大浦天主堂おおうらてんしゅどう

長崎市の南山手の丘にある、現存する日本で最古の教会。1597(慶長元)年に殉教した日本二十六聖人に捧げられた教会で、正式には「日本二十六聖人殉教者聖堂」と言い、殉教地である西坂の丘に向かってゴシック様式の教会が立つ。
 1860(万延元)年に長崎に外国人居留地が開かれた後、居留地に住む外国人向けの教会として、パリ外国宣教会所属のプティジャン神父の指導により、1864(元治元)年に竣工し、大風で一部破損し、明治になり信徒が急増したため、フランス寺と呼ばれた教会堂を包み込み、1879(明治12)年に増築した。
 天主堂が献堂式を迎えた 1か月後、浦上に住む約15名の潜伏キリシタンが訪れ、自分たちの信仰を告白し、サンタ・マリアの御像の場所を尋ねた。日本でのキリシタン発見のニュースは世界を驚かせ、国内では宣教師の指導下に戻る潜伏キリシタンが相次いだが、いまだ禁教令が続いていた当時の日本では、浦上四番崩れや五島崩れなどの大規模な弾圧が起こった。こうした明治政府の対応は西洋諸国から強い非難を浴び、不平等条約改正交渉の妨げとなったことから、1873(明治6)年に明治政府はキリスト教を解禁、その後はカトリックに復帰した信徒たちにより、各地に教会堂が建てられていった。
 天主堂に隣接して、旧羅典神学校*と旧長崎大司教館*の建物がある。現在は「大浦天主堂キリシタン博物館」として、日本キリシタン史を紹介している。
教会は 1933(昭和8)年に国宝となるが原爆被害を受け、1953(昭和28)年、日本最古の教会として国宝に再度指定された。
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みどころ

南山手のゆるい丘を上りつめた先に、白い天主堂が姿を現す。煉瓦造に白い漆喰で塗られた建物は、ブルーがかった鎧戸やステンドグラスの窓の意匠ともあいまって、清々しく清楚な印象を与える。
 天主堂内部は、こうもり天井(リブヴォルト天井)を支える深い茶色の柱が、落ち着きのある重厚な空間を形作っている。窓にはステンドグラスがはめ込まれ、太陽の光を受けて天主堂内部に優しい色彩の光を落とす。側廊の上には、トリフォリウムという飾りの空間が取り付けられている。日本最古の教会ながら、教会建築として完成された形で、その後の建てられた数々の教会の目標となった教会である。
 約250年もの間ひそかに信仰を守り伝え、プティジャン神父にそっと信仰を打ち明けた潜伏キリシタンの人びと。彼らが対面した 「信徒発見のマリア像」は、大祭壇を正面に見て向かって右側の小祭壇に当時と同じ場所に佇んでいる。マリア像に祈りを捧げる時の彼らの胸の高鳴りは、いかほどのものだったのだろうか。
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補足情報

*旧羅典神学校:禁教解除後の 1875(明治8)年にプティジャン神父により「司祭養成の神学校」として開設された。設計はド・ロ神父による。木骨煉瓦造で、壁面は白漆喰塗。ラテン語で講義が行われていた。1925(大正14)年に、浦上に公教神学校(現在の大司教館が建つ)ができるまで、神学校の校舎兼宿舎として使用された。国指定重要文化財。
*旧長崎大司教館: 1915(大正4)年、大浦天主堂よりも前に建てられた司祭館は凡そ50年が経過し、老朽化が進んだためド・ロ神父の設計により再建された。ド・ロ神父の最後の作品。
 第4代カトリック長崎教区司教のジャン・クロード・コンバス司教(パリ外国宣教会)から第7代里脇浅次郎枢機卿まで歴代の大司教・司教・司祭が居住していた。
1959年より名称が「大司教館」とされたが、その後、浦上に新たな大司教館が建設されその機能が移転したため、「旧長崎大司教館」と呼ばれることになった。現在は旧羅典神学校とともに「キリシタン博物館」として一般公開されている。県指定有形文化財。
旧羅典神学校、旧大司教館は「大浦天主堂と関連施設」として2018年ユネスコ世界文化遺産の構成資産となっている。
関連リンク 大浦天主堂(WEBサイト)
参考文献 大浦天主堂(WEBサイト)
大浦天主堂 キリシタン博物館(WEBサイト)
大浦天主堂物語(NPO法人世界遺産長崎チャーチトラスト)
「長崎の世界遺産めぐり「オトナ周楽旅行」ハンドブック」(一般社団法人 長崎県観光連盟、2019年1月)
「ながさき巡礼」長崎文献社 2008

2024年10月現在

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