堂崎天主堂どうざきてんしゅどう

福江島の北、福江港から車で15分の距離にある。禁教令が解かれてすぐの1873(明治6)年9月、信者の要請で、長崎より五島へ、若きフランス人宣教師フレノ神父が訪れた。彼の野外ミサには多くの人が集まった。同年12月24日夜、堂崎の浜辺で、初めての降臨祭(クリスマス)を祝った。1877(明治10)年に、フレノ神父とマルマン神父が五島常駐となり、1880(明治13)年に、堂崎に仮聖堂を建てた。翌年、残ったマルマン神父は間引きから子供を救うため、大泊の民家を借りて子部屋(今の奥浦慈恵院)を作った。大泊が狭くなると、堂崎に子部屋を移し、保母として働く修道女を育成する女部屋(現、お告げのマリア修道会奥浦修道院)を作った。マルマン神父のあとを引き継いだペルー神父が、増えていく信徒のため、フランスからの援助金を投じながら、1908(明治41)年に、煉瓦造りの堂崎天主堂*が建てられた。しかし近年、教会堂が老朽化したので、ミサなどの教会の機能は、司祭らが常駐する浦頭教会*から司祭らが巡回することで維持されている。堂崎教区は廃止され、現在は浦頭小教区に属している。
 1977(昭和52)年には、教会内部にキリシタン資料館が開設された。
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みどころ

天主堂は、信徒が船でミサに訪れるために海に向かって建てられた。新しい教会が浦頭に建てられるまでの60余年、ミサの時間には、鐘の代わりに、ホラ貝が響いていた。
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補足情報

*堂崎天主堂に関係した建築家:ペルー神父が設計、福江の大工の棟梁・野原与吉が施工。このとき、後に教会建築の第一人者になる鉄川与吉は、野原与吉の下で修行をしていた。
*浦頭教会:1888年に最初の聖堂が建ち、1921年に2代目聖堂が、さらに1950年に増改築され、1968年、集落の高台である現在地に現聖堂が建てられた。現聖堂はノアの方舟をイメージして建設されている。五島宣教の中心だった堂崎教会の老朽化や、交通機関の変化(船から車)も伴い、浦頭が一帯の中心の教会となっており、主任司祭も当教会に常駐しながら堂崎をはじめ宮原教会や半泊教会にも巡回してミサを捧げる。
関連リンク 五島市(WEBサイト)
参考文献 五島市(WEBサイト)
「長崎・天草の教会と巡礼地完全ガイド」長崎文献社
「風の天主堂」日本経済新聞出版社

2024年10月現在

※交通アクセスや料金等に関する情報は、関連リンクをご覧ください。