卓袱料理しっぽくりょうり

長崎においては中国(唐風)料理は近世以前から中国貿易の進展とともに伝わっていたが、1635年(寛永12)年から中国貿易が長崎港に限定され、さらに1689(元禄2)年に唐人屋敷(現・長崎市館内町)が完成すると、中国人の往来が制限されたため、この地が中国(唐風)料理の日本における本場となった。この中国(唐風)料理を供する際に、日本のように箱膳ではなく、円卓にテーブルクロス(袱)をかけ会食したことから、卓袱料理と称されるようになった。「しっぽく」*1の読みは唐音(当時中国から入ってきた字音)に由来するという。また、卓袱料理は1654(承応3)年に黄檗宗を日本に伝えた隠元禅師が長崎に来航した際にもたらしたという精進料理の普茶料理の配膳形式に日本料理や西洋料理の食材、調理法も取り入れ発展していったという。卓袱料理の供し方は、はじめに、“おかっつぁま(女将)”の「おひれをどうぞ」の挨拶を合図に吸い物からいただく。その後、大皿・中皿*2に盛られた料理の数々*3を朱色の円卓の上にぎっしりと並べ、それを円卓を囲んだ各人が小皿に取り分けて食べるもの。大皿・中皿には、刺身、湯引き、煮豆、長崎天ぷら、豚の角煮、蒸菓子などが彩りよく並ぶ。
 卓袱料理はすでに江戸中期以降には江戸*4や京・大阪などの料理茶屋や料亭でも提供されており、現在では、東京など一部の都市でも食べることができるが、ここはやはり少し値段は張るが、長崎の老舗料亭*5で伝統の味を楽しみたい。
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みどころ

1795(寛政7)年に上梓された橘南谿の紀行「西遊記」では上方でも流行っているとして「卓子(しっぽく)食というふ料理をして、一ツ器に飲食をもりて、主客数人みずからの箸をつけて、遠慮なく食する事なり。誠に隔意なく打(ち)和し、奔走給仕の煩はしき事もなく簡約にて、酒も献酬のむずかしき事なく、各盞(杯)にひかへて、心任せにのみ食ふこと、風流の宴会にて面白(き)事なり」と卓袱料理の本質を語っている。
 ちなみに「おひれ」という言葉には、客一人に対して鯛一尾を使っているというおもてなしの意味が込められている。また、宴会の開始の“おかっつぁま”(女将)の「おひれをどうぞ」の前に、幹事の挨拶や乾杯などの発声は禁じられているのでご注意。いずれにせよ、和洋中華の良いところ取りの料理が卓上いっぱいに並び、それだけで嬉しいものだが、さらにテーブルを囲んだ仲間と楽しく味わうことができれば最高だ。その味わいの深さは、まさに長崎の歴史のそのものだと言って良い。
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補足情報

*1 しっぽく:江戸後期の「長崎名勝図会」では「シツポクとい云ふは唐音に非ず唐人は卓と称す。広東東京の方言に是をシツポクと云ふ」ともしている。すなわち中国の広東方言だとしている。
*2 大皿・中皿:「長崎名勝図会」では「シツポクに用る器物は箸甕鍾(酒盃なり)、匙(汁すくひなり)、小碟(小皿 汁しためなり)人数に合せ各位の前にこれを置く。菜碗(瓷陶【やきもの】の大碗也)、小菜碟(焼物の小皿也)、饗味(りょうり)の多寡に随て二十四碗、十六碗、十碗、八碗、六碗等これを用ゆ」としている。現在フルコースの場合、汁もの、菓子等を除くと10品程度の場合が多い。
*3 料理の数々:1801(享和元)年に長崎を訪れた吉田重房の紀行「筑紫紀行」では
「茶菓子(状柱雪輪 丸ぼうろ)、盃 三ツ組
舟盛
吸物(鯛ひれ・もち・こんぶ)、同(味噌・大かん・肉梅)
卓子(しっぽく)
小菜(なます 鯛切身・しそ・白うり)、同(香の物 だいこん・瓜)、同(かまぼこ・すゑび・しそつけ大こん)、同(山桃)、同(黒豆)
一、鉢(けんちん かわたけ・はすいも・いせゑび・あわび) 二、どんぶり(くず あげかまぼこ・竹の子) 三、鉢(胡椒の粉・しずき・みそかけ) 四、どんぶり(花ゑび・金ひれ・なすび) 飯 五、味噌吸物(ごま豆腐・しひたけ・いりこ) 六、どんぶり(さとう入つくばね【衝羽根】)」
(「長崎市史」による) というメニューで饗応されたと記している。
*4 江戸:江戸時代に会席料理を確立したという浅草の料理茶屋「八百善」の栗山善四郎は長崎まで卓袱料理を学びに来て1822(文政5)年に出版したメニュー集の「江戸流行料理通」のなかで「卓袱料理・普茶料理」を取り上げている。
*5 長崎の老舗料亭:1642(寛永19)年に丸山遊郭の「引田屋花月楼」の茶屋として始まった史跡料亭花月、1813(文化10)年創業の料亭一力、1894(明治27)年創業の坂本屋、江戸時代の宿屋が発祥の青柳、明治期頃より夜桜の名所として知られたカルルス跡地に建つ純日本建築の料亭橋本があり、伝統の味を引き継ぐ料亭が長崎市内中心部に点在している。