[Vol.2]日本の蔵

 蔵で、ふと、思い出すのは、学生時代のことだ。もう40年も前になるが、江戸末から明治、大正当時の農村経営について研究するため、大学の指導教官の御供で史料を探しに、静岡県下の篤農家だった旧家を訪ねた時のことだ。東海道線の最寄り駅から10kmほど山がちの道を入ったところの村で、かつては報徳運動が活発な地域だった。そこの旧家のお蔵に案内されて驚いた。英語、ドイツ語の原書、それに経済、農業、法律などの古い専門書が、蔵書としてお蔵一杯に保存されていた。お聞きするところには、その家から、明治時代にドイツ留学をされた方もおり、医者、学者、教師など多くの人材を輩出しているとのことであった。

滋賀県近江八幡市:旧西川家住宅

  文化を熟成できるほどの生産性が確保できはじめた江戸時代には、こうして地方において篤農家や素封家が、経済を支え、文化を育んだのだろう。それが明治に入り、世相の流れの速さに戸惑いながらも、近代化に向け、新しい知識を吸収、実践しつつ、逸材を輩出していったのだ。工業化が進んでいったといえ、圧倒的な農業国であった日本の近代化は、この層が、知的リーダーとして地域において、あらゆる面で引っ張って行ったのではないかと思う。

 この地域で盛んであった報徳運動は、尊徳仕法による農村改良運動だったが、小規模金融機能も有していた。いま、途上国で行われている「貧者の銀行」である。報徳運動では利子という概念はなく、まず、元金返済を年割賦で行い、それが完了したあと、例えば、1年、あるいは2年、同額を余分に返済を続け、これが利子代わりになるという寸法だ。相互扶助と農村改良運動が結び付いた報徳運動は、いまでいう協同組合の先取りではないかとも思われるが、実際は、極めて日本的なゲマインシャフト的な運営だった。協同組合自体の発想は、ドイツからの移入の制度だ。あの、柳田國男が農業官僚として、その導入に熱心だった。そのためか、報徳運動のリーダーであった岡田良一郎と柳田との間で、いわゆる「柳田‐岡田論争」というのが起きた。まさに、日本的な村落共同体を維持しつつ、相互扶助を進める岡田と、ドイツからの移入制度を日本に取り入れ、近代化を促進しようとする官僚の論争だった。どちらが歴史の流れに沿っていたかは、明白だが、こうした地方のパワーがあった時代であり、それを地方が培える時代であったのだ。地方に散在する蔵はそれの象徴のようなものだ、と、思う。

左)山梨県早川町:赤沢宿 右)長野県鬼無里村:文殊堂近く

 しかし、いま、川越や佐原など、一部、再生に成功した例もあるが、多くは朽ち果てようとしている。かつて、水運、舟運の要であり、物資の集散地であった、関東の多くの町で、崩れゆく蔵が目立つ。江戸の後背地として、経済面でも、文化面でも江戸を支えてきた町が、単なる衛星都市へ格落ちしているのが現状だ。

 いまの経済構造、社会構造からいって自然の流れだが、つい、郷愁に駆られてしまう。そうした町を歩きながら、お蔵を見上げると、その歴史を負うように悲しげな表情をしている。その表情を造っているのは、大概の場合は「窓」や「扉」だ。蔵の用途やその屋敷での役割、町並みのランドマーク機能などから、当然ながら、「窓」や「扉」のデザインは異なってくる。それが、蔵の表情となる。愛嬌あるもの、謹厳実直なもの、笑い顔、怒っている顔等、いろいろな表情を見せてくれる。また、それは、見ている側の置かれている精神状況によって、見え方が違うのかもしれない。庄屋さんの蔵の表情は小作からみれば、いつもいかめしく見えるかもしれない。酒蔵は飲ん兵衛からみれば、その表情はいつも魅惑的なウインクにみえるかもしれない。

 そんな想像を巡らせながらのまち歩きは楽しい。

左)群馬県甘楽町:小幡 右)群馬県富岡市:旧富岡製糸場

左)神奈川県三浦市:三崎港 右)茨城県八郷町

埼玉県行田市

 

筆者

典然

観光関係の調査研究機関をリタイヤして、気儘に日本中を旅するtourist。
「典然」視線で、折々の、所々の日本の佇まいを切り取り、カメラに収めることがライフワーク。「佇まい」という言葉が表す、単に建物や風景だけではない人間の暮らしや生業、そして、人びとの生き方を見つめている。

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