島原湧水のまち
島原湧水群とは、市内約70ヵ所に点在する湧水のことで、水量は1日に約22万トン。古くから水路が整備され、生活用水に利用されてきた。
江戸時代の古文書『寛政4年地変記』には、「前山の北方、4月朔日埋没したる地に清水湧出し、また、上の原の井戸は地変後、にわかに水あふれ、その近方は、すべて数ヵ所より清水湧出し、白土池となる。島原町中にも万町、堀町、桜町、新町など各地湧水あり上の原ならびに万町の水はこんこんとして絶えず、何れも数万人の用水に供するに足れり」と記述されている。
各所の湧水は、この1792(寛政4)年の普賢岳の火山活動による眉山の大崩壊*に伴う大地変で地割れが生じ、湧き出したといわれている。以来、市民の生活用水として欠かせない存在になるとともに、現在では「水の都」島原の貴重な観光資源にもなっている。
江戸時代の古文書『寛政4年地変記』には、「前山の北方、4月朔日埋没したる地に清水湧出し、また、上の原の井戸は地変後、にわかに水あふれ、その近方は、すべて数ヵ所より清水湧出し、白土池となる。島原町中にも万町、堀町、桜町、新町など各地湧水あり上の原ならびに万町の水はこんこんとして絶えず、何れも数万人の用水に供するに足れり」と記述されている。
各所の湧水は、この1792(寛政4)年の普賢岳の火山活動による眉山の大崩壊*に伴う大地変で地割れが生じ、湧き出したといわれている。以来、市民の生活用水として欠かせない存在になるとともに、現在では「水の都」島原の貴重な観光資源にもなっている。

みどころ
町の中でこんこんと湧くきれいな水、澄んだ水の中を泳ぐ色鮮やかな鯉など、湧水の街ならではの風景を見ることができる。
島原城築城の際、外郭の西側に武士たちの住まいが建設され、武家屋敷が形成された。街路の中央には島原の豊かな湧水を引いて生活用水として利用されてきており、美しい街並みが400m続いていて島原市の「武家屋敷町並み保存地区」に指定されている。
島原城の南側、中堀町商店街の東側は「鯉の泳ぐまち」と呼ばれ、湧水庭園「四明荘」、観光交流センター「清流亭」、「しまばら湧水館」などの観光スポットが集まっている。
島原市街の南側1.6kmには浜の川湧水観光交流館があり、隣接して「かんざらし」の元祖「銀水」がある。
島原城築城の際、外郭の西側に武士たちの住まいが建設され、武家屋敷が形成された。街路の中央には島原の豊かな湧水を引いて生活用水として利用されてきており、美しい街並みが400m続いていて島原市の「武家屋敷町並み保存地区」に指定されている。
島原城の南側、中堀町商店街の東側は「鯉の泳ぐまち」と呼ばれ、湧水庭園「四明荘」、観光交流センター「清流亭」、「しまばら湧水館」などの観光スポットが集まっている。
島原市街の南側1.6kmには浜の川湧水観光交流館があり、隣接して「かんざらし」の元祖「銀水」がある。

補足情報
*眉山の大崩壊:1792(寛政4)年に、普賢岳の東前方の眉山が大噴火を起こして大崩壊となり、土砂が島原城下を襲って家屋敷を飲み込み、さらにはその衝撃による大津波が肥後、天草を直撃し島原半島の被害を含め15,000人の死者をだした。「島原大変、肥後迷惑」と呼ばれ、島原港の沖合の九十九島(つくもじま)はこの時の海に流れ込んだ巨岩の跡である。
関連リンク | 島原湧水群(島原市)(WEBサイト) |
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参考文献 |
島原湧水群(島原市)(WEBサイト) ながさき旅ネット(一般社団法人長崎県観光連盟)(WEBサイト) 古旅 日本の古い町並み(WEBサイト) |
2024年09月現在
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