崇福寺そうふくじ

長崎市鍛冶屋町の高台にある長崎を代表する唐寺。
 鎖国当時、日本にやって来る中国人*の中にもキリスト教徒がいたため、幕府は中国人の宗教も厳しく調査した。中国人たちは、非キリスト教徒であることを証明し、海上の安全祈願と故人の冥福を祈るため、出身地ごとに寺院を建立した。その代表が「唐三カ寺」「三福寺」と呼ばれる、崇福寺、興福寺、福済寺である。
 崇福寺は、長崎在留の福州出身者が1629(寛永6)年に明の僧超然を招いて創建した寺で、明末期の代表的建築と黄檗伽藍がみられる。竜宮門を思わせる壮麗な三門をくぐり、つづいて第一峰門(だいいっぽうもん)*を入ると大雄宝殿(だいゆうほうでん)*・護法堂・鐘鼓楼・媽姐(まそ)門*などの唐様の伽藍が甍を並べている。
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みどころ

日本の寺院とは異なる濃い赤の境内が印象的。第一峰門の軒下にみられる複雑な組み物は、非常に精巧で美しく見飽きない。
 長崎の唐寺の特徴は、海上交通の守護神である媽祖様を祀っていること。当時の中国船は船ごとに媽祖像を祀り、長崎滞在中には各唐寺の媽祖堂に安置した。境内には目印の旗を立てた刹竿(旗竿)石がある。長崎に入港した唐人たちは、この旗を目印に自分たちの菩提寺へと媽祖様を運んだ。
 江戸時代に長崎での貿易に従事した唐人たちの暮らしぶりや祈り、息づかいを、今に伝える貴重な場所となっている。
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補足情報

*長崎のまちと中国:江戸時代、中国との正式な国交はなかったが、私貿易は盛んに行われ、長崎でのみ許可されていた。中国が明だった頃、中国人たちは長崎市内での雑居が認められていたが、1689(元禄2)年に唐人屋敷が造られ、中国人の居住は唐人屋敷内に限定されることになった。江戸時代中期、唐人屋敷前の海を埋め立てて、中国からの輸入品を収める倉庫(「新地蔵所」)を建てた。明治になり、唐人屋敷と新地蔵所が廃止されると、中国人たちは海により近い新地蔵所跡に移り、長崎新地中華街が形成された。
*第一峰門(だいいっぽうもん):入母屋造本瓦葺の四脚門で、各部材を中国の寧波で工作して運んだと伝え、明末期の建築様式を忠実に伝えた遺構として貴重。華麗な着色を施した複雑な組物が珍しい。
*大雄宝殿(だいゆうほうでん):正面5間、側面4間、二重、入母屋造、本瓦葺。1646(正保3)年に建てられ、当初は一重であったがのちに和風の手法を取り入れた上層を追加。黄檗天井と称するアーチ型天井や、逆擬宝珠をつけた吊束風の軒回り持ち送りなど珍しい手法が随所にみられる。
*媽姐門(まそもん):媽姐とは中国の海の女神で、「ぼさ」とも呼び、門は境内の最奥にある媽姐堂の前にある。素木のままで和風が基調となる3間3戸の八脚門。