万松院ばんしょういん

7世紀から対馬国の国府が置かれ、江戸時代には対馬藩*10万石の城下町であった厳原町の山すそにある。1615(元和元)年、2代藩主宗義成(そうよしなり)が、父である初代藩主宗義智(そうよしとし)の冥福を祈って建立した宗氏の菩提寺。
 仁王像の立つ桃山様式の山門は、対馬最古の木造建造物と言われている。山門横には、百雁木(ひゃくがんぎ)と呼ばれる132段の石段がある。左右に石灯籠を配し、木立が影を落とす石段で、登りきったところに宗氏歴代藩主とその一族の墓所(御霊屋(おたまや))がある。
 本堂には、朝鮮国王から奉納されたと伝わる青銅製の三具足*と、徳川歴代将軍の大位牌がある。
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みどころ

山懐に抱かれた場所にあるため、町の喧騒は届かず、木々のこすれる音と沢の流れる音がわずかに聞こえるばかり。大きな墓が大杉に囲まれて立ち並ぶ様は壮観。石段に石垣と、石材を多用していることも、荘厳な雰囲気を醸し出している。
 国境の島の領主として、長年にわたり日本外交の最前線で活躍した宗氏。その迫力が、物言わぬ墓石からひしひしと伝わってくる。
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補足情報

*対馬藩と朝鮮:韓国までの最短距離が約49.5kmの対馬は、古代より朝鮮半島との交流が盛んだった。室町時代には、対馬を治めていた宗氏が朝鮮と条約を結び、貿易を行うようになる。ところが、豊臣秀吉による2回の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)により、その交流は断絶。秀吉のあと日本を統一した徳川家康は対馬初代藩主となった宗義智に国交の回復を命じるも、朝鮮からしてみれば朝鮮出兵に参加した対馬も敵であり、交渉は難航を極めた。義智は、日朝双方の国書を偽造するなどの危険を冒しながら、1607(慶長12)年に江戸時代最初の朝鮮通信使の来日に成功する。その後、約200年間にわたり朝鮮通信使の来日は続き、宗氏は朝鮮との外交と貿易を一手に担った。
*三具足:仏前に供える香炉・花瓶・燭台のこと。香炉には獅子、燭台には亀と鶴がかたどられている。
関連リンク 一般社団法人 対馬観光物産協会(WEBサイト)
参考文献 一般社団法人 対馬観光物産協会(WEBサイト)
国境の島(日本遺産「国境の島」推進協議会)(WEBサイト)
ながさき旅ネット(一般社団法人長崎県観光連盟)(WEBサイト)
「日本遺産『国境の島』のひみつ」(日本遺産「国境の島」推進協議会(長崎県・対馬市・壱岐市・五島市・新上五島町)、平成31年3月)
国境の島(日本遺産「国境の島」推進協議会)(WEBサイト)

2024年09月現在

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