平戸島の北西にある、南北に細長い形の生月島。生月島の西部一帯には、東シナ海から吹き付ける季節風と五島灘の波による浸食を受け、大規模な海食崖が発達している。塩俵の断崖はその代表的なもの。玄武岩でできた高さ約20mの六角柱の柱状節理*が、南北約500mに渡って続いている。 平戸島と生月島の間には、生月大橋が架かっている。
平戸港南部に突き出たような小半島の高台海抜約50mにある。平戸藩6万1,700石の居城。総面積は約0.18km2。 1599(慶長4)年、平戸藩主の松浦鎮信(法印)が「日の岳城」を築いたが、わずか13年後の1613(慶長18)年に大火により焼失*。「日の岳城」焼失後は平戸港北側の「御館(おたち)」(現在の松浦史料博物館の裏山)に移...
平戸港から約15km北にある的山大島(あづちおおしま)の神浦地区にある港町。江戸中期から昭和初期の町家が連続して建ち並ぶ。 江戸時代、平戸藩の招きにより井元(いのもと)氏が大島政務役として大島に入り、1661(寛文元)年、三代政務役の井元義信が藩主の命令で神浦を捕鯨基地とした捕鯨業を開始した。この捕鯨業は成功を収め、オラ...
島原半島の南部、有明海に突き出た台地上にあり、島原・天草のキリスト教徒の領民や小西行長の旧臣等が起こした一揆、島原・天草一揆の最後の籠城戦となった城跡。島原鉄道島原駅または島原港から島原半島の東海岸沿いに南へ約25kmのところにある。 原城は、15世紀末にはすでにあったとされるが、本丸などは1599(慶長4)から1604(慶長9...
島原湧水群は市内約70ヵ所に点在し水量は22万トン/日。市内各所に、湧水がみられ、それは、生活用水に利用され、また、古くからの水路等が残されて、水辺環境の整備が行われている。 古い記述の一部「寛政4年(1792年)地変記」に「前山の北方、4月朔日埋没したる地に清水湧出し、また、上の原の井戸は地変後、にわかに水あふれ、その近...
正月の雑煮は各地でいろいろと違うが、島原地方の雑煮は具だくさんで、山の幸、海の幸がいっぱい盛り込まれていて、豊かな島原の産物を集大成化したようなものとなっている。島原の乱の時、一揆軍で考案*されたと伝えられており、これをもとに初代糀屋善衛エ門が生み出したのが具雑煮の始まりと伝えられ、2代目より屋号を姫松屋に改め現在に...
島原半島の中央部にあり、雲仙市と島原市の境界に位置している。標高1483mの平成新山を主峰とし、西側に連なる普賢岳、妙見岳・国見岳を含めて雲仙岳と総称している。また、絹笠山や九千部岳を含めることもある。山麓に雲仙温泉が湧き早くから観光地として開け、瀬戸内海などとともにわが国岳最初の国立公園の指定をうけている。また、ミヤマ...
「かんざらし」は、古くから島原市一帯で作られてきた伝統のスイーツである。原料となる餅米のくず米を冷たい大寒の日前後に石臼で水びきし、その沈殿物を乾燥させて米粉(白玉粉)を作っていたことから、「寒ざらし*」と呼ばれるようになったのが由来とされている。昔は、シロップに使われる砂糖・ハチミツは贅沢品であり、お客様をもてな...
JR九州新幹線・長崎本線長崎駅かもめ口(東口)前、NHK長崎放送局の裏手にある小高い丘が西坂公園となっており、その園内に日本二十六聖人記念碑と同記念館が建つ。また、隣接して聖フィリッポ教会(日本二十六聖人記念聖堂)がある。 日本二十六聖人殉教地は、1597(慶長元)年この地で26人のキリスト教徒*が磔刑に処され殉教*した聖地...
野母崎は長崎半島の先端を占め、西端部の野母、南部の脇岬、その対岸の樺島*が主な集落。一本釣り・定置網など漁業が主だが、ミカン・ビワの果樹栽培も盛ん。海岸風景が美しく、長崎市近郊の観光地として人気がある。この地域では野母浦祭り*が毎年8月13日に開催されている。祭りは約1300年の歴史があるといわれ、漁業の信仰と海上の安全を...
稲佐山はJR長崎駅の約1.8km西方にそびえる標高333mの山であり、南北に尾根を連ねる峰々の中心に位置する。山頂一帯は稲佐山公園として開かれている。山頂からは長崎市街と長崎港を一望でき、湾曲する長崎の地形的特徴が生きた景色が広がる。天候の良い日は雲仙・天草・五島列島までも遠望できる。特に、夜景が有名。長崎港を中心に山々が取り...
長崎市の東山手地区にある中国人が海外に建立した唯一の聖廟(儒教の祖である孔子を祀る廟)。 1893(明治26)年に、在長崎華僑と清朝政府の協力により建てられたもので、建物の細部に至るまで本格的な中国様式が取り入れられている。中心的な建物は、黄色の屋根瓦が鮮やかな儀門と大成殿。これらを取り巻くように立つ「72賢人像」は、孔...
長崎市内の中心部で披露される。特に諏訪神社*とお旅所*と呼ばれる大波止の地に作られた仮宮などで奉納踊りが披露される。くんち*の語源は、旧暦の9月9日を良き日として祝う中国の風習が伝わり、9日(くにち)をくんちと読み、祭礼日の意味としたとする説が一般的である。おくんちは長崎市では尊称をつけて呼ばれており、御宮日とか御九日...
長崎の夏を盛り上げる勇壮なペーロン*船による競技会。長崎港内で開催され、長崎市の路面電車「大浦海岸通」で下車、徒歩約3分の長崎市松が枝国際観光埠頭を会場に一般対抗、職域対抗、中学校対抗、女性対抗で行われる。 中国から伝わった和船の競漕で30人以内(漕ぎ手26名以内、太鼓、ドラ、舵手、采振り)の若者が、ドラ・太鼓で景気をつ...
長崎市浦上地区にある。原爆落下中心地とその北側の丘に、世界平和の願いを込めてつくられた公園。 1945(昭和20)年8月9日午前11時2分、長崎市上空で人類史上2番目となる原子爆弾がさく裂、多くの人命が失われた。 公園内は、平和祈念像や平和の泉がある「願いのゾーン(祈念像地区)」、被爆により亡くなられた方のご冥福を祈る空間...
長崎を代表する麺料理。明治時代、長崎の中華料理店「四海樓」の創業者が、中国人留学生のために安くて栄養のある料理を提供したいと考案したのがちゃんぽんの始まり。 肉、キャベツ、もやし、蒲鉾、海鮮などのたくさんの具材を強火で炒めたところに、鶏ガラや豚骨でとったスープを加え、唐灰汁(とうあく)を使った麺を投入する。唐灰汁...
JR西九州新幹線・長崎本線長崎駅から南へ海岸沿いに約2.7km、長崎港を見下ろす南山手にある。園内には、この地がかつての外国人居留地だった時代から遺る旧グラバー住宅、旧オルト住宅*1、旧リンガー住宅*2の3棟を中心にして、長崎市内に散在していた明治期の洋風建築の旧ウォーカー住宅、旧三菱第2ドックハウス*3、旧スチイル記念学校な...
長崎における外国人居留地は、1858(安政5)年に締結された日米修好通商条約をはじめとする安政の五カ国条約を機に、1859(安政6)年に長崎は開港場となり、外国人居留地が設定されため、同年、長崎湾奥の東側、大浦海岸を中心に埋め立て、造成工事が着手されたことに始まる。居留地は、外交団の要求もあり、順次埋め立て面積が広げられ、山...
長崎港の南西に約18km、船で約40分の海上に浮かぶ端島(はしま)は、石炭の量産地として有名だった島。岩礁の周りを埋め立てられて作られた人工の島であり、島の周囲をコンクリートの岸壁が囲み、高層アパートが密集して建ち並ぶその外観が軍艦「土佐」に似ていることから、「軍艦島」と呼ばれるようになった。 1810(文化7)年に端島で石...
盆の四九日より前に逝去した人の遺族が故人の霊を弔うために毎年8月15日に行われる伝統行事で、手作りした船を曳きながら街中を練り歩き、極楽浄土へ送り出すという長崎を象徴する盆風景である。 10m近くにもなる大きなものから、手で持ち歩く小さなものまで、大小様々な精霊船が爆竹や花火を鳴らしながら流し場を目指して進む。精霊船の装...
長崎においては中国(唐風)料理は近世以前から中国貿易の進展とともに伝わっていたが、1635年(寛永12)年から中国貿易が長崎港に限定され、さらに1689(元禄2)年に唐人屋敷(現・長崎市館内町)が完成すると、中国人の往来が制限されたため、この地が中国(唐風)料理の日本における本場となった。この中国(唐風)料理を供する際に、日本...
長崎新地中華街*の人びとによる旧正月を祝う行事が、1994(平成6)年から規模を拡大し、長崎の冬を代表する一大イベントとなったもの。現在も旧暦に基づいて開催されており、開催期間は旧暦1月1日(春節)から1月15日(元宵節(げんしょうせつ)*)まで。 中国の元宵節にあわせてランタン(中国提灯)を飾る風習にならい、約1万5,000個...
大村公園は大村駅の南、大村湾に突き出た玖島崎にある。元は、慶長4(1599)年に大村藩初代藩主の大村喜前(よしあき)*が築き、約270年間に渡って大村藩二万七千石の居城であった玖島城。慶長19(1614)年の大改修の際は、築城の名人である加藤清正に指導を受けたと言われている。1869(明治2)年に取り壊され、残る石垣と堀が往時を偲ばせ...
対馬の中央南よりの部分が西側から沈降してできた典型的なリアス海岸。西側には幅3kmの大口瀬戸が口を開き、東側は江戸・明治に掘削された大船越瀬戸と万関瀬戸で対馬海峡に通じている。 湾内には、仁位(にい)湾、濃部(のぶ)湾、洲藻浦(すもうら)などの支湾があり、さらに細かい湾入がいくつも見られる。その湾入の間には無数の半島...
7世紀から対馬国の国府が置かれ、江戸時代には対馬藩*10万石の城下町であった厳原町の山すそにある。1615(元和元)年、2代藩主宗義成(そうよしなり)が、父である初代藩主宗義智(そうよしとし)の冥福を祈って建立した宗氏の菩提寺。 仁王像の立つ桃山様式の山門は、対馬最古の木造建造物と言われている。山門横には、百雁木(ひゃく...
食料品や衣類、農具や漁具などの日常生活用品を保管するための倉庫。高床式の倉庫に平たい自然石で葺いた屋根を乗せている。柱は椎材で、周囲の壁、床、天井には松材が用いられている。 対馬は、冬になると強い北西の季節風が吹きつける。強い風や火事から貴重品を守るため、石で屋根を葺いた頑丈な倉庫が造られた。対馬には板状に薄くは...
浅茅湾の入り江のひとつ仁位(にい)湾にある古社。祭神は彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)と豊玉姫命(とよたまひめのみこと)の夫婦神。豊玉姫命は海神である豊玉彦尊(とよたまひこのみこと)の娘で、「古事記」の海幸山幸神話*に登場する女神。航海守護・安産・豊漁などの庶民にも身近な神徳があるとされる。 豊玉彦尊がこの地...
新上五島町若松郷は約30の群島から成り、若松瀬戸を挟み中通島の西側の西島を含めて若松郷という。新上五島町奈良尾港から自動車で16.5km、約20分に位置する。若松瀬戸は若松島と中通島の間の瀬戸で複雑に変化するリアス海岸で西海国立公園に指定されている。瀬戸の急流と点在する小島が調和して美しい景観となっている。海がきれいな若松瀬...
五島手延べうどん*は、島の特産である食用の椿油を塗布しながら、棒状の生地を2本の箸にかけて引き延ばしては束ねる作業を繰り返して紐状の細い麺にしていき、この過程でしっかりと熟成を重ねたあと、乾燥させる。この伝承の技を受け継ぐ麺匠の腕によって、コシが強く、切れにくい手延べうどん特有の麺へと仕上がっていく。この手延べうどん...
長崎県北部の伊万里湾に浮かぶ鷹島南岸海域にある元寇の古戦場跡。40年以上にわたる発掘調査により、元軍の武器(「てつはう」)や沈没した元軍船などが見つかっている。その鷹島海底遺跡のうち、国の史跡に指定されている約38万m2の区域を指す。海底遺跡が国史跡に指定されたのはここが日本初で、日本における水中考古学の先進...
長崎県松浦市の離島の一つ、福島の西岸にある。伊万里湾に面した斜面に約400枚の棚田が並ぶ。 この棚田では台風にあわないよう早期米が育てられており、4月末~5月初旬に田植え、7月には穂をつけ、8月のお盆の頃に収穫される。10月には「土谷棚田の火祭り」が行われる。 福島へは、佐賀県伊万里市側から橋がかけられている他、長崎県松...
大村湾の海水が佐世保湾へ流れ出るときに生じる急流。外海の佐世保側と大村湾の満潮・干潮の時間に大きな差ができるため、潮の流れが速くなり渦潮が発生する。最大急潮9ノット。瀬戸の幅は狭いところで約200m。 急流をまたいで、佐世保市側(針尾島)と西海市側(西彼杵半島)を結ぶ西海橋*と新西海橋*の2本の橋が架かる。
ハウステンボスは大村湾に面した佐世保市針尾島に1992(平成4)年に開業した。現在はハウステンボス駅より徒歩約5分で入国口に。開発当初は オランダの街並みをテーマとしたものであり、現在はヨーロッパ全体をテーマとしている。敷地面積は152万m2と広大な敷地を有している。 ハウステンボスはオランダ語で「森の家」を意味...
鬼岳火山群*は約50万年前から現在にかけて噴火して、西洋の盾を伏せたようななだらかな台地を造りあげた単成火山群上に、さらに5万年前第2次の噴火によって臼のような形をした火山が重なり合ってできたものである。鬼岳、火岳、城岳、箕岳、臼岳などの火山から形成されている。その中でも鬼岳は、その恐ろしい名前にそぐわず、丸みを帯び全...
ミヤマキリシマは、長崎県の県花で別称ウンゼンツツジとも呼ばれ、雲仙では標高700m以上の高地に群生している。町の北東、雲仙ゴルフ場付近一帯に群落する「池の原のミヤマキリシマ」は国の天然記念物に指定されている。 霧島へ新婚旅行に訪れた植物学者・牧野富太郎*が発見し、「深い山に咲くツツジ」という意味で「ミヤマキリシマ」と...
長崎市内から車で約1時間30分、雲仙岳の南西麓、標高約700mに開ける高原温泉。古湯・新湯・小地獄に分かれ、1653(承応2)年に始まるといわれる古湯は無気味な噴煙を上げる雲仙地獄の北西付近にあって、繁華な旅館街を作っている。また、新湯は明治になって長崎に近いことから外国人の避暑地、高原リゾート*として開発され、雲仙観光ホテル...
壱岐島の南東部の台地から平野部(深江田原)に広がる、弥生時代中期から後期にかけての大規模集落跡。3世紀末に記された中国の歴史書『魏志』倭人伝に登場する、「一支国」の王都と特定されている。 多重の環濠に囲まれた集落の規模は0.24km2で、周辺の遺構を含めると約1km2に及ぶ。弥生時代の環濠集落としては最...
黒崎半島の突端にある高さ45mの奇岩。玄武岩が長い時間をかけて波や風に削られてできた海食崖で、猿の横顔によく似ていることから「猿岩」と呼ばれる。 伝説によると、壱岐島は「生き島」で、流されてしまわぬようにと神様が八本の柱を立てて繋いだ。そのひとつがこの猿岩だという。