる。そののち、郷里の会津若松市長に推されて3年を務める。
*別荘:将校たちの別荘は、しっかりとした建物で用意されていたが、その他捕虜たちの別荘とはいっても、2坪(6.6m2)ほどの小屋で、収容所裏山一帯に、最盛時は200余も並んだ。小さい小屋でも、一人で居られる息抜きの場所であった。
*日本最初の第九の演奏:今日、年末になると日本中がベートーベンの第九にわくこともあり、鳴門市の板東が日本最初の第九の演奏の地として注目されているが、1918(大正7)年4月28日、ベートーベンの「交響曲 第五番 運命」の演奏も、日本での初演といわれている。なぜ、収容所では音楽が盛んだったのか。実は、板東にくる以前に、徳島市の収容所に45名からなる徳島オーケストラと22名からなる沿岸砲兵吹奏楽団があった。丸亀も45名からなるエンゲルオーケストラがあった。この二つのオーケストラだけでも板東に来て、2か月間で7回の公演を行っている。そのほかに、少人数のシュルツ・オーケストラ、60名の合唱団、マンドリンクラブ、演劇集団もあった。板東を去る3年弱の間に122回にのぼる音楽・演劇の活動が行われた。
*ドイツ村公園:バラッケ跡に古いレンガの基礎が残り、舟遊びをした池、ほとりに四国の収容所で亡くなった11人の捕虜をまつる墓が残る。第九演奏のをした第一バラッケ跡の県営住宅に、劇場跡を示す標識がある。1976(昭和51)年にドイツと共同で兵士合同慰霊碑が、1983(昭和58)年にばんどうの鐘が建立された。
*鳴門市ドイツ館:ドイツ村公園内に、ドイツ兵俘虜953名との友好関係を記念して建設された記念館。1972(昭和47)年に旧ドイツ館が建設され、1993(平成5)年に、姉妹都市ドイツ・リューネブルク市の市庁舎を模した新しいドイツ館が完成した。2階の展示室ではジオラマで収容所を再現し、所内で発行していた当時の新聞や紙幣などが展示されている。第九シアターでは、当時のドイツ兵たちの音楽活動が紹介され、等身大の人形が演奏を聴かせてくれる。姉妹都市リュネーブルク市の資料も展示・紹介している。映画「バルトの楽園」(2006(平成18)年)のロケ地となっている。
関連リンク 鳴門市ドイツ館(WEBサイト)
参考文献 鳴門市ドイツ館(WEBサイト)
『徳島県の歴史散歩』福島県高等学校地理歴史・公民科(社会科)研究会 山川出版社
『望郷のシンフォニー 「第九」日本初演事情』林啓介 長征社
『独軍捕虜1000人の「板東の思い出」』週刊YEAR BOOK 目録20世紀 1919 大正8年、講談社

2023年02月現在

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