塩飽勤番所跡
塩飽勤番所跡は、本島港(泊港)から県道沿いを北へ徒歩10分ほどの所にある。
塩飽諸島は古来、秀吉、家康の朱印状により、人名(にんみょう)と呼ばれる650人の船方衆が治めてきた。人名の代表者は名字帯刀を許された4人の年寄で、1年交代で自宅を役所として朱印状を保管し、政務を執ってきた。1798(寛政10)年、本島に勤番所が設置され、世襲による旧年寄に代わり、塩飽全島から入札で選出された3人の新年寄が交代で勤務することになった。勤番所の業務は、人別帳(江戸時代の戸籍)の整備、人名650人の常時確保、廻船御用、水主の差配、島中の秩序維持、漁場の支配、往来手形の発行などだった。
明治初期の廃藩により塩飽領は解体し、勤番所は本島村役場となった。1954年(昭和29)年に丸亀市と合併した後は本島支所に転用された。1970(昭和45)年、国の史跡指定を受け、1974(昭和49)年から3か年かけて解体復元し、1977(昭和52)年に公開された。敷地は約42m四方で、表に堀を巡らせ、周りは土塀で囲まれている。南面した長屋門には番人部屋が付設している。主屋は入母屋造り・本瓦葺きで、式台の間、玄関の間、政務の間、台所の部屋から構成され、奥の離れは年寄の詰所として使われていたという。北西部の中庭には朱印庫が建てられている。主屋は、塩飽の歴史資料館として公開。信長、秀吉、家康から与えられた朱印状や、高松藩と塩飽領の漁場争いの際に大岡越前守忠相らが署名した裁許書、咸臨丸に乗船した塩飽水夫たちが米国から持ち帰った品々などを展示している。
現在、市からの委託により、塩飽勤番所顕彰保存会が運営しているが、所有者は今も塩飽人名650人である。
塩飽諸島は古来、秀吉、家康の朱印状により、人名(にんみょう)と呼ばれる650人の船方衆が治めてきた。人名の代表者は名字帯刀を許された4人の年寄で、1年交代で自宅を役所として朱印状を保管し、政務を執ってきた。1798(寛政10)年、本島に勤番所が設置され、世襲による旧年寄に代わり、塩飽全島から入札で選出された3人の新年寄が交代で勤務することになった。勤番所の業務は、人別帳(江戸時代の戸籍)の整備、人名650人の常時確保、廻船御用、水主の差配、島中の秩序維持、漁場の支配、往来手形の発行などだった。
明治初期の廃藩により塩飽領は解体し、勤番所は本島村役場となった。1954年(昭和29)年に丸亀市と合併した後は本島支所に転用された。1970(昭和45)年、国の史跡指定を受け、1974(昭和49)年から3か年かけて解体復元し、1977(昭和52)年に公開された。敷地は約42m四方で、表に堀を巡らせ、周りは土塀で囲まれている。南面した長屋門には番人部屋が付設している。主屋は入母屋造り・本瓦葺きで、式台の間、玄関の間、政務の間、台所の部屋から構成され、奥の離れは年寄の詰所として使われていたという。北西部の中庭には朱印庫が建てられている。主屋は、塩飽の歴史資料館として公開。信長、秀吉、家康から与えられた朱印状や、高松藩と塩飽領の漁場争いの際に大岡越前守忠相らが署名した裁許書、咸臨丸に乗船した塩飽水夫たちが米国から持ち帰った品々などを展示している。
現在、市からの委託により、塩飽勤番所顕彰保存会が運営しているが、所有者は今も塩飽人名650人である。
みどころ
勤番とはもともと甲府や駿府勤番のように、遠方の要地に駐在して勤務に交代で就くことをいったものである。塩飽の場合、本来ならば天領として幕府の代官が派遣されるべきところ、自治が認められていたため代官の代わりに複数の年寄を置き、交代制で政務をとってきたので、その役所を勤番所と呼んだ。ちなみに塩飽の政治において、幕府側の窓口は大坂の川口奉行所であった。
また咸臨丸*の乗組員には多くの塩飽諸島出身者がおり、勤番所跡にはその遺品や咸臨丸の模型なども展示されている。咸臨丸は1860(安政7・万延元)年、日本で初めて太平洋を横断した船で、軍艦奉行木村摂津守を筆頭に勝海舟、福沢諭吉、通訳としてジョン万次郎も乗船したことが知られているが、96人の乗組員のうち50人が水夫で、そのうち35人が塩飽出身であったことはあまり知られていない。咸臨丸の往路の航海は37日間のうちほとんどが悪天候で、あまりに過酷であったことから、サンフランシスコで水夫3人が病院で亡くなっている。塩飽勤番所跡に展示されている朱印状や咸臨丸水夫たちの品々は、塩飽諸島の庶民が自治を認められていたこと、幕末にアメリカに渡ったということを証明しており、とても感慨深い。3年に一度開かれる瀬戸内国際芸術祭でも、咸臨丸にちなんだ作品が製作されている。(勝田 真由美)
また咸臨丸*の乗組員には多くの塩飽諸島出身者がおり、勤番所跡にはその遺品や咸臨丸の模型なども展示されている。咸臨丸は1860(安政7・万延元)年、日本で初めて太平洋を横断した船で、軍艦奉行木村摂津守を筆頭に勝海舟、福沢諭吉、通訳としてジョン万次郎も乗船したことが知られているが、96人の乗組員のうち50人が水夫で、そのうち35人が塩飽出身であったことはあまり知られていない。咸臨丸の往路の航海は37日間のうちほとんどが悪天候で、あまりに過酷であったことから、サンフランシスコで水夫3人が病院で亡くなっている。塩飽勤番所跡に展示されている朱印状や咸臨丸水夫たちの品々は、塩飽諸島の庶民が自治を認められていたこと、幕末にアメリカに渡ったということを証明しており、とても感慨深い。3年に一度開かれる瀬戸内国際芸術祭でも、咸臨丸にちなんだ作品が製作されている。(勝田 真由美)
補足情報
*咸臨丸の塩飽水夫にスポットライトを当てた歴史小説に植松 三十里著『咸臨丸、サンフランシスコにて 』(角川文庫) がある。
関連リンク | 丸亀市(WEBサイト) |
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関連図書 | 植松 三十里『咸臨丸、サンフランシスコにて 』(角川文庫) KADOKAWA (2010/4/23) |
参考文献 |
丸亀市(WEBサイト) うどん県旅ネット(公益社団法人香川県観光協会)(WEBサイト) 『香川県の歴史散歩』山川出版社 |
2022年11月現在
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