[Vol.7]日本のあかり

 前回の「たびれぽ」で、「日本の軒(のき)、庇(ひさし)」が家の中に「暗さ」や「陰翳」をもたらし、それが日本独特の文化を創り上げる一つの要素だったのではないか、ということを取り上げた。今回は、その家の中の「あかり」について考えみた。

栃木県日光市:田母沢御用邸記念公園

 信州の小布施にある「日本のあかり博物館」には、「光源による明るさの比較体験室」というのがあり、ここでは、菜種油の「遠州行燈(円行燈)」、和蝋燭の「ぼんぼり燭台」、石油の大ランプ、そして60Wの白熱電球の明るさを比較体験できる。本物を使用しているわけではないが、同量程度の光源で明るさを再現している。60Wの白熱電球の明るさは行燈の80倍、ぼんぼり燭台の40倍というのだから、その差がいかに大きいかを体感できる仕掛けになっている。江戸、明治期の室内照明がいかに暗いかを実体験できるわけだが、当時は、その暗さのなかで日常生活を送り、生産活動や読書、創作活動を行い、「日本の文化」が創造されていた。

 芥川龍之介の「戯作三昧」のなかでも、主人公の滝澤馬琴が創作活動に集中していく様を描く際の小道具として「遠州行燈」とも呼ばれる「円行燈」が登場する。「馬琴は薄暗い円行燈の光のもとで、八犬伝の稿をつぎ始め」、そして「彼の耳にはいつか蟋蟀の声が聞えなくなった。彼の眼にも、円行燈のかすかな光が、今は少しも苦にならない。筆はおのずから勢いを生じて、一気に紙の上をすべりはじめる」と、行燈の薄暗さが、あるいは、周囲の闇とのギャップが、馬琴をして創作活動へかき立たせる様を見事な筆致で描いている。

茨城県水戸市:偕楽園好文亭

 この薄暗さこそ、日本の文化の源泉だとするのは、谷﨑潤一郎だ。谷崎の「陰翳礼讃」では、「暗い部屋に住むことを餘儀なくされたわれ/\の先祖 は、いつしか陰翳のうちに美を発見し、やがては美の目的に添うように陰翳 を利用するに至った」として、日本人は「光線が乏しいなら乏しいなりに、却ってその闇に沈潜し、その中に自らなる美を発見する。然るに進取的な西洋人 は、常により良き状態を願って已まない。蝋燭からランプに、ランプから瓦斯燈に、瓦斯燈から電燈にと、絶えず明るさを求めて行き、僅かな蔭をも払い除けようと苦心をする」と、西洋人と日本人の光に対する求め方の違いを強調している。

新潟県村上市:旧岩間邸

 西洋と日本の「あかり」に対する違いは、その照明器具にも表されているかもしれない。近世までは、西洋においても日本においても屋内の「あかり」は、松明や火皿と灯心からなる灯台(オイルランプ)、そして蝋燭などであり、それに加え、囲炉裏や暖炉が暖房や調理に使用されるとともに照明としての役割を果たしていたのは共通していた。これらの「あかり」の用具は、臭いがきつかったり、火持ちが悪かったりで、人間は長きにわたり、暗い夜を過ごさざるをえなかった。ただ、これらの用具の中で蜜蝋燭だけは例外で、香りがよく比較的火持ちもしたが、柳田国男によると「價もよほど高く分量も少なく、上流の人たちでないと使はれぬ大切な品で、宮殿とかお寺の本堂とかでしか用いられぬもの」で用途が限られていたという。

山形県最上町:旧有路家住宅(封人の家)

 しかし、近世に入って燈油や照明器具の改善により、西洋においても、日本においても「あかり」の事情が大きく変わるが、それとともに、西洋と日本の「あかり」に対する考え方の違いも大きくなる。

 西洋においては、17世紀にパリの街灯として蝋燭ランタンなどが現れ、18世紀末には画期的な石油ランプそしてガス灯が発明されて一挙に夜の街や室内を明るくした。一方、日本では、18世紀中盤、江戸中期に入ると、植物からの採油技術が改良され、油菜(菜種)の栽培が盛んになって油菜(菜種)の油が使用されるようになった。これにより室町期に生まれた行燈も改良され、「半圓づゝあけたてが出来る」遠州行燈(円行燈)や有明行燈(角行燈)などが考え出された。それが「戯作者三昧」に描かれているように、ひろく庶民の生活のなかにも取り込まれるようになったのだ。

 また、蝋燭が一般化したのもこの時期で、藺草(いぐさ)を燈芯にして、櫨の木(はぜのき)の木蝋から作ることができるようになり、安価で品質の良い「和蝋燭」が広く出回るようになった。家の中では行燈と併用され、持ち歩く提灯として、また、歌舞伎などの舞台照明にも使われた。西洋の蝋燭と和蝋燭の違いは、製法としては、西洋では「筒掛けと謂って、竹を二つに割った中へ蠟を流し込む」が、和蝋燭は「巻掛け」という「芯に何度も蠟を塗り重ねる」方法をとられている。このせいかどうかはともかくも、和蝋燭の炎は大きくゆらぎ、芯が太いため消えにくく、洋ローソクはそのゆらぎは小さく、炎も消えやすいともいわれている。

東京都世田谷区:浄真寺(九品仏)三佛堂中央

 さらに西洋では、いろいろな素材のランプシェードによって火を覆ったが、日本の行燈や提灯は、和紙を使用することで、結果として柔らかなあかりを生み出したともいえる。ただ、明るさという点では西洋でのランプの改良により大きく差をつけられた。

 このように、建築構造上暗く、行燈や蝋燭など限られた「あかり」しかない日本の屋内を前提とした生活文化は、谷崎潤一郎によれば、部屋の造り、装飾はもとより、漆器、日本料理、果ては歌舞伎の女形まで「陰翳のうちの美」を紡いだのだという。さらに谷崎は「『灯に照らされた闇』の色を見たことがあるか」と自問し、「たとえば一と粒一と粒が虹色のかゞやきを持った、細かい灰に似た微粒子が充満しているもの」とまで述べている。だが、その日本人が近代化のなかで、アメリカの真似をしてヨーロッパに比べても明るさを求めており、「陰翳の美」を失いつつあることを慨嘆している。

秋田県仙北市:乳頭温泉郷鶴の湯

 一方で、谷崎の作家としての先輩にあたる永井荷風は「あかり」を全く異なる視点から見つめている。永井荷風は旧幕びいきで、急ぎ足の近代化に背を向けていたことは知られているところである。それゆえ「あかり」についても一見、谷崎と同じ立場にあるか、というと、この「あかり」ということに関して言えば、日本の前近代的な薄暗さとは対極の近代的な都市の「燦爛たる燈火」に惹かれるものがあるというのだ。永井は「夜あるき」で「余は都会の夜を愛し候。燦爛たる燈火の巷を愛し候」と述懐し、「かの燦爛たる燈火の光明世界を見ざる時は寂寥に堪へず、悲哀に堪へず、恰も生存より隔離されたるが如き絶望を感じ申候」とまで「あかり」を求めた。

 それは、「燈火は地上に於ける人間が一切の欲望、幸福、快楽の象徴なるが如く映じ申候。同時にこれ人間が神の意志に戻り、自然の法則に反抗する力ある事を示すもの」であり、「この光を得、この光に照されたる世界は魔の世界」がゆえに、この「あかり」に魅惑されるのだという。

 永井荷風は谷崎潤一郎を最初の作品から激賞し、その評価によって谷崎が文壇での地位を固めたと言われている。その二人の「あかり」に対する捉え方の違いは興味深い。反近代、近世への憧憬という点では、同じ立場をとっているが、「あかり」へのアプローチが真逆だ。ただ、永井は、都会の「あかり」を求めつつ、「神の栄え霊魂の不滅を歌ひ得ざる堕落の詩人は、この光によりて初めて罪と暗黒の美を見出し候」と帰結している。つまり、煌々とした、都会の「あかり」が魅力的なのは、徹底的なデカダンスであるからなのだとしているのだ。

 とすれば、一方は、「陰翳のうちの美」に身を置き、一方は、「堕落の詩人」として、あえて日本的ではない陰翳が明確な「暗黒の美」を見出している。確かにアプローチは真逆だが、谷崎と永井は、じつは、「あかり」に対する思いは、そう遠くないところにあるのかもしれない。

京都府京都市:先斗町

 この二人の文豪の思いとは別に、現代の日本の「あかり」は、陰翳もなく、ともかく明るい。室内照明においても直接照明が好きな国と言われる。たしかに欧米のホテルであろうが、個人宅であろうが、間接照明が主で、部屋全体が薄暗い。なぜ、欧米人は間接照明が好きで、「陰翳のうちの美」を生み出した日本人が直接照明を好きなのか。その理由には、例えば、瞳が青いのと、黒いのでは明るさの感じ方が違うとか、緯度の高低差で太陽の強さが違う等々、さまざまな説があるがどうも決め手がない。いずれせよ、近代以降、とくに電灯の発明によって、その使い方、アプローチの仕方に違いが生まれてきたといってよい。

 欧米人は暗い夜の克服を、科学技術での「明るさ」に求めたが、日本人は、暗い環境を一旦受け入れつつ、ある意味、積極的にこれに「陰翳の美」を求めた。しかし、明治に入り一挙に西洋の技術が流入し、日本人は欧米に追い付こうと急激な近代化を図るなか、文明への憧れ、あるいは近世からの脱却の象徴としての「あかり」を求める意識が強かったのではないか、と思う。それゆえ、日常的な場面で「あかり」を直接的に求めたといってよいだろう。一方、西洋では、自ら開発した技術をコントロールし、身体性、自然環境に合わせ、日常生活のなかで、実用性の明るさと安息のためのうす暗さというオンオフをつけようとしたのではないだろうか。

 それでも、現代の日本人もどこかしら「陰翳のうちの美」を持ち続けている、あるいは憧憬している。谷崎は、たとえ電球でも「在来の乳白ガラスの浅いシェードを附けて、球をムキ出しに見せて置く方が、自然で、素朴な気持もする」と、「あかり」に寄せる繊細な思いを書き記しているが、確かに町歩きや里歩きをしていると乳白色のシェード、裸電球の街路灯、お月様のような玄関灯などなど、いまでも日本の風景にマッチする小道具に出会うことはできる。

京都府美山町/岐阜県飛騨古川市:三嶋商店

 一方では仕方がないことではあるが、生活、信仰スタイルの変化のなかで日本の「あかり」を演出してきた和蝋燭の生産地は、全国で10数か所に限られるようになり、行燈などを作る職人も減少し続け、これらを継承していく難しさにも直面しているのが実情だ。

 それだけに、私は、谷崎と永井の両極のアプローチをわずかながらでも感得し、この繊細な「あかり」に対する思いを写真に収めてみたいと思っている。

茨城県結城市:金明山天照院常光寺

引用・参考文献

  • *「戯作三昧」芥川龍之介「日本の文学29 芥川龍之介」中央公論社(Kindle 版)
  • *「陰翳礼讃」谷崎潤一郎 中公文庫 (Kindle 版)
  • *「夜あるき」永井荷風 作品社 (Kindle版)
  • *「谷崎潤一郎の作品」永井荷風 三田文学 明治44年11月11日
     (ALL REVIEWS「歴史に残る名書評、名時評 その1 永井荷風×谷崎潤一郎」鹿島茂による)
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筆者

典然

観光関係の調査研究機関をリタイヤして、気儘に日本中を旅するtourist。
「典然」視線で、折々の、所々の日本の佇まいを切り取り、カメラに収めることがライフワーク。「佇まい」という言葉が表す、単に建物や風景だけではない人間の暮らしや生業、そして、人びとの生き方を見つめている。

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