以前、信州の白馬村大出公園近くで奇妙な道祖神に出会った。信州の道祖神は、双体神1基ということ多いが、ここの道祖神は、天鈿女命と猿田彦と思われる神様がそれぞれ1基ずつ並例して立っていた。この形式がそれほど不思議とは思わないが、立っている場所が奇妙といえば、奇妙であった。集落の真ん中の用水路をまたぐように置かれた大きな石材の上に、用水路の方を向いており、道祖神は道の安全や村を守護するために祀られる塞ノ神、境の神であるからその場所に違和感があったのだ。
その後、再び訪れてみた時に、その場所から道祖神がいなくなったところからすると、もともと置かれていた場所ではなく、多分、観光用に雰囲気づくりのために置かれたものだったのだろう。用水路の清流と道祖神は確かにフォトジェニックではあった。いまや信仰といっても、道具立ての一つとなったのだろう。
一方では、神社、仏閣の境内の片隅に忘れ去られたように、数基の道祖神、庚申塚、石仏・石塔がまとめて一列に並べられていたり、押しやられた様に無秩序に据え置かれたりしていることも多い。現代人にとってこれらの石仏、石塔は日常生活のなかでは必要性を感じることがなく、信仰、生産様式、社会関係などの変化によって、神社や仏閣の境内の片隅に追いやられたのだろうが、それにしてもこうして押し込まれたように並ぶ姿は哀れで、なぜ、こんな姿になってしまったのか気になってしまう。
そこで、こうした路傍の石仏、石塔と日本人がどう関わってきたか、概観するとともに、観光資源として活用していくには何が必要なのか、考えてみたい。
宗教学者の島田裕巳によると、日本人の信仰心、あるいは、神に対する姿勢は、「神を祀るという行為が、人間を主体として行われるものであるとともに、特定の場所というものに深く関係していると」としている。これは、一神教であるキリスト教のように、神がすべてを定め、その意思をキリストが民に教えるという信仰の構造とはまったく異なるといってよいのだろう。そのため、日本人は触れるあらゆる事象のなかで、恐れなどを抱いたとき、それを鎮め、その災いから逃れ、そのうえで守護してもらうために、多種多様な神を生み出したといえる。
民俗学者で歌人の岩崎敏夫は、日本人の神々を4類40種に類別して整理している。例えば、第一類では、日月星辰・風雨雷などの自然現象、山川海淵滝など自然風土、水火土石金などの物質、草木・鳥獣虫魚貝などの動植物、氏や人、さらには神霊精霊怪異など8種のものが神となっているとしている。第二類では生産活動に関する神々、第三類では、病気、境四隅守護防塞鬼門除け、開運など現世的な安堵、願いを神々に置き換えていたもの、第四類では、天降った神、渡来神、護寺神、仏教系など、神の出現の仕方に関するものと整理している。すなわち、これらの掛け合わせで、日本の神々が存在したということだろう。まさに八百万の神たちなのだ。こうした神々を背景に多様な信仰対象、信仰の方法が生まれてきて、そこに岩崎の分類にもあるように外部からの神、仏教と習合し、綯い交ぜとなり、日本人の宗教観を作り上げていったのであろう。
ただ、そのなかにおいて、日本人が軸を置いた神の一つが「氏神」であったのではないか。それは地縁、血縁から生まれた神であり、先祖崇拝のなかから生まれたのだ。岩崎は新嘗などの祀りごとから「血縁につながる氏の神が時代を経るに従って地縁的な性格を帯びて来」て、それが同族の神から「さらに血のつながりのない部落の大きな神となった例は案外多い」と指摘している。
じつは、これが、長い歴史のなかで、郷社となり、明治以降に国家神道のもとその支配原理に活用されることになるといってよいのだろう。
しかし、それまでは多数の神々が多様な形態で、外来宗教や流行的な信仰と習合しつつも、野に山に海に家に里に存在したのである。もちろん、そのなかでもっとも民衆に浸透したのは、仏教と、仏教と習合した日本の風土のなかから生まれた神々だった。それらの多くが、道祖神、庚申塔や六地蔵という形で、全国の野山、海辺、里、家々のなかにも鎮座していたのである。
たとえば、道祖神は柳田国男によれば「石を祀る風習は、甲州に限らず、全国にもある」とし、「あるものは円石もあれば、天然のそのままの石も」あって、もともとは、「道路の辻などにこの神を祀るのは、往来の安全を計るという能動的なご加護を得る事ではなく、邪悪な神の侵入を防止しようという受動的な意味合いで」、 道祖神がある場所や地名から類推すると「必ずしも道路の側だけではなくしばしば奥深い山の中などにも」あり、「山から降りて来る邪悪神を阻塞して、村落の平穏を望むための神事」と考えられるというのである。
これに関連して、道祖神や塞ノ神、幸の神などを荒神と称し、集落や家を守る神として祀ることも多いが、これが「国津神(地神)と呼ばれ、新住民に抵抗する者」が 「荒神」と呼ぶ様となったというのだ。「新住民」、即ち外部勢力の神が天津神であり、その天津神が、国津神を取り込んで、日本の信仰の構造を作り上げたと理解してよいだろう。その上、そこに仏教という新しい宗教が乗り込んできて、それを飲み込むことになったので、きわめて重層的、かつ、多様な信仰形態が日本ではできあがったのだろう。
それゆえ、民衆レベルでは、身近な神をその体系のなかに、都合の良いように位置付け、また、疫病や災害、戦乱に遭遇した時、それに応じて流行神を生み出したり、それまでの神仏に新しい解釈を付け加えたりしたのだろう。
こうした民間信仰の道祖神について、仏教が伝来し神仏習合が進んだ平安期における貴族たちはどう見ていたかを、芥川龍之介の「道祖問答」では、芥川なりの解釈を加えている。
主人公である天王寺の別当、道命阿闍梨は、「傅の大納言藤原道綱の子と生れ、天台座主慈恵大僧正の弟子」となったが、学識はあったものの修行もせず、「天が下のいろごのみ」だったという。その道命が和泉式部のもとを情人の一人として忍んで来た。ことの次第が終わり、夜半過ぎにひとり誦経を行っているのだが、そこに道祖神が現れる。その理由が振るっていて「御行水も遊ばされず、且つ女人の肌に触れられての御誦経」だから、「今宵は、でござれば、諸々の仏神も不浄を忌んで、このあたりへは現ぜられぬげに見え申した」と述べ、自分のような下賤の仏神でも、道命阿闍梨へ「心安う見参に入り、 聴聞の御礼申そう便宜を、得た」というのである。それに対し、道命は、自分は「無戒の比丘じゃが、既に三観三諦即一心の醍醐味を味得した。よって、和泉式部も、道命が眼には麻耶夫人じゃ。男女の交会も万善の功徳じゃ」と強弁し、「道命が住所は霊鷲宝土じゃ。その方づれ如き、小乗臭糞の持戒者が、妄に足を容るべきの仏国でない」と追い返すのである。
つまり、この時期にはすでに、貴族などの上流階級、知識人階級では、仏教の伝来過程のなかで正当に神仏習合した以外の、民間信仰の神と習合神仏は差別されており、当時の社会構造を反映し、神仏の階層化、階級化が進んでいたということだろう。そのことを象徴的に表現したのが、道祖神に対し、身の回りのことや自分のことしか見ることができない「小乗臭糞の持戒者」だという言葉だ。
貴族階級などにとっての習合神仏への線引きは明確にあるようで、道祖神は「小乗臭糞の持戒者」であるが、権現様は、芥川龍之介の「俊寛」では、流人たちが京への帰還を願い、「ありとあらゆる権現に祈るじゃ。康頼は何でも願さえかければ、天神地神諸仏菩薩、ことごとくあの男の云うなり次第に、利益を垂れると思うている。」と書き、救済を願うあらゆる神仏の代表として挙げられているのが面白い(たびれぽ「権現様」参照)。
このように神仏の階層化、階級化が進む一方、江戸時代に入ると仏教が宗門という形で民衆支配の道具になり、葬儀など、民衆の生死、所在の管理支配をおこなったものの、民間信仰については、反体制的でない限り、習合していくか、黙認していたといってよいのだろう。
それゆえ、明治の神仏分離政策の直前の状況について、日本思想史の泰斗である安丸良夫は「神々の明治維新」のなかで、岐阜県恵那郡蛭川村では「廃仏毀釈より以前、村の大部分は臨済宗の宝林寺の檀戸で、神社は、牛頭天王社など5社が蛭川の5社といわれて崇敬されていた。このほか、稲荷、秋葉、荒神、天神、金毘羅、大神宮、津島、観音、弁天、薬師、庚申など、きわめて多くの小祠が村内各地にあり、そのうち、仏教系のものは、近世中期に建立されたものが多く、神道系のものは、文化・文政ごろに勧請されたものが多」かったと、その具体的事例として紹介している。
このように江戸時代までは仏教が統治機能一部とはなっていたものの、庶民の間では多様な信仰形態が保持されてきた。しかし、明治維新直後の行われた、神仏分離政策による廃仏毀釈運動や神社の統合序列化によって庶民に根付いていた多様な信仰が一旦は排除されることになる。
安丸良夫は、神仏の分離の法制化がなされた、明治四年「官社以下定額及び神官職員規則等」について、「官・国幣社を具体的に定め、その下に府藩県社、郷社、産土社」をおき、「村ごとに一村一社を原則とする村氏神=村社」として「区毎に郷社をおいてその区の村社は郷社の附属とし、この郷村社が地域の宗教体系の中核」とするものであったとしている。すなわち、もともとあった氏神が官製としての村氏神の成立につながり、「一方でそれ以外の雑多な神仏を排除するとともに、他方で国家がさしだす神々を受容する受け皿」となったというのである。実際に旧埼玉県においては、明治5年2月、「出願の手続きを経ないで往来筋や田畑などに庚申、石仏、石碑の類の建立を禁止」し、明治9年12月の教部省の示達では、「山野、路傍に散在する神祠(山神祠、塞神祠の類)・仏堂(地蔵堂・辻堂の類)」で矮小のもの、監守が平素いないものは「すべてもよりの社寺へ合併または移転させるよう」にした。
近代国家を急務としている明治政府とって、土俗的神仏の整理、抑圧は開化政策の啓蒙的諸改革の一環として風俗改良を目指す一面もあったが、当初目指した国家神道の主導による祭政一致の国家的祭祀体系の樹立と裏表の関係であったことも事実だろう。しかし、これは政教分離、信仰の自由という近代国家のタテマエに見合うはずもなく、必然的に揺り戻しがあり、仏教も信者たちによって「仏像などの一部はのちに探し出されて、ふたたび祀られ」、また、「現在、念仏堂と呼ばれる小堂に、区部などを注ぎあわせ石仏類が集められ」る、などして、仏教系の信仰についても一定の復活を果たしていく。
また、庚申塔や多種多様な講などの身近な民俗信仰も根強く、前述の明治9年の教部省の示達でも結局は「人民の信仰があるものは、受持ちの神官・僧侶を定めて永続の方法をたて、存置の出願があれば府県で許可してよい」とまで、廃仏毀釈の政策を緩和している。「権現」や「明神」の復活もその流れであり、地元住民たちの手によって一旦廃止された祭りや行事が復活し伝承された事例も数多い(たびれぽ「権現様」参照)。
このように近代国家としての体裁を整えるなかで、紆余曲折はあったものの、日本人の信仰のあり方に大きな変化があった。しかし、日本の伝統的行事や祭事、神事、宗教的建造物などを観光資源として扱う時、この日本人の信仰の大きな変化について、必ずしも触れられておらず、我田引水的な説明が散見される。歴史的事実、本質をいかに訪れる人々に理解してもらうか、観光資源としての価値を高めるためにも重要なことである。とくに、多くの歴史書、公式記録からは抜け落ちることも多い路傍の石仏や石塔にも、日本の風土に培われた信仰心や精神が宿っており、これらを掘り起こすことによって、地域の歴史に奥行きを与え、観光資源としての価値を高めることになるはずである。
ただ、そのためには、保存、保全が重要であり、かつ、幅広い研究と客観的な分析も必要であるが、学術的調査のみならず、地域住民が自らの地域の歴史や伝統を理解し、掘り起こしていく地道な活動が同時に必要ではないだろうか。
引用・参考文献
- *島田裕巳『「日本人の神」入門 神道の歴史を読み解く』(講談社現代新書)、講談社、2016年
- *岩崎敏夫『村の神々』(民俗民芸双書28)、岩崎美術社、1968年
- *柳田國男『石神問答』(日本文化名著選)、創元社、1941年〔Kindle 版〕
- *芥川龍之介「道祖問答」「俊寛」、『芥川龍之介大全』〔Kindle 版〕
- *安丸良夫『神々の明治維新—神仏分離と廃仏毀釈』(岩波新書)、岩波書店、1979年
- *高島慎介「石に挑んだ男達」
- *福岡市経済観光文化局 文化財活用部 文化財活用課「福岡市の文化財」
- *埼玉県『新編埼玉県史 通史編5 近代1』、1988年