大野教会堂おおのきょうかいどう

長崎市下大野町、西彼杵半島西岸の外海地域にある教会。国道202号線、長崎バスで大野下車、徒歩15分。1879(明治12)年、パリ外国宣教会のフランス人司祭ド・ロ神父(Marc Marie De Rotz:1840-1914)が外海地区の主任司祭として赴任し、神父の設計により1893(明治26)年に、神浦・大野地区の信徒26戸のために建設された。信徒は高齢で貧しいため、ド・ロ神父は私財を投げうっての建設となった。創建時は、単廊式の聖堂のみであったが、1926(大正15)年、佐賀県馬渡島(まだらじま)から赴任してきたブルトン神父が、祭壇部の先に、司祭部屋を増築して、現在の姿になった。外壁は「ド・ロ壁」と呼ばれるド・ロ神父考案の特徴的な建築技法が用いられている。2008(平成20)年、国の重要文化財に指定された。
 外海地域は1571(元亀2)年にキリスト教が伝わり、宣教師の駐在所が置かれるなど宣教が進んでいた。しかし、豊臣秀吉、次いで江戸幕府は徐々にキリスト教の禁教政策を強化していき、1599(慶長4)年、平戸領主松浦氏のキリシタン弾圧で、長崎に亡命していた生月(いきつき)の籠手田(こてだ)一族の一部が、大野に潜伏*した。
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みどころ

この地方にある温石(おんじゃく)と呼ばれる水平に割れやすい石を、砂・石灰・ノリ・スサ(ワラなど)を混ぜたアマカワで積み上げていく工法で、昔から石段や塀、かまどなどを築いてきた。ド・ロ神父は、この工法に着目し、玄武岩を用いて、赤土を水に溶かした濁液で石灰と砂をこね合わせ、固めて壁をつくることを考案して、40~50cmの厚い壁を作った。耐久性を増したこの壁を、考案者の名を取って「ド・ロ様壁」と地元の人々は呼んだ。聖堂の正面に、風よけに目隠しのようなド・ロ石壁がある。
 結晶片岩を主とする独特の地質によって形成されている大野集落は、サツマイモ栽培による石積みの段畑が連なる景観が特徴。17世紀後半からの人口増加により開墾がすすみ、その際に出てきた石などを使用して石垣を築き、大野岳のふもとにまで畑が広がっていた。
 同じ外海にあり、車で10分の出津集落で、出津教会堂、旧出津救助院、遠藤周作記念館をぜひ訪れてほしい。
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補足情報

*潜伏:潜伏キリシタンたちは、身の回りの物を信心具として代用したり、山岳信仰の聖地や寺社に祈りを捧げたり、集落を維持するために別の土地に移転するなどしながら、ひそかに信仰を続けた。大野集落の潜伏キリシタンは、表向きは仏教寺院に所属しつつ、集落内の神社の氏子としてもふるまった。そして、神社に対してひそかにキリスト教の信仰を重ねることで、自分たちの信仰を続けていた。
関連リンク 長崎市文化観光部文化財課(WEBサイト)
参考文献 長崎市文化観光部文化財課(WEBサイト)
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産インフォメーションセンター(WEBサイト)
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産ガイドマップ⑥外海の大野集落
「ながさき巡礼」長崎巡礼センター 長崎文献社
「長崎・天草の教会と巡礼地完全ガイド」長崎文献社

2025年03月現在

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