鷹島神崎遺跡たかしまこうざきいせき

長崎県北部の伊万里湾に浮かぶ鷹島南岸海域にある元寇の古戦場跡。40年以上にわたる発掘調査により、元軍の武器(「てつはう」)や沈没した元軍船などが見つかっている。その鷹島海底遺跡のうち、国の史跡に指定されている約38万mの区域を指す。海底遺跡が国史跡に指定されたのはここが日本初で、日本における水中考古学の先進地である。
 元の皇帝フビライ・ハーンは、高麗や南宋の支配強化・征服の一環として日本侵略を命じ、1274(文永11)年、兵士約4万人、軍船約900艘の軍勢が日本に攻め込んだ(文永の役)。この戦いで対馬・壱岐は壊滅状態となり、松浦各地や博多でも激戦が繰り広げられた。この時元軍は博多まで上陸しながら大宰府に攻め込まず撤退しているが、副将が負傷したこと、矢が尽きたことなどが理由と考えられている。鷹島をはじめ松浦沿岸は倭寇として恐れられた松浦党の本拠地であり、この一帯を襲撃した背景には、彼らの軍事力を削ぐ目的があったとも言われている。
 南宋征服後の1281(弘安4)年、元は兵士約14万人、軍船約4,400艘の大軍で再度日本に攻め込んだ(弘安の役)。旧暦7月30日の夜、博多襲撃に備え鷹島沖に集結していたこの大軍を台風が襲った。この暴風雨により元軍の船は多くが沈没し、元による日本の侵略は失敗に終わった。
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みどころ

元寇は誰もが知っている日本史上の大事件であるが、神風で撃退したという印象が強く、対馬や壱岐、九州北部の沿岸各地で激戦が繰り広げられたという印象はあまりないかもしれない。しかし、『蒙古襲来絵詞』*に描かれた「てつはう」や神風に沈んだ船の実物がこの場所で発見されたという事実は、大きな戦いがこの場所で起こったということを、絵画や文献資料以上の説得力を持って突きつけてくる。
 「てつはう」や鉄製冑、木製の碇(いかり)など出土した遺物の一部は、松浦市立埋蔵文化財センターで見学可能。このセンターには保存処理室も設けられており、水中考古学研究の実際の作業風景も見学できる。
 沈没船は海底で埋め戻されているため目には見えないが、センターのある高台からは遺跡のある海域を見下ろせる。あそこに今も沈没船が眠っているのだと思うだけで、胸が高鳴る。
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補足情報

*『蒙古襲来絵詞』:鎌倉時代の肥後の御家人であった竹崎季長(たけざきすえなが)が作成させたもので、元寇での季長の活躍が描かれる。絵の描写は正確で、当時の戦闘や武装の様子を知る元寇の基礎史料のひとつ。
関連リンク 松浦市(WEBサイト)
参考文献 松浦市(WEBサイト)
松浦市(WEBサイト)
松浦の恋(一般社団法人まつうら観光物産協会)(WEBサイト)
「海底から甦る元寇船の航跡」(松浦市教育委員会、平成29年3月)
日本大百科全書(ニッポニカ)

2024年09月現在

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