[Vol.22]県民の心の中の上毛三山

 自然資源は“見る”ことでその美しさや規模の大きさがわかるので、個人差による評価のブレが少ない。人文資源も美しさや規模の大きさから評価できるが、それ以外に、対象資源の歴史的背景などを旅行者がどの程度理解しているかも関係するため、それによって評価にバラツキが生じる。明日香村にある資源は、万葉集や飛鳥時代の歴史に熟知しているか否かで、評価は異なるだろう。

 ところで自然資源にも、富士山が世界文化遺産で登録されたように、人文資源的要素が含まれている。たとえば、規模・美しさともに滝として一級である那智滝が、滝神社のご神体であることを考慮にいれれば、さらに那智滝の奥深さが理解されよう。フランスの文化相アンドレ・マルローは、国宝「那智滝図(鎌倉時代、作者不詳)」に出合ったとき、「滝は神だ。・・・・つまり自然の精神化としての神なのだ」と大いに感動し、興奮しつつ語った。

山梨県富士吉田市:新倉富士浅間神社

 別記の「群馬県を代表する山々」は自然資源の観点から評価されているが、私のような群馬県民は、三山に接するとさまざまな思いが交錯してくる。

 赤城山、榛名山、妙義山の上毛三山は、いずれも平野部の主要5市(昭和30年前後の合併前は、県内は5市に過ぎなかった)から見え、県民には親しみある山々である。それに対し、上毛三山よりも高山である浅間山や日光白根山は県境にあり、群馬の山であるという実感はない。知名度のある谷川岳は県北にあり、眺めるよりも登る山である。

 詩人萩原朔太郎は「帰郷」で、「わが故郷に帰る日…上州の山見えずや」と詠った。離婚して子どもをかかえながら、傷心の気持ちで郷里前橋に帰るとき、はやく上州の山を見てホットしたかった彼が、もう見える頃だと心待ちにしていた上州の山は、赤城山である。

 私の小中学校時代、たまたまクラスが1学年3クラスだったので、運動会は、紅組は赤城団、黄組は榛名団、白組は妙義団となった。それぞれに応援歌があり、赤城団は「上毛の北、裾を引く、雄峰赤城の・・・」と歌う。

 日本三景が宮島・厳島神社、天橋立・成相寺、松島・瑞巌寺と、自然と寺社とが組み合わせられているように、上毛三山にも、赤城神社、榛名神社、妙義神社と、杉木立に覆われた規模の大きいすばらしい神社が各山の入り口にある。まず神社に参拝してから、山登りを開始する。

妙義神社

 この三山のなかで世に一番早く知れ渡ったのは、江戸時代から第二次大戦前まで人気のあった妙義山である。その山容が、中国で名山と言われる泰山などの中国五岳に似ていたからだ。五岳は道教修行の山で、岩山が選ばれる。当時、日本人の山岳観は中国で好まれる山の影響を受けていた。谷文晁は江戸時代後期の1804年に「日本名山図会」で88座を選び、その中に吉野山、富士山に続いて妙義山が三番目に入っている。しかも妙義山が二つもある。これは妙義山のつぎの「中岳石門」が妙義山だとは思っていなかったからだろう。

 明治に入り1885(明治18)年には、日本の鉄道の中でも比較的早く信越線が横川駅まで開通したので、車窓から妙義山を見ることができた。また、松井田駅下車後1時間で妙義神社に着くことができたことも、妙義山が画家や登山者の興味対象となった理由のひとつである。1906(明治39)年には文部省唱歌に「妙義山」が登場した。「峨峨たる巌 連りて、虚空に峙つ妙義山・・・」。作詞者はあの鉄道唱歌の大和田建樹である。

妙義山

 妙義山よりやや遅れて有名になったのは、講談、浪曲、演劇の世界で取り上げられた国定忠治の名セリフ、「赤城の山も今宵限り」(新国劇「国定忠治」)に登場する赤城山である。そして歌謡曲にも取り上げられ、1934(昭和9)年には東海林太郎が歌う「赤城の子守唄」、1939(昭和14)年には「名月赤城山」がヒットし、全国に赤城山が知れ渡った。

 榛名山は伊香保温泉とのつながりで榛名湖へ行き、榛名山を目にする機会が多い。歌謡曲にも歌われ、1940(昭和15)に当時の人気女優であった高峰三枝子が、「山の淋しい湖に ひとり来たのも悲しい心・・・」と始まる「湖畔の宿」を歌った。この湖は、標高1100メートルにある榛名山の火口原湖の榛名湖である。湖越しにきれいな榛名富士が見える。群馬県には、群馬富士とか上州富士と言われる山はなく、県の富士の代表は榛名富士になる。

赤城山

榛名山

 山岳ではないが、群馬県関係で歌の威力について付け加えれば、江間章子作詞、中田喜直作曲で、1949(昭和24)年に発表された「夏の思い出」は欠かせない。「夏がくれば思い出す、はるかな尾瀬遠い空・・・水芭蕉の花が咲いている・・・」である。尾瀬とともに水芭蕉の美しさが知られ、水芭蕉のシーズンに尾瀬に多くの旅行者が殺到するようになった。尾瀬のすばらしさは戦前から植物学者や地理学者の間では知られていて、彼らは民間企業の水力発電計画で尾瀬ヶ原がダム湖となって沈んでしまうことに反対運動をつづけていた。最近になって、ダム建設は取りやめとなった。尾瀬を訪れたとき、このようなこともあったことを想起してほしい。

筆者

溝尾 良隆

立教大学名誉教授。理学博士。公益財団法人日本交通公社評議員。1941年東京都生まれ群馬県育ち。
東京教育大学理学部地理学専攻卒業後、株式会社日本交通公社外人旅行部に入社。その後、財団法人日本交通公社へ移籍。
1989 年立教大学社会学部観光学科教授。観光学部教授、観光学部長、日本観光研究学会会長などを歴任。
著書に『改訂新版 観光学:基本と実践』(古今書院,2015 年)、『ご当地ソング、風景百年史』(原書房,2011 年)、『観光学と景観』(古今書院,2011 年)、『観光学の基礎』(原書房,2009 年, 共著)、『観光事業と経営:たのしみ列島の創造』(東洋経済新報社,1990)など多数。

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