[Vol.39]信州安曇野の奥行き(Ⅱ) -Vol.38,39に分けてお届けします-

 前回は安曇野の地形、地名、伝説と神々の奥行きについてレポートしたが、今回は歴史が生む奥行きや安曇野の楽しみ方について触れてみたい。

 

〇歴史が生む奥行き

① 荘園の形成

 この地の耕作地として相応しい平坦部は、前述したとおり、北アルプスを水源として、北から高瀬川、穂高(乳、芦間、中房)川、天満沢川、烏川、梓川などによって形成された扇状地と沖積地とその先の氾濫原となる。しかし、扇状地の上部、中央部では、水が伏流しやすい透過性の高い地質となるため、堰や用水の確保が新田開発には重要な意味を有する。また扇状地の下部では湧水は豊富だが、その先は氾濫原となりやすく、大規模な治水技術が必要となる。このことは、この地は、当初、高台には馬などの生産地として「牧」が多く見られ、水田開発は千国街道沿いの扇状地下部の沖積地から中央部、そして氾濫原へと広がっていったことからも分かる。

 現在の安曇野の農業を支え、美しい農業景観を作っているのが、古くから営々として造成されてきた堰、用水によるものである。北アルプスの峰々を仰ぎながら、なだらかに東方面に下っていく水田地帯に、縦横に用水が走り、要所には堰が設けられている光景は、まさに日本の稲作の典型的な景観を生み出している。

盛蓮寺付近から北アルプス(餓鬼岳方面)

 

 安曇野における堰は、江戸時代にもっとも多くの堰が開削されたが、古代からそれぞれの時代の治水技術のレベルに合わせ営々と造成され続けてきた。古代には、自然流下や湧水を利用した原始的な縦堰が造成された。この事例としては7世紀に開発されたと言われる梓川の右岸(松本市)和田堰がこれにあたる。平安期に入ると、縦堰が中心ではあるが、安曇野の住吉庄(高家郷)や野原庄(矢原厨も含む八原郷)などでも水田開発が進んだ。しかし、中世の縦堰方式では、水を供給できる範囲が限られ、日照りや下流部の洪水などの災害にも弱かった。

 そこで近世に入り、治水技術の発達とともに横堰の大規模な開削が格段に進められるようになった。これは横堰の建設には、透水性の高い扇状地を横断することや傾斜が少ないことから造成技術が難しく、治水技術が高度化した江戸時代にならないと造成工事ができなかったことによる。安曇野の南部に文化年間(1804~1818年)に竣工した約12㎞の「拾ヶ堰」は広大な水田に用水を供給することができ、江戸時代の堰の完成形のひとつとも言われており、今も現役である。これらの歴史からみてみると、現在のような、北アルプスを背景に安曇野の緩やかな傾斜地に全面的に美田が広がる農業景観は江戸時代以降に創造されたと言ってよいだろう。

長野県大町市から爺が岳、鹿島槍方面

 

 もちろん、この江戸期の大規模水田開発の基礎となったのは、安曇氏が持ち込んだ稲作、治水技術により古代から開墾を営々と進め、徐々に生産力を挙げてきた歴史がその出発点になることは間違いなく、さらには、この地の平安期における荘園化の動きがエポックとなったことにも着目すべきだろう。

 律令制度が浸透していくなかで安曇氏が凋落し、信濃においても8~9世紀には地方の有力者による初期的な荘園化の動きが始まったとみられる。平安期の「倭名類聚抄」では安曇郡に「高家太木倍 八原夜八良 前社 村上無良加美」の4郷の名が挙げられていることはすでに述べたが、10世紀後半以降には地方の有力者である開発領主が保護を求めて中央の権勢家(公家及び不在国司、寺社)に寄進する、寄進地系荘園が信濃でも浸透しはじめ、水田を始めとする耕地開発が進んでいく。こうした中央の権勢家との関りのなかで、寄進地系荘園のひとつとして、「御厨」という形態が生まれてきた。「御厨」は地方の有力者が伊勢神宮に領地の一部を寄進し、その代わりに神宮の権威を背にその地の運営管理を行っている場所のことを指す。

 この荘園成立期における「御厨」の設置については、文献上、最初に確認できるのは、鎌倉時代に編纂された「神宮雑例集」で、「永承三(1048)年十二月十日符」に「十七ヶ國封戸」が挙げられ、「百戸尾張近江美乃信乃各廿五戸」として信濃にも25戸を神宮領の封戸とすることが官符されたとしているものだ。ただ、これが安曇郡の御厨かどうかは不明だ。

 この「御厨」については、安曇野では設置時期は不明確だが、「仁科庄(倭名類聚抄では前社郷)」における「仁科御厨」、「野原庄(倭名類聚抄では八原郷)」における「矢原御厨」がそれにあたる。「仁科庄(倭名類聚抄では前社郷)」及び「仁科御厨」は現在の大町市の市街地の南東、高瀬川に臨む段丘上や高瀬川沿いに展開していたとみられ、「野原庄」及び「矢原御厨」は現在の「穂高神社」がある付近の扇状地と沖積地だったところで、現在では広大な水田地帯となっている。

 この時期は律令体制が崩壊しつつあって、地方の有力者が開発領主として中央の権勢勢力と組んで、墾田の開発がなされ、それを背景に公領の切り取りなどが横行し、荘園化が進み新しい経済体制が形成されようとしていた時期に照合している。これに対応するため、後三条天皇が発令した1069(延久元)年の荘園整理令は、1045(寛徳2)年以降の新立荘園の停止などを定め、公(国衙)領の確保増大、公領と荘園の区分の明確化を図ろうとした。しかし、この政策の趣旨に反し、これを継いだ白河天皇、さらに白河上皇としての院政下における権力集中によって、院領や上皇が造立した寺院の寺領として多くの荘園が寄進されていくという時代背景のなかで「御厨」という荘園の様態が生まれた。

 安曇野において「御厨」についてもっとも早く見られる記録は、北安曇地方を支配していた仁科盛家によって、1179(治承3)年、藤尾集落にある覚薗寺(現・覚音寺:大町市八坂藤尾)に千手観音が奉納された際の胎内木札墨書銘に「日本國 東山道 信州安曇郡御厨藤尾郷内覚薗寺大施主平朝臣盛家」とあるものだとされ、この「御厨」は地理的にみて「仁科御厨」だと推定されている。

 また、鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」には1186(文治2)年の条で伊勢神宮に「可早任先例辨備御上分神役并給主祢宜得分物」と滞りなく年貢などを収めよという命令書に「仁科御厨 太神宮御領」とするものがあるが、ただ、ここには「矢原御厨」の名はなく、「野原庄 同前(院御領)」として記載されている。また、「建久三(1192)年八月日」の「皇大神宮建久巳下古文書 神宮雑書并大上下祓䉼物(所用の品)注文」にも、「仁科御厨」の名が挙がっており、「件御厨往古建立也、度々被下 宣旨、所停止御厨内濫(乱)行也」と注記があるところから、これ以前から御厨として位置づけられていることは分かっている。

 さらに、1193(建久4)年から原本が作成され、1360(延文5)年に完成したという「神鳳鈔」は伊勢神宮領の一覧だが、そのなかの信濃国の条に「仁科御厨」と「矢原御厨」の記載がある。「仁科御厨」には『内宮 四十町 イ(異)本二十町』の添え書きに赤字で『布十段』と付され、『矢原御厨』には『千八百九十一町』と添え書きがされている。

 なお、「矢原御厨」については、これらの文献より早い時期のものとしては、鎌倉時代後期の「兼仲卿記」において、1118(元永元)年に、「藤原朝臣家信」から伊勢神宮外宮に寄進され、翌年には信濃国司が「御厨」として承認し、1127(大治2)年に至って在庁官人の立会いのもと、「四至傍示」が確定して神領となったという記事がある。「矢原御厨」の支配管理体制の変転を窺うことができるが、成立期については、この文献が鎌倉後期と後代のものなので、どこまで信頼できるものかはわかっていない。

 これらの文献上の記載から鑑みると、「仁科御厨」や「矢原御厨」は11世紀中期頃から12世紀頃に成立し、そのころまでにはこの地域は完全に地方有力者による荘園化が、中央権勢家と提携しつつ進んでいたと推測できよう。その地方有力者が実質支配者となり力をつけることにより、武家の台頭へとつながっていくのであろう。


② 御厨と仁科氏

 この地における荘園経営では伊勢神宮との関係が深い「御厨」が大きな意味を持っていたことはこれまでに述べた。そしてこの「御厨」の機能、位置づけを利用し、伊勢神宮の権威や朝廷との関係を誇示しながら、中世を通じて何らかの形で安曇野を支配したのが、古代の安曇氏に代わり実権を握った在地武家集団の仁科氏だったという。

 安曇野における『御厨』については、『矢原御厨』は「後白河院領」になったり、支配関係が輻輳したりその実態は不分明なところも多いものの、一方の『仁科御厨』は、中世を通して実態があったことが明確で、安曇野の歴史に大きな影響を与えた。

 「仁科御厨」は、当初、現在の大町市の南東部、高瀬川の東岸にある段丘上の社・宮本地区にあるところに中心があり、現在も伊勢神宮所縁の「仁科神明宮」が鎮座している。この「神明宮」が在地の武家勢力の支配をオーソライズする源泉でもあったのだろう。

 「仁科神明宮」を訪ねるのには、JR大糸線安曇沓掛駅の近くを流れる高瀬川を宮本橋で渡り、突き当りの急崖を登ることになる。この急崖は逆断層によって生成されたといわれ、標高差は80mほどあり、上りの車道もかなりの急坂である。坂を上った段丘上には、宮本の集落があり、耕作地も少なからず広がっている。翻ってみると、常念岳をはじめ、白馬連山など北アルプスの峰々が西の空に立ちはだかり、眼下には、安曇野を流れる何本かと川筋といくつかの扇状地がその裾を広げ、田園風景が展開する。その下段を縫い通すように、千国街道とJR大糸線の筋が見える。この雄大な景観は、古代からの霊域として相応しいものがある。

仁科神明宮の位置関係

出典:左)「南安曇郡誌」大正12年 399(589) 国立国会図書館デジタルコレクション
右)仁科神明宮(社村図)長野県町村誌 村絵図・地図(明治初期)NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

 

 集落の中の曲がりくねった道を進み、一の鳥居、二の鳥居をくぐると、左手にこんもりとした社叢が森閑と存在感を示す。境内に入ると、左手に石段が現れ、その先の左手に社務所、その奥に宝物収蔵庫が並ぶ。石段を上り詰めると三の鳥居が建ち、続いて神門があり、その奥に社殿が杉の巨木に囲まれて鎮座する。神門の先には拝殿が建ち、その奥に中門があって釣屋によって本殿へつながる。釣屋から本殿は正面からは見にくいが、左右からは垣間見ることができる。この本殿は桁行三間、梁間二間と決して規模の大きいものではないが、神明造で檜皮葺の古式豊かな建造物で、1636(寛永13)年に全面的に造営造替したものである。なお、これ以降は本殿の造営はなく、造替神事の折に修繕補修を加えてきた。現在も、当時の社殿の原形がそのまま残されている稀有な例で、この本殿は釣屋、中門とともに国宝に指定されている。

仁科神明宮

 

 この神明宮の創始については、「仁科庄(倭名類聚抄では前社郷)」や「仁科御厨」の成立に深くかかわっていると考えられる。1878(明治11)年の郡村誌「南安曇郡誌」によれば、「仁科濫觴記」に出て来る仁品王(崇神天皇皇子、垂仁天皇の弟とされる)によって白鳳年間(7世紀後半)に創建されたとしている。これは恐らく、社叢などが自然信仰の対象であったり、産土の信仰があったりした古くからの霊域であったことを示していると思われ、仁品王の創始はあくまで後付けの神話だろう。この神明宮は延喜式神名帳には記載はなく、いわゆる式内社ではない。

 これからみると創建の時期は明確ではないが、この地の有力者であった仁科氏によって周辺の開拓がなされ、前述したように荘園化が進み、11世紀中期から12世紀頃までには伊勢神宮の御厨となり、その際にこの地に勧請され社殿が造営されたと考えられよう。

 伊勢神宮と深い関係があることは、文献的にはもちろんのこと、現在まで続く神事祭事の継承、ことに式年遷宮(造替)が行われていることからも分かる。これは伊勢神宮にならって、20年ごとに一度、社殿の造営する遷宮祭を行ってきた。「信府統記」にも「二十一年一度ツヽノ宮造立棟札アリナシ神領墨印アリ」としている。ただ、仁科神明宮の式年遷宮は、前述したとおり1636(寛永13)年以降は本殿の造営は行われず、修理修繕のあいだ仮宮に遷座する造替方式で、この点は、完全に遷宮、造営する伊勢神宮とは異なっている。

 この遷宮造替神事が継続して来たことの一端を、社殿の一段下にある宝物収蔵庫(社務所に申し出れば見学可能、有料)にある式年遷宮造替の際の木造棟札でみることができる。この木造棟札は、南北朝時代の1376(永和2)年から現在まで33枚が残されており、1856(安政3)年までの27枚が国の重要文化財に指定されている。棟札はガラスケースの中に両面が見える様に立てられており、棟札の銘には造営の奉仕者、奉行人、工匠、また伐木から遷宮造替に至るまでの日時、経費などが記載されている。

 この地の支配者であった仁科氏が奉仕者となる棟札は1556(弘治2)年の盛康まで続き、1576(天正4)年には武田氏系の仁科盛信が奉仕者になったが、1582(天正10)年滅亡したため仁科氏銘の棟札は、1576(天正4)年のものが最後となった。その後は松本藩主が代々に奉仕者となって継続され、「寛永14(1637)年からは黒印(藩からの寺社領の割当て)二十三石に改められ、かつ又徐地として村内ならびに一之瀬(八坂村) 堀之内(白馬)、借馬、野口(いずれも大町市)等に田畑山林、又青木湖一面等を有し」(仁科神明宮HP)、引き続き篤く保護された。

 中世を通じ、安曇野で勢力を維持し、「御厨」を寄進し経営にあたった仁科氏とはどのような氏族であったのか、興味深いものがある。

 草間美登によれば、仁科氏の出自は不詳であるが、「古代阿部氏の傍流が北陸道より姫川を遡り仁科の定着」したという説を挙げ、その後、地方豪族として平姓仁科氏を名乗ったという説を紹介している。この阿倍氏は阿倍比羅夫と関連した氏族で、安曇氏にとってみると、白村江の戦いなど、水軍としてともに戦った仲間でもあることから、その接点はあったのは事実だろう。「大町市史」でも、仁科氏の出自を阿倍氏が北陸から進出してきたとした説をとっている。ただ、最近では大和、伊勢経由で南から信濃に進出したという説も有力とされている。また、『信府統記』では、「あべ」は「あべ」だが、奥州安倍貞任の末裔が進出した説を紹介しているが、これはその後の勢力図から言えば無理があるのではないだろうか。

 「仁科」という氏族名は、地方豪族として土着化していく中で、その地の名をとったとされる。仁科氏の名前が神話的伝承でなく、文献上、最も早く現れるのは、仁科盛家で、1179(治承3)年に同地の地頭として安曇郡覚薗寺に千手観音を寄進し、その際に平朝臣と墨書していることは前述した。この盛家については、「源平盛衰記」の「源氏追討使事」の条で1183(寿永2)年「信濃國住人、仁科太郎守弘」らを「大将として、燧城(現・福井県南越前町)へ指遣」とあり、また、「福原管弦講事」の条では「寿永二年八月朔日、京中保々守護事」として「仁科次郎盛家」の名がみえることから、「守弘」と同一人物という説もある。さらに、同年の「源平水島軍事」の条では「仁科次郎盛宗」の名が挙げられているが、これも「宗」と「家」の間違いだとする説もあるが、これらは推測の域をでない。

 この仁科氏の系譜は諸説あるが、小山愛司の「信濃史源考」では「何時にても大町仁科奥仁科の地頭たる人を仁科殿と稱したり」と古文書から引用しており、「仁科ㇵ居所による家號」だと指摘している。他所へ移っても仁科を姓名として使用する支族もあったという。そのため「仁科と稱せし人に諸氏あり、各其祖先を異る事、而して史書上其説一ならず」とし、仁科氏の主流については「初メノ仁科三十代、中仁科二十代、後仁科十代、及武田盛信」を合わせて、61代を数えたと紹介している。

 一方、明治期に編纂された「新撰仁科記」では信濃守平維茂を祖とし、源義仲とともに滅びた「平姓前仁科氏」、承久の乱(1221(承久3)年)後の混乱の中で仁科家の主流となった「安倍仁科氏」、その「安倍仁科氏」を木曽義仲の遺子が討ち、1233(天福元)年「源姓仁科氏」となったとしている。さらに、この一族が南北朝期に南朝方に属したため衰え、1376(天授または永和2)年には「平姓後仁科氏」にその名と譲ったと記している。

 「仁科」における平姓を名乗ることが多いのかということについては、「信濃史源考」や「新撰仁科記」の説以外では、井原今朝男は「仁科氏は、安曇氏の支族とも伝えられているが、伊勢平氏との関係も深いとされる」とし、信州で墾田などの荘園化が始まった時期に進出したといわれる伊勢平氏と関係を指摘している。仁科御厨の地頭としては、前述した仁科盛家をはじめ、1228(安貞2)年の木舟浄福寺跡鉄製鰐口の銘にある仁科康盛、1376(永和2)年から1536(天文5)年までの式年遷宮棟札には仁科盛国,盛房,持盛,盛直・明盛・盛国・盛能はいずれも「平姓」を名乗っている。井原は「仁科御厨の在地領主は平安末期から戦国時代まで平姓仁科氏が存続し『盛』を通字にしていた」と説明している。

 このように仁科氏の系譜については諸説があり、出自や括り方、呼称に異同はあるものの、時代時代で中央の権力構造の変化の影響をうけながら、血脈的継承というより地縁的なつながりと権力闘争のなかで、この地域の支配者としてオーソライズされるため「仁科」の氏を「家号」として名乗ったと言って良いのだろう。いずれにせよ、平安時代中期から戦国時代まで、「仁科」の名が継承され、北安曇を度合いはともかくも支配を続けられたことによって、「仁科神明宮」がその神事祭事ともども維持されたことには間違いない。

 一方、「矢原御厨」を含めた「八原郷」や「穂高神社」などがあった安曇野南部は、どのような歴史的な過程を経たのだろうか。

 「矢原御厨」のあった「八原郷」の範囲は、北は「仁科庄(倭名類聚抄では前社郷)」に接し、現在の安曇野市、松川村、池田町にわたる梓川や烏川、中房川、高瀬川などの複合的に重なりあう扇状地と沖積地、氾濫原から成る。中世の「八原郷」には「矢原御厨」とともに「野原庄」も開かれていたと言われている。

 この地は縄文、弥生期から集落はあり、さらに安曇氏の進出により水田開発が加速し、「八原郷」が形成されたとみられる。それを律令制度が浸透していくなか、8~9世紀には信濃でも一部初期の荘園化が始まったとみられ、「倭名類聚抄」では安曇郡には4郷ありとして、「八原八波良郷」の名が挙げられ、10世紀後半以降は寄進地系荘園が浸透しはじめたことはすでに述べた。その過程で、安曇氏の没落とともに、安曇野南部においては大伴氏系といわれる地方有力者の細萱氏が猪鹿牧の経営などで力をつけ、荘官として一定の影響力を有していたとみられるが、その時期は不明である。伊勢平氏が、12世紀初頭に安曇野南部を中心に進出した際にも、細萱氏がその傘下に入り、荘官として一定の役割を果たしていたとみられている。細萱氏は、中世を通じ現地の荘官を務めたと思われるものの、中世後半には仁科氏の影響下に入ったともいわれている。しかし、一方では穂高神社の造替に関わる1483(文明15)年「三宮穂高社御造宮定日記」には「安曇郡穂高社、大檀大伴(細萱)盛知、同社、式年造宮課役、同郡諸郷」としているので、一定の勢力を武田氏の安曇野進出まで維持したことがわかる。

 ただ、「矢原御厨」の成立については、先に触れた「兼仲卿記」1118(元永元)年に、「藤原朝臣家信」(藤原北家、三河守などを補任)から伊勢神宮外宮への寄進と1127(大治二)年の伊勢神宮外宮領のとしての「矢原御厨」が確立している記事以外では、1193(建久4)年に原本が作成されたとみられる「神鳳鈔」に「千八百九十一町」の面積が添え書きした記載したものしかない。しかも、一志茂樹によれば、この添え書きの記事は後に書き足されたものではないかとも指摘している。

 さらに、井原今朝男によると、平安期の平信範の日記である「兵範記」の保元2年(1157)3月29日の条に、保元の乱の後始末として、左大臣頼長とともに平忠貞や平正弘などの所領を没官し後白河院領とすべきことを命じた大政官符(3月25日付け)が所載されていると指摘しているが、この平正弘領であったとする「信濃国四箇所 麻続御厨 公郷領参箇所 高田郷 市村郷 野原郷」にも、「矢原御厨」の名はない。他の古文書、文献においてもでは、この地域については「八原郷」「野原郷」「野原庄」などの記載しかみられないという。

 これからみると、おそらく「八原郷」と「矢原御厨」は並列していた時期があったとおもわれるが、12世紀後半から13世紀前半にかけて、「矢原御厨」も含め「野原庄(八原郷)」の支配権を巡り、細萱氏を含めたこの地の有力者や中央の利権者たちが複雑に絡んだ争いが続き、「御厨」自体の位置付けが不安定で実態も曖昧なものになっていたことが窺い知れる。結局、「矢原御厨」は、その実質性が伴う存在であったのは短期間で、13世紀には有名無実化されていたと考えられよう。

 なお、「八原」、「野原」、「矢原」の地名の表記の相違については「日本地理志料」では、「八原」は「其土冝箭竹也」(イネ科の矢竹に適した土壌)から由来しているとし、「野矢與八、音訓相通」(野、矢は八と音訓が相通じる)としており、同様に、一志茂樹は、「野原郷は『和名抄』の八原郷、『吾妻鏡』の野原庄、『神鳳鈔』の矢原御厨、『内宮神宮家所持古文書』の矢原庄、『諏訪神社造宮帳』の矢原庄と共に、南安曇郡穂高町矢原を中心とした地域で、その範圍には勿論異動があつたものとみるべきであろうが、漸次名義の轉化したもの」としている。

 伊勢神宮との関りでは、「仁科御厨」の「仁科神明宮」同様に矢原御厨においても「矢原神明宮」が設けられたとされている。現在の「矢原神社」がそれに該当するのではないかと推測されているものの、その面影は全くない。これは、やはり、早い段階で「御厨」が実態を無くしたためであり、また、近くに式内社の「穂高神社」があることから、「八原郷」の多くの集落は、安曇氏以来の氏神であり、産土神で、延喜式の式内社に挙げられている「穂高神社」を崇敬し、氏子として支えたのではないかと思われる。


〇安曇野の楽しみ方

 以上のように安曇野は、北アルプスや筑摩山地、高瀬川などの河川群、それが生んだ扇状地などの大自然と、田水が溢れる水田、わさび田や果樹園によって、まさに日本の原風景のような景観を生み、その環境の中での人々の長い営みによって、歴史的景観や人文資源を創造・継承されてきたといえよう。

 これらの楽しみ方にはいろいろなアプローチはあるが、自然景観や農業景観の素晴らしさを肌で感じるのには、JR穂高駅や穂高神社の近くを流れる烏川から、松本市の梓川近くJR島内駅までの約17㎞の安曇野やまびこ自転車専用道が格好だ。この自転車道は烏川や梓川の扇状地の中央部あたりを横断する拾ヶ堰に沿って設置され、北アルプスの眺望はもとより、広々した水田を見渡すことができ爽快な景観が展開する。文化年間(1804~1818年)に竣工した約12㎞の拾ヶ堰は、扇状地の広がりに対し横断する形で開削される横堰であるので、安曇野を見渡すのによい。

 さらに歴史的景観や人文資源とじっくり向き合うのであれば、JR穂高駅から穂高神社を回り、あずみ野自転車道とは逆に高瀬川の西岸を北へ遡行して大町市に向かい、宮本橋で東岸に渡り、東岸の急崖の上にある仁科神明宮に向かうのが良いだろう。ここまでで約14㎞、急崖のきつい上りもあるので、自転車で、とは必ずしもお勧めはしないが、高瀬川の西岸を走ると西に常念岳の連山が雄姿をみせ、麓の扇状地や沖積地の水田の広がりをしっかり受け止めることができ、その眺望を楽しみながらのツーリングは快適だ。

 また、仁科神明宮から大町の中心街や大町駅に向かうのには、仁科神明宮のある段丘上をそのまま北に向えば、北アルプスの大展望も楽しめる。途中、仁科氏の祈願寺ともされる盛蓮寺に立ち寄ってみるのも良い。同寺の観音堂は室町末期の造立で国の重要文化財に指定されている。ここを過ぎて台地を徐々に下れば大町の中心街に至る。仁科神明宮からJR大町駅までは約7kmの道のりだ。

盛蓮寺観音堂

 

 なお、大町駅より東へ約1.6㎞の高台の「北アルプスの自然と人」を紹介する大町山岳博物館や同駅から北2㎞ほどの若一王子(にゃくいちおうじ)神社にはぜひ立ち寄りたいところ。若一王子神社は神話伝承の仁品王の創建によるものとされ、仁科氏の崇敬も篤かった。神社の本殿は室町後期、1556(弘治2)年に仁科氏により造営されたもので国の重要文化財に指定されている。

 安曇野はこれら以外にも碌山美術館をはじめとする美術館が点在しており、清冽な湧き水を利用したわさび農場、国営アルプスあづみの公園など、観光資源が数多くあるので、ゆっくり滞在してこの観光資源、景観の奥行きを体感してもらいものだ。

国営アルプスあづみの公園(堀金・穂高地区)

 

 

引用・参考文献

このたびれぽで紹介している資源
筆者

典然

観光関係の調査研究機関をリタイヤして、気儘に日本中を旅するtourist。
「典然」視線で、折々の、所々の日本の佇まいを切り取り、カメラに収めることがライフワーク。「佇まい」という言葉が表す、単に建物や風景だけではない人間の暮らしや生業、そして、人びとの生き方を見つめている。

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