原城跡はらじょうあと

島原半島の南部、有明海に突き出た台地上にあり、島原・天草のキリスト教徒の領民や小西行長の旧臣等が起こした一揆、島原・天草一揆の最後の籠城戦となった城跡。島原鉄道島原駅または島原港から島原半島の東海岸沿いに南へ約25kmのところにある。
 原城は、15世紀末にはすでにあったとされるが、本丸などは1599(慶長4)から1604(慶長9)年の間にキリシタン大名であった有馬晴信*により完成させたことが文献や発掘調査などで明かになっている。有馬氏が転封されると大和国(奈良県)五条から松倉重政が入封し、新たに島原城を築城したため、1618(元和4)年に原城は廃城となった。キリシタン大名の有馬晴信が支配した島原の地は、住民の多くもキリスト教徒だったが、江戸幕府は徐々にキリスト教の禁教政策を強化していき、松倉氏の時代になるとキリスト教徒は厳しい弾圧を受けた。こうした中、松倉氏の厳しいキリシタン弾圧と税の取り立て、そして飢饉をきっかけとして、1637(寛永14)年に島原・天草一揆が起きた。一揆の最終段階で廃城となっていた原城跡に、益田四郎(天草四郎)*を総大将とする、島原・天草の領民と小西行長の旧臣等約2万数千人が立て籠ったため、この地は鎮圧しようとする幕府軍12万人との激戦の舞台となった。同城跡が三方を海に囲まれ、西方は低湿地に面する天然の要害であったことや幕府軍が一揆を甘く見て拙速な戦術を繰り返したことなどから戦いは4か月に及んだ。しかし、圧倒的に武力の差があったため非戦闘員を含む一揆勢のほとんどが殺されるという形で終結をみた。この事件を契機に幕府のキリスト教に対する警戒心はさらに高り、1639(寛永16)年にはポルトガル船の来航を禁止し、1641(寛永18)年には平戸のオランダ商館を出島に移すなどして、幕府はキリシタン弾圧の強化と海禁政策の徹底を図った。
 これまでの城跡の発掘調査では、籠城戦で幕府軍に破壊された石垣などの遺構や信心具などの出土品が発見されている。城跡の北西2kmほどのところにある有馬キリシタン遺産記念館*では、これらの出土品や人骨のレプリカなどを収蔵展示している。
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みどころ

見学コースは大手口から幕府軍の指揮者で、戦死した板倉重昌の碑がある三の丸、幕府軍の攻め寄せた仕寄場、城跡の中で最も広い郭の二の丸を回って、海に面し断崖が迫る本丸に入る。本丸では、一揆勢の仮設(半地下式)小屋の跡、天草四郎が居を構えたという本丸門跡、3階建ての見張り台があった櫓台跡、信仰用のメダイ(ポルトガル語 英語ではメダル)や十字架などの信心具が発見された礼拝堂跡などを見て大手口に戻るとよい。なお、城跡の駐車場は「原城温泉・真砂」(大手口駐車場)と、国道沿いにある。
 遠藤周作は「女の一生」のなかで「兵士たちの雄たけび、鉄砲のひびきが渦まいたその城は、今は一面芋畠にかわっている。苔むした石垣があちこちに残っているし、籠城のあいだ女や子供が雨露をしのいで住んでいた空濠もそのまま雑草がおいしげり、そのかわりキリギリスの鳴き声があたりの静寂を深めていた。…中略…キリギリスの鳴き声のなかでサチ子たちは彼らの血の匂いをかぎ、阿鼻地獄の叫びを聞くような気持だった」とこの城跡について活写している。現在は世界文化遺産の構成資産になったことで、遠藤周作が訪れた時より、随分、整備されたが、この城跡を実際に巡ってみると、遠藤周作が感じたものがひしひしと伝わってくるような気がする。
 原城跡からは、これまでの発掘調査により、上記のとおり一揆勢の住居跡(竪穴建物群跡)などの遺構が見つかっているほか、戦いの壮絶さを物語る砲弾や銃弾に人骨、一揆勢が身に着けていた十字架などの信心具といった、多くの遺物が出土しており、城跡からは少し離れるが、有馬キリシタン遺産記念館でこれらの遺物を目にすることができる。
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補足情報

*有馬晴信:1561(永禄4)?~1612(慶長12)年。1571(元亀2)年兄義純から家督を相続し、1580(天正8)年にはイエズス会から武器などの支援をえて、敵対していた龍造寺氏の脅威を排した。同年には受礼し、キリシタン大名となった。1582(天正10)年、従兄弟の千々石ミゲルを名代とする天正遣欧使節の派遣を支援した。1587(天正15)年伴天連追放令が出ると領内に宣教師を匿い、キリスト教の定着を許した。関ヶ原の戦いでは東軍に組みし、所領の安堵を得た。しかし、その後讒訴され、改易となり、甲斐の国に流され、斬殺された。
*益田四郎(天草四郎):?~1638(寛永15)年。享年16歳といわれ、島原・天草一揆の一揆勢の首領とされる。一般には天草四郎時貞と呼ばれている。父は小西行長の旧臣で浪人となっていた益田甚兵衛好次とされ、肥後国宇土郡(天草地方)で生まれたという。四郎が何歳でキリシタンになったかは分かっていないが、洗礼名はジェロニモだったと伝えられている。島原・天草一揆の蜂起の際、小西行長の旧臣たち浪人が、きびしい弾圧で棄教した島原、天草の農民の信仰を復活させ、蜂起に向け団結させるため、四郎をキリスト再臨などの理論で神格化し権威に祀り上げたとも言われているが、原城籠城後は一揆勢、信者の宗教的、精神的支柱になったのは間違いないとされている。1638(寛永15)年の幕府軍の総攻撃により原城は陥落し四郎は討ち取られることになる。
*有馬キリシタン遺産記念館:展示室1では16~17世紀の日野江城を中心としたキリスト教の広がりとその活動を紹介し、展示室2では原城跡の発掘調査による出土品や関連資料の展示を行っている。入館有料。令和8年度中に移設新設予定。