浦上天主堂うらかみてんしゅどう

県営バス・長崎バスで天主堂下・センター前・神学校前下車、徒歩すぐ。長崎市の浦上地区にある。
 浦上は長崎開港当時、幕府と有馬氏のキリシタン領となったところで、歴史的にキリスト教の影響が強く、キリスト禁教後も多くの信徒が潜伏して信仰を続けていた。1865(元治2)年、浦上の潜伏キリシタンが大浦天主堂を訪れ、自分たちの信仰を告白した。この「信徒発見」後、1867(慶応3)年に浦上四番崩れ*と呼ばれる大規模な弾圧が起こり、約3,400人の浦上信徒全員が各地に流配となった。拷問や苦役を受け、亡くなる信徒も多かった。
 1873(明治6)年、かつてキリシタン弾圧が行われた庄屋屋敷を買い取り、仮聖堂とした。後、浦上に戻った1,900人を中心に教会堂建設が計画された。1915(大正4)年に献堂式が挙げられた後、1925(大正14)年に2つの鐘楼がつけられ、起工から30年を経てようやく完成した。石と煉瓦造りのロマネスク様式で、その荘厳さと美しさと規模から「東洋一の大聖堂」と称された。
 1945(昭和20)年の原爆、浦上天主堂近くが爆心地で、教会ほか周辺は全壊、8,500名の信徒が亡くなった。1959(昭和34)年に新しい天主堂が再建され、現在に至っている。250年もの間、守り続けた信仰の復活を浦上の信徒が実現させたことで、特別な聖堂として、1962(昭和37)年、大浦天主堂に代わり、司教座聖堂に指定された。その後、ローマ教皇の来日前に改装され、1980(昭和55)年、煉瓦のタイル張りの姿になった。上五島町の鯛ノ浦教会が1949(昭和24)年に、レンガ造りの鐘塔が増築されたとき、ここの被爆煉瓦が使用された。 
 歌謡曲界で、名曲の誉れ高い「長崎の鐘」は、浦上天主堂や被爆した永井博士など、浦上を歌ったもの。作詞サトウハチロー 作曲古関裕司 歌藤山一郎。永井博士には「長崎の鐘」の随筆がある。
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みどころ

歴史的な「信徒発見」の後、浦上四番崩れ*、そして原爆投下と、浦上は苦難の歴史をたどった。天主堂の焼け跡から発見された「被爆のマリア像」、被爆した聖人像、倒壊した旧天主堂の鐘楼などが、戦争の恐ろしさを今に伝える。厳しい歴史を乗り越えて建つ現在の天主堂は、平和の大切さを力強く訴え続けている。
 平和公園端の天主堂の見える丘からは、対岸の丘にそびえる浦上天主堂の姿を正面から望むことができる。
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補足情報

*四番崩れ:一番崩れ 1790~。庄屋が異教がいると訴えたが、「異教」は存在しないことで落着。二番崩れ 1839~。捕らえられていた50~60人の潜伏キリシタンが長崎奉行の取り計らいで釈放。三番崩れ 1856~。密告で、長崎奉行所が異教徒を取り調べ拷問。7代つづいた惣頭は途絶える。四番崩れ 1867~。幕府によるキリシタン弾圧。明治新政府も引継ぎ、弾圧。1873年岩倉視察団は行く先々で欧米から非難され、1873年 岩倉大使が、キリシタンの停止を政府に要請。浦上キリシタン、帰還が許される。
関連リンク 浦上天主堂(WEBサイト)
参考文献 浦上天主堂(WEBサイト)
浦上天主堂(パンフレット)
大浦天主堂物語(NPO法人世界遺産長崎チャーチトラスト)
「旅する長崎学」キリシタン文化Ⅳ 長崎文献社
「長崎・天草の教会と巡礼地完全ガイド」長崎文献社

2024年10月現在

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