百舌鳥古墳群
百舌鳥古墳群 内の資源
2019(令和元)年7月、古市古墳群とともに、「百舌鳥・古市古墳群」として、49基の古墳を世界文化遺産に登録させた。百舌鳥・古市古墳群は、古墳時代の最盛期(4世紀後半から5世紀後半)にかけて築造された、古代日本列島の王たちの墓群である。古代日本の政治文化の中心地の一つであり、大陸に向かう航路の出発点であった大阪平野に位置する。本資産には、世界でも独特な鍵穴形で、最大なものは長さがおよそ500mにもおよぶ巨大な古墳を含み、これらとさまざまな大きさと形状の中小墳墓が密集して群を形成している。世界各地の多くの墳墓の墳丘が棺や室に盛土・積石しただけのものであるのに対して、古墳の墳丘は葬送儀礼の舞台として、幾何学的なデザインを施し、埴輪などの土製品で飾り立てた建築的な傑作である。(世界遺産 百舌鳥・古市古墳群WEBサイト参照)
百舌鳥・古市古墳群49基のうち、百舌鳥古墳群では23基が構成資産として登録されている。堺市東部、古来、百舌鳥耳原(もずのみみはら)と呼ばれた洪積台地に、東西・南北各約4kmの範囲に点在する。主として巨大な前方後円墳から構成され、仁徳・履中*・反正*の百舌鳥三陵をはじめ、ニサンザイ*・御廟山*・いたすけ*・乳の岡など44基が現存するが、過去には、100基以上の古墳が築造されていたことが分かっている。この付近から応神天皇陵古墳のある古市古墳群にかけての陵墓は、河内政権*との関連など多くの問題を提起している。
百舌鳥・古市古墳群49基のうち、百舌鳥古墳群では23基が構成資産として登録されている。堺市東部、古来、百舌鳥耳原(もずのみみはら)と呼ばれた洪積台地に、東西・南北各約4kmの範囲に点在する。主として巨大な前方後円墳から構成され、仁徳・履中*・反正*の百舌鳥三陵をはじめ、ニサンザイ*・御廟山*・いたすけ*・乳の岡など44基が現存するが、過去には、100基以上の古墳が築造されていたことが分かっている。この付近から応神天皇陵古墳のある古市古墳群にかけての陵墓は、河内政権*との関連など多くの問題を提起している。

みどころ
巨大な仁徳天皇陵古墳の全貌を見るには、堺市役所最上階21階の展望ロビーからがおすすめ。また実際に、4辺の1辺を歩いてみても、その大きさが実感できる。
古墳について詳しく知るには、仁徳天皇陵古墳の近くにある百舌鳥古墳群ビジターセンターや、堺市博物館を訪れるとよい。
古墳について詳しく知るには、仁徳天皇陵古墳の近くにある百舌鳥古墳群ビジターセンターや、堺市博物館を訪れるとよい。

補足情報
*履中天皇陵古墳:仁徳天皇陵古墳からJR阪和線沿いに南下したところにある。5世紀前半の築造と考えられている。陵名を百舌鳥耳原南陵(もずのみみはらのみなみのみささぎ)といい、仁徳天皇の第1皇子履中天皇の陵墓であるといわれる。墳丘長365m、仁徳、応神に次ぎわが国では3番目に大きい前方後円墳。特徴のある4基の陪塚*を持っており、うち履中陵北側の円墳七観古墳から甲冑や馬具など大量の鉄製武器が出土、また南側の前方後円墳大塚山古墳からも鉄製武器や家形埴輪などが出土した。西側にある桜並木が開花期には古墳に彩りを添える。
*反正天皇陵古墳:堺東駅東方200mにある。5世紀中ごろの築造と考えられている。百舌鳥耳原北陵(もずのみみはらのきたのみささぎ)と呼ばれ、全長148mで周濠を巡らしている。仁徳天皇第3皇子の反正陵とされているが、ニサンザイ古墳がそれとも考えられている。
*ニサンザイ古墳:全長約300mの美しい前方後円墳で、百舌鳥古墳群のなかでは3番目の大きさ。反正陵とも伝えられる。5世紀後半につくられた百舌鳥古墳群ではもっとも新しい。濠が二重であったことが判明している。
*御廟山古墳:5世紀前半の築造。墳丘の長さ203mの前方後円墳。3段に分かれた墳丘の1段目の平坦部から円筒埴輪が、墳丘の裾からは須恵器や囲形埴輪*などが出土している。二重濠があったことがわかっている。内濠は国史跡。
*いたすけ古墳:履中陵からJR阪和線を隔てて東側にある。全長146m、高さ11.5mの前方後円墳で、くびれの部分に造出しがあり、周濠の外側に堤が築かれている。被葬者は不明である。この古墳は一時宅地造成の犠牲になりかけたが、現在周囲は公園となり、周濠に浮かぶような緑の墳丘が市民の目を楽しませている。古墳から見つかった衝角付冑型埴輪は堺市の文化財保護のシンボルマークになっている。
*河内政権:古市古墳群と西の百舌鳥古墳群には応神・仁徳天皇陵古墳をはじめ14代仲哀~27代安閑天皇陵の約7割が集中している。それ以前の大王陵が大和にあるのとは対照的な違いである。御陵がその本拠地に造営されたものであれば、このことは大和の勢力を圧倒し最高首長権を奪い河内政権が成立したのではないかと推測できる。応神天皇以前と以後の系図の分析、また古墳の出土品に乗馬の風習を示す埋葬品や大量の鉄製武器など前代との変化が見られる点などもこれを裏付ける。この時期「倭五王*」に象徴されるようにヤマト王権が内外に発展していたときであった。そのため河内政権に対し、ヤマト王権が政治的権力を誇示するために大古墳を河内に造営したという説や、大和からしだいに拠点が西へ移り、5世紀には河内を本拠に開発したという考え方もある。
*陪塚:「ばいづか」あるいは「ばいちょう」ともいう。古墳の主墳の脇につくられた近親者や従者の墳墓をいう。
*囲形埴輪:塀(へい)をかたどったものであり、家形埴輪とセットで配置されている。塀には円柱があり、くいちがっている部分には可動式の扉がついている。
*倭五王:中国南北朝時代の「宋書」に登場する倭の5人の王、讃・珍・済・興・武で、それぞれ讃は応神あるいは仁徳か履中、珍は反正あるいは仁徳、済は允恭、興は安康、武は雄略と言われるが、年時・系譜ともに問題があり、なお慎重な検討が必要といわれる。
*反正天皇陵古墳:堺東駅東方200mにある。5世紀中ごろの築造と考えられている。百舌鳥耳原北陵(もずのみみはらのきたのみささぎ)と呼ばれ、全長148mで周濠を巡らしている。仁徳天皇第3皇子の反正陵とされているが、ニサンザイ古墳がそれとも考えられている。
*ニサンザイ古墳:全長約300mの美しい前方後円墳で、百舌鳥古墳群のなかでは3番目の大きさ。反正陵とも伝えられる。5世紀後半につくられた百舌鳥古墳群ではもっとも新しい。濠が二重であったことが判明している。
*御廟山古墳:5世紀前半の築造。墳丘の長さ203mの前方後円墳。3段に分かれた墳丘の1段目の平坦部から円筒埴輪が、墳丘の裾からは須恵器や囲形埴輪*などが出土している。二重濠があったことがわかっている。内濠は国史跡。
*いたすけ古墳:履中陵からJR阪和線を隔てて東側にある。全長146m、高さ11.5mの前方後円墳で、くびれの部分に造出しがあり、周濠の外側に堤が築かれている。被葬者は不明である。この古墳は一時宅地造成の犠牲になりかけたが、現在周囲は公園となり、周濠に浮かぶような緑の墳丘が市民の目を楽しませている。古墳から見つかった衝角付冑型埴輪は堺市の文化財保護のシンボルマークになっている。
*河内政権:古市古墳群と西の百舌鳥古墳群には応神・仁徳天皇陵古墳をはじめ14代仲哀~27代安閑天皇陵の約7割が集中している。それ以前の大王陵が大和にあるのとは対照的な違いである。御陵がその本拠地に造営されたものであれば、このことは大和の勢力を圧倒し最高首長権を奪い河内政権が成立したのではないかと推測できる。応神天皇以前と以後の系図の分析、また古墳の出土品に乗馬の風習を示す埋葬品や大量の鉄製武器など前代との変化が見られる点などもこれを裏付ける。この時期「倭五王*」に象徴されるようにヤマト王権が内外に発展していたときであった。そのため河内政権に対し、ヤマト王権が政治的権力を誇示するために大古墳を河内に造営したという説や、大和からしだいに拠点が西へ移り、5世紀には河内を本拠に開発したという考え方もある。
*陪塚:「ばいづか」あるいは「ばいちょう」ともいう。古墳の主墳の脇につくられた近親者や従者の墳墓をいう。
*囲形埴輪:塀(へい)をかたどったものであり、家形埴輪とセットで配置されている。塀には円柱があり、くいちがっている部分には可動式の扉がついている。
*倭五王:中国南北朝時代の「宋書」に登場する倭の5人の王、讃・珍・済・興・武で、それぞれ讃は応神あるいは仁徳か履中、珍は反正あるいは仁徳、済は允恭、興は安康、武は雄略と言われるが、年時・系譜ともに問題があり、なお慎重な検討が必要といわれる。
関連リンク | 大阪府府民文化部都市魅力創造局魅力づくり推進課(WEBサイト)世界遺産百舌鳥・古市古墳群 |
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参考文献 |
大阪府府民文化部都市魅力創造局魅力づくり推進課(WEBサイト)世界遺産百舌鳥・古市古墳群 「古墳のある街 堺市」堺観光コンベンション協会 「百舌鳥・古市古墳群-古代日本の墳墓群」百舌鳥・古市古墳群世界文化遺産登録推進本部会議 |
2025年04月現在
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