沼島
淡路島の南、南あわじ市の沖合4.4kmに浮かぶ面積2.7km2、周囲9.5km、最高地点は海抜117mの離島。南あわじ市灘の土生(はぶ)港と連絡船により10分で結ばれている。
この島は古事記・日本書紀に記された国生み伝説*1による最初に造られた島「おのころ島*2」であるとする説がある。「おのころ島」とは日本神話で伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)が最初に作った島のことであり、その場所について多数の説*3が挙げられているなかで沼島はその有力な候補地となっている。
島は唯一の集落がある北西側の漁港以外は切り立った崖と奇岩、岩礁で囲まれており、なかでも南海岸には高さ約30mの「上立神岩(かみたてがみいわ)」が聳え立っている。これらの海食崖は三波川変成帯の結晶片岩によって構成され、緑・白・黒など様々な縞模様が現れている。
古代から漁労や海運を営んできた海人族(あまぞく)の島であると伝えられ、戦国時代には沼島水軍として名を馳せている。江戸時代には漁業や海運業で栄えた。現在は漁業の島で、鱧(はも)の特産地として知られている。国生み伝説をもとにした伊弉諾・伊弉冉を祀る「おのころ神社」がある他、古代からの海人族、水軍の歴史などにより島内には幾つもの航海安全・豊漁祈願の社寺があり、集落も古くからの漁村の佇まいが残っている。また、鎌倉幕府の御家人で政争により失脚した梶原景時(かじわらかげとき)*4が沼島に落ち延び、沼島水軍はその子孫であるとの伝説がある。
この島は古事記・日本書紀に記された国生み伝説*1による最初に造られた島「おのころ島*2」であるとする説がある。「おのころ島」とは日本神話で伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)が最初に作った島のことであり、その場所について多数の説*3が挙げられているなかで沼島はその有力な候補地となっている。
島は唯一の集落がある北西側の漁港以外は切り立った崖と奇岩、岩礁で囲まれており、なかでも南海岸には高さ約30mの「上立神岩(かみたてがみいわ)」が聳え立っている。これらの海食崖は三波川変成帯の結晶片岩によって構成され、緑・白・黒など様々な縞模様が現れている。
古代から漁労や海運を営んできた海人族(あまぞく)の島であると伝えられ、戦国時代には沼島水軍として名を馳せている。江戸時代には漁業や海運業で栄えた。現在は漁業の島で、鱧(はも)の特産地として知られている。国生み伝説をもとにした伊弉諾・伊弉冉を祀る「おのころ神社」がある他、古代からの海人族、水軍の歴史などにより島内には幾つもの航海安全・豊漁祈願の社寺があり、集落も古くからの漁村の佇まいが残っている。また、鎌倉幕府の御家人で政争により失脚した梶原景時(かじわらかげとき)*4が沼島に落ち延び、沼島水軍はその子孫であるとの伝説がある。

みどころ
国生み伝説の島として有名であるが、平安時代の源平合戦からの伝説や水軍の歴史まで含めて伝説と歴史が織りなす島である。加えて、古くからの街並みを残す漁師町の佇まいとそこに息づく素朴な信仰と祭り、さらには地元で水揚げされる鱧(はも)の料理が魅力となっている。
見どころの一つは国生み伝説の史跡である。集落から遊歩道を辿って徒歩30分ほどの南岸の海食崖にある高さ約30mの矛先のような形をした上立神岩(かみたてがみいわ)がそのシンボルである。伊弉諾尊・伊弉冉尊の2神が降り立った「天の御柱」であるとの見立てと、伊弉諾尊が国生みで使った「天沼矛(あめのぬぼこ)」が逆さに刺さった逆鉾との見立ての2つがある。その周辺には他にも下立神岩、平碆岩(ひらばえ)などの奇岩・岩礁があり、これらを見るには沼島の漁師が案内する漁船で島を一周する「沼島おのころクルーズ」が適している。また、島の中心部の山はおのころ山と呼ばれて全体が御神体となっている。社殿は集落から坂道を上り最後に104段の石段を登った中腹にある自凝(おのころ)神社である。伊弉諾尊・伊弉冉尊を祀って寛政年間(16世紀末)に祠が建立されたと言われている。現在の社殿は大正時代に建立されたこぢんまりとしたものである。
もう一つの見どころは海人・沼島水軍の歴史と伝説である。集落の中心部にある沼島八幡神社は1436(永享8)年、梶原景時による設立との伝説がある。樹齢約200年のスダジイやタブノキが茂る社には戦国時代に豊臣秀吉に淡路守に任ぜられて沼島水軍を組織した脇坂安治(わきざかやすはる)*5を称えた賤ヶ岳合戦の絵馬がある。ここで行われるだんじり祭は海上安全と豊漁を祈る勇壮なものである。
また、神宮寺は880(元慶4)年開基と言われる真言宗の寺院で、梶原景時の菩提寺として五輪塔がある他、厨子、紺紙金泥経、曼荼羅など数々の宝物は梶原氏の寄進と伝えられている。
その他、島内には航海の安全と豊漁を祈願する神社として、集落から30分ほど山道を登った火立山にある山ノ大神社や、船着き場近くにある弁天さんの名で親しまれている弁財天神社(厳島神社)がある。
見どころの一つは国生み伝説の史跡である。集落から遊歩道を辿って徒歩30分ほどの南岸の海食崖にある高さ約30mの矛先のような形をした上立神岩(かみたてがみいわ)がそのシンボルである。伊弉諾尊・伊弉冉尊の2神が降り立った「天の御柱」であるとの見立てと、伊弉諾尊が国生みで使った「天沼矛(あめのぬぼこ)」が逆さに刺さった逆鉾との見立ての2つがある。その周辺には他にも下立神岩、平碆岩(ひらばえ)などの奇岩・岩礁があり、これらを見るには沼島の漁師が案内する漁船で島を一周する「沼島おのころクルーズ」が適している。また、島の中心部の山はおのころ山と呼ばれて全体が御神体となっている。社殿は集落から坂道を上り最後に104段の石段を登った中腹にある自凝(おのころ)神社である。伊弉諾尊・伊弉冉尊を祀って寛政年間(16世紀末)に祠が建立されたと言われている。現在の社殿は大正時代に建立されたこぢんまりとしたものである。
もう一つの見どころは海人・沼島水軍の歴史と伝説である。集落の中心部にある沼島八幡神社は1436(永享8)年、梶原景時による設立との伝説がある。樹齢約200年のスダジイやタブノキが茂る社には戦国時代に豊臣秀吉に淡路守に任ぜられて沼島水軍を組織した脇坂安治(わきざかやすはる)*5を称えた賤ヶ岳合戦の絵馬がある。ここで行われるだんじり祭は海上安全と豊漁を祈る勇壮なものである。
また、神宮寺は880(元慶4)年開基と言われる真言宗の寺院で、梶原景時の菩提寺として五輪塔がある他、厨子、紺紙金泥経、曼荼羅など数々の宝物は梶原氏の寄進と伝えられている。
その他、島内には航海の安全と豊漁を祈願する神社として、集落から30分ほど山道を登った火立山にある山ノ大神社や、船着き場近くにある弁天さんの名で親しまれている弁財天神社(厳島神社)がある。

補足情報
*1 国生み神話:古事記・日本書紀によると、伊弉諾尊・伊弉冊尊の二神が天上の天浮橋(あめのうきはし)に立って、天沼矛(あめのぬぼこ)で海をかき回し、その矛を引き上げたところ、矛から滴り落ちる潮が凝り固まって島となった。これが「おのころ(おのごろ)島」で、二神はその島に降りて夫婦の契りを結んで国生みを行った。初めに造られたのが淡路島で、その後次々に島を生んで日本国を造られたとされる。
*2 おのころ島の表記:淤能碁呂島、磤馭慮島、自凝島の表記があり、読みは正式には「おのごろ」であるが現在では「おのころ」と記されることが多い。
*3 「おのころ島」の候補地とされる島々:仁徳天皇が淡路島で詠んだ「わが国見れば 淡島(あはしま) 淤能碁呂島(おのごろしま) 檳榔(あぢまさ)の 島も見ゆ」という国見の謌から、遅くとも奈良時代頃は、おのころ島は淡路島の近くと考えられていた。その場所として以下が挙げられている。
・「沼島(ぬしま)」平安前期の「新撰亀相記」と鎌倉後期成立の「釈日本紀」による説
・淡路島北端の岩屋港にある「絵島(えしま)」
・和歌山県、紀淡海峡に浮かぶ「友ヶ島(ともがしま)」
・淡路島の北西、姫路市の沖に浮かぶ「家島(いえじま)」
*4 梶原景時(1140~1200年):鎌倉幕府で権勢を振るった武将。源平合戦の時に源範頼について一ノ谷の合戦に参加し、以降も淡路島周辺で水軍を率いて活動した。頼朝の死後、一族とともに静岡県清水で滅ぼされたが、沼島水軍は梶原景時の子孫であるとする伝説が島に残っている。
*5 脇坂安治(1554~1623年):豊臣秀吉と柴田勝家が戦った賤ヶ岳の戦い(1583(天正11)年)の豊臣軍として手柄を立てた「賤ヶ岳の七本槍」の一人で、戦功により海運の要所であった淡路洲本で淡路守に任ぜられた。水軍を組織して朝鮮出兵などで活躍し、沼島の漁師達も沼島水軍として参加している。
*2 おのころ島の表記:淤能碁呂島、磤馭慮島、自凝島の表記があり、読みは正式には「おのごろ」であるが現在では「おのころ」と記されることが多い。
*3 「おのころ島」の候補地とされる島々:仁徳天皇が淡路島で詠んだ「わが国見れば 淡島(あはしま) 淤能碁呂島(おのごろしま) 檳榔(あぢまさ)の 島も見ゆ」という国見の謌から、遅くとも奈良時代頃は、おのころ島は淡路島の近くと考えられていた。その場所として以下が挙げられている。
・「沼島(ぬしま)」平安前期の「新撰亀相記」と鎌倉後期成立の「釈日本紀」による説
・淡路島北端の岩屋港にある「絵島(えしま)」
・和歌山県、紀淡海峡に浮かぶ「友ヶ島(ともがしま)」
・淡路島の北西、姫路市の沖に浮かぶ「家島(いえじま)」
*4 梶原景時(1140~1200年):鎌倉幕府で権勢を振るった武将。源平合戦の時に源範頼について一ノ谷の合戦に参加し、以降も淡路島周辺で水軍を率いて活動した。頼朝の死後、一族とともに静岡県清水で滅ぼされたが、沼島水軍は梶原景時の子孫であるとする伝説が島に残っている。
*5 脇坂安治(1554~1623年):豊臣秀吉と柴田勝家が戦った賤ヶ岳の戦い(1583(天正11)年)の豊臣軍として手柄を立てた「賤ヶ岳の七本槍」の一人で、戦功により海運の要所であった淡路洲本で淡路守に任ぜられた。水軍を組織して朝鮮出兵などで活躍し、沼島の漁師達も沼島水軍として参加している。
関連リンク | 一般社団法人淡路島観光協会(WEBサイト) |
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参考文献 |
一般社団法人淡路島観光協会(WEBサイト) 淡路島日本遺産(淡路島日本遺産委員会)(WEBサイト) |
2025年03月現在
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