白河関跡しらかわのせきあと

白河関跡は、JR東北本線白河駅から南へ約12kmの山間に位置している。栃木県境からは約3km北の地点に、南北約300m、東西250mほどの小高い丘があり、丘の上にはこんもりとした木立の中に白河神社が鎮座し、周囲には中世に城館として使われた際のものと考えられる空堀や土塁がみられる。
 古代の白河は、陸奥国の南端に位置し、南側は下野国・常陸国と接する交通の要衝であったことから、人々の物資の出入りを監視するために、関が設置されたと考えられている。白河関の設置時期については諸説あるが、799(延暦18)年の太政官符*に白河関の名が見え、835(承和2)年の太政官符には400年余り前に設置したという記述が残されていることから、当時は5世紀半ばには設置されていたと考えられていた。
 その後、律令国家の崩壊とともに平安中期には関の機能を失ったと考えられる。奥羽三関*の一つともされ、平安期以降もみちのくへの入口の憧憬地として名が残り、歌枕として数多くの和歌や俳句*に詠み込まれた。
 その後、白河関の所在は不明となっていたが、1800(寛政12)年白河藩主松平定信が考証の上、現在の地を関跡と断定し、「古関蹟」の碑を建てている。1959(昭和34)年には発掘調査が行われ、白河神社奥の空堀、土塁に囲まれた平坦地などで見つかった鍛冶工房跡や住居跡・柱列跡・柵列跡、土師器、須恵器の出土が確認されるなど、白河関の条件にかなう点が多いことから、1966(昭和41)年に国史跡として指定された。白河関が主に機能していた時期については、発掘調査の出土品や、白河関の記載のみられる文献資料の成立年代から8・9世紀頃が中心であると考えられる。
#

みどころ

石の鳥居もあり、こんもりとした鎮守の森のようであるが、参道の石段下にある松平定信が建てた「古関蹟」の石碑が目を引き、森の小高い場所の辺端部は空堀に囲まれ、土塁もあり風情が感じられる。
 司馬遼太郎も白河関跡を訪れ、森の小高い場所に立って「私どものまわりには、空濠が大きくうがたれている。 掘られた土は、積みあげられて土塁(古語では土居)になっているのである。空濠も土塁も、やわらかい草でおおわれている。 深山にいるような感じがするが、しかしこの丘全体は孤立した隆起で、付近のどこの山ともつながっていないのである。関を置くには、絶好の場所であり、それに、岩山ではなく、すべて土であり、空濠や土塁をきずくのにまことにたやすい」と描写している。
#

補足情報

*太政官符:799(延暦18)年12月10日の項には「白河・菊多剗守六十人」の記載があり、835(承和2)年12月3日の項には「勘過白河菊多両剗(関)事。右得陸奥国觧稱。撿舊記。置剗(関)。于今四百餘歳矣。」とも記され、835(承和2)年当時において菊多(勿来)関とともに白河関は設置から400年ほど経ているとしている。
*奥羽三関:念珠関(鼠ケ関)(山形県鶴岡市)、勿来関(福島県いわき市)
*和歌や俳句:能因法師は「都をば霞とともにたちしかど秋かぜぞふく志ら川のせき」と詠み、それを踏まえて、西行が「白川の關屋を月の漏る影は人の心をとむるなりけり」と詠むなど、数多くの歌が詠まれた。また、『枕草子』でも取り上げられており、「關は 逢坂の關。須磨の關。鈴鹿の關。くきたの關。白川の關。衣の關。ただ越えの關は、憚りの關にたとしへなくこそ覺ゆれ。横ばしりの關。清見が關。みるめの關」と、逢坂の関や鈴鹿の関とともに取り上げている。江戸時代に入っても、これらの古人たちに思いを馳せ、松尾芭蕉は『奥の細道』で「心もとなき日数かさなるままに、白河の関にかかりて旅心定りぬ。 いかで都へとたより求めしもことわりなり。中にもこの関は三関の一にして、風騒の人(詩歌を詠む風雅な人)、心をとどむ」と記し、曽良の「卯の花を かざしに関の 晴着哉」の句を載せている。