石見銀山遺跡いわみぎんざんいせき

大田市域の南西の山峡にある、近世から近代にかけて栄えた鉱山遺跡。石見銀山は1527(大永7)年に九州博多の豪商神屋寿禎(かみやじゅてい)によって発見された。以後、室町・戦国の両時代を通じて、銀山は大内・尼子(あまこ)・毛利・小笠原4氏の、激しい攻防にさらされることになった。この結果、1562(永禄5)年ついに銀山の守り山吹城(やまぶきじよう)*の開城に成功した毛利氏のものとなった。この間にも石見銀山は着々と開発され、人口は増加していった。しかし、1600(慶長5)年の関ケ原の戦いに敗れた毛利氏は、この銀山の領有権を失い、徳川幕府の天領となった。
 幕府は大森町に奉行所を置き、初代奉行に大久保長安(おおくぼながやす)*を送り、銀山をはじめ周辺の天領4万8,000石を管理させた。その後、産額は著しく増え、年間3,600貫に及んだが、江戸末期には50貫*ほどに衰え、1923(大正12)年、ついに廃坑となった。
 今は廃坑になっているが、谷間にぎっしりと赤瓦を敷きつめたような大森の町並みはかつての鉱山町として栄えた当時の姿を残しており、重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。随所に白壁の旧旅篭や旧商家が見られ、代官所跡や数多くの社寺・間歩(まぶ)*が残っている。
 2007(平成19)年世界遺産に登録。2020(令和2)年に日本遺産「石見の火山が伝える悠久の歴史~”縄文の森””銀の山”と出逢える旅へ~」の構成文化財となる。
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みどころ

世界遺産に登録されるほど歴史的価値の高い遺跡や文化的景観を見学することができる。遺跡と自然環境が一体となって文化的景観を形成している点が高く評価されているように、周辺の自然と調和した光景を見ることができる。内部は掘削状況をそのまま残しており、当時の作業の様子をうかがい知ることができる。
 「龍源寺間歩*」は一般公開しており、「大久保間歩*」は大久保長安が馬に乗り槍を持ち入ったという伝承が残る石見銀山最大級の間歩となっているなど、各間歩により特色がある*。歴史的背景や見所を把握して臨むためにも、石見銀山世界遺産センターで基礎知識を得てから見学したい。
 また、遺跡を見学する際はガイドと回ることをお薦めしたい。
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補足情報

*山吹城跡:大森町の北西にそびえる山吹山頂にあった。現存するのは石垣・土塁のみ。
*大久保長安(おおくぼながやす):1545(天文14)~1613(慶長18)年。大久保石見守。江戸初期の鉱山奉行。出身は甲斐、猿楽師の子。徳川家康に仕え、佐渡・石見・伊豆の鉱山の開発に功があった。死後、生前に不正があったといわれ、家は断絶した。墓は大森町の中央部にひっそりと立つ。
*貫:尺貫法の重さの単位。1貫は1000匁(もんめ)、すなわち3.75kgで、1891(明治24)年から1958(昭和33)年まで商取引で用いられた。
*間歩:鉱山の坑道のこと。やま・敷ともいう。石見銀山には最盛期280口もあったと伝える。現在、史跡に指定されている新切(しんきり)・福神山(ふくじんやま)・龍源寺(りゅうげんじ)などの7間歩のほか、数口がある。
*龍源寺間歩(りゅうげんじまぶ):石見銀山の奥。石見銀山遺跡に多く存在する坑道のうち、唯一常時公開されている幕府直営の坑。内部の壁のノミ跡が生々しい。
*大久保間歩(おおくぼまぶ):石見銀山最奥、仙の山南側。江戸時代初期の坑道で、天井が高く、幅も広く、石見銀山の中で最大規模の坑道の一つ。
*各間歩により特色がある:主な間歩は以下の通り。
・新切間歩(しんきりまぶ):石見銀山入口にある坑道。初めて疎水坑(排水坑)を本坑道の下に作った坑道。見学できる。
・福神山間歩(ふくじんやままぶ):石見銀山入口の坑道。幕府直営の御直山にもなった有望な坑の一つ。人ひとりが這って入れるほどの坑道である。
・佐毘売山神社(さひめやまじんじや):石見銀山の奥。山神様と呼ばれ、銀山関係者の崇敬を集めた。重層入母屋妻入の拝殿など、社殿も立派なもの。
・新横相間歩(しんよこあいまぶ):石見銀山ノ奥。幕府直営の坑道の一つで、今もみごとな坑道の姿を残している。見学はできない。
・釜屋間歩(かまやまぶ):石見銀山最奥、仙ノ山南側。安原備中守が発見し、経営した坑道で、銀山最盛期のもの。見学はできない。
・本間歩(ほんまぶ):石見銀山最奥、仙ノ山南側。江戸時代以前より経営されていた古い坑道で、かなり大きな坑道である。
・天正在銘宝篋印塔基壇(てんしょうざいめいほうきょういんとうきだん):石見銀山最奥、仙ノ山南側。基壇のみだが、天正18年(1590)、道西禅門の陰刻があり、歴史上貴重な資料。