平戸城
平戸港南部に突き出たような小半島の高台海抜約50mにある。平戸藩6万1,700石の居城。総面積は約0.18km2。
1599(慶長4)年、平戸藩主の松浦鎮信(法印)が「日の岳城」を築いたが、わずか13年後の1613(慶長18)年に大火により焼失*。「日の岳城」焼失後は平戸港北側の「御館(おたち)」(現在の松浦史料博物館の裏山)に移っていたが、焼失から約90年後の1704(宝永元)年に江戸幕府の許可のもと城の再築に着手し、15年後の1718(享保3)年に完成した。
第4代藩主の鎮信(天祥)は兵学者山鹿素行と親交があったため、城の縄張りには山鹿流築城法が取り入れられている。
城郭部は本丸、二の丸、三の丸、外郭の4層からなる。北虎口門と多門櫓(狸櫓)は江戸期のものが現存し、1962(昭和37)年に乾三重櫓、地蔵坂櫓、見奏櫓、懐柔櫓、沖見櫓(天守閣)が再建された。二の丸跡に亀岡神社がある。
2021(令和3)年、平成の大規模改修を終え、リニューアルオープン。懐柔櫓では常設の城泊施設を開業した。
1599(慶長4)年、平戸藩主の松浦鎮信(法印)が「日の岳城」を築いたが、わずか13年後の1613(慶長18)年に大火により焼失*。「日の岳城」焼失後は平戸港北側の「御館(おたち)」(現在の松浦史料博物館の裏山)に移っていたが、焼失から約90年後の1704(宝永元)年に江戸幕府の許可のもと城の再築に着手し、15年後の1718(享保3)年に完成した。
第4代藩主の鎮信(天祥)は兵学者山鹿素行と親交があったため、城の縄張りには山鹿流築城法が取り入れられている。
城郭部は本丸、二の丸、三の丸、外郭の4層からなる。北虎口門と多門櫓(狸櫓)は江戸期のものが現存し、1962(昭和37)年に乾三重櫓、地蔵坂櫓、見奏櫓、懐柔櫓、沖見櫓(天守閣)が再建された。二の丸跡に亀岡神社がある。
2021(令和3)年、平成の大規模改修を終え、リニューアルオープン。懐柔櫓では常設の城泊施設を開業した。
みどころ
平戸城は小半島に立地するため三方が海に囲まれており、天守閣からは平戸市街や平戸港、平戸大橋などが望め、その眺望は必見。正面に位置する大手御門には現在も石垣が現存し、往時を偲ばせる。天守閣では、映像技術を駆使した「AMUSEMENT」と歴史を学ぶ「MUSEUM」を融合させた「平戸城 歴史体験アミュージアム」を体験したい。
補足情報
*焼失の理由:豊臣秀吉の指示による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に従軍するなど、徳川家康から豊臣寄りと見られていた鎮信(法印)が、疑念を払拭するために自ら火を放ったという話も伝わっている。
関連リンク | 平戸城 (WEBサイト) |
---|---|
参考文献 |
平戸城 (WEBサイト) 「平戸城と山鹿流-平戸城400年の歴史ー」(公益財団法人平戸市振興公社 平戸城 平成30年1月) 現地の案内板 |
2024年09月現在
※交通アクセスや料金等に関する情報は、関連リンクをご覧ください。