[Vol.17]権現様

役行者とは

 吉野山の金峯山寺金剛蔵王大権現三体と対峙すると、その威厳ある形相と巨大さに自らの心を見透かされたような気持になり、圧倒されてしまう。この三体の大権現の謂われは、白鳳年間(7世紀後半)に役行者(役小角または役優婆塞)が、古くは金峯山(きんぷせん)と称されていた吉野山から大峯山山上ケ岳にかけての一帯で修行に入り、修験道独特の本尊・金剛蔵王大権現を感得したことに始まるという。この姿を山桜に刻んで、山上ケ岳(現:大峯山寺本堂)と山麓の吉野山(現:金峯山寺蔵王堂)に祭祀したのが、金峯山寺の開創と伝えられている。この金峯山寺に限らず、山岳信仰と関連が深い寺院の開創の縁起には、この役行者が数多く現れる。

 しかし、どうも腑に落ちないところがある。7世紀後半に修験道をもとに修行したという役行者は、一体、何者で、仏教とはどういう関係にあったのか、ということである。この時期はまだ、仏教が日本に移入されてばかりで、日本に以前からあった自然信仰や山岳信仰と仏教の習合が長い時間をかけて行われていく過程の始まりの時期だったからだ。

 「権現」は「本来の仏の姿で登場するのではなく、悪を調伏させるために憤怒の形相に姿を変え、出現する」とされ、金峯山寺の場合、三体の権現のそのもととなる本地仏は、過去・現在・未来の三世の救済に対応する釈迦如来・千手観音・弥勒菩薩であり、それが権化した姿だと当寺では説明されている。

 しかし、役行者が感得したのは、果たして、こうした「権現」だったのだろうか。さらにそもそも役行者とはどんな人物だったのだろうか。

奈良県吉野町:金峯山寺 蔵王堂(金剛蔵王大権現)

 その役行者についての記述があるのは、延暦16(797)年に完成したとされる勅撰史書である「続日本紀」や、それに遅れて30年ほどあとに書かれたという最古の説話集「日本霊異記」だ。

 「続日本紀」の文武3(699)年5月丁丑の条では「役君小角伊豆ノ島ニ流ス。初メ葛木山ニ住ミテ、咒術ヲ以テ称セラル。…中略…世相伝テ伝フ小角能ク鬼神ヲ役ニ使イシメ、水ヲ汲ミ薪ヲ採ラシム。若シ命ヲ用ヒザレバ、即咒ヲ以テコレヲ縛スト。」と、呪術を使って人心を惑わしたので、それを謗られ、伊豆の島(伊豆国)に配流になったことが淡々と記述されているだけだ。

 一方、後年の「日本霊異記」では、この経緯が詳細に書き込まれている。

 仏教に篤く帰依し修行した役行者が奇異な験術を取得し、鬼神を自由自在に操り神々を困らせた。そのため、「葛木の峯の一語主の大神(一言主神)」が、「謀して天皇を傾けむと」したと役行者を、朝廷に讒言したことにより配流になったと説明している。

 また、その後のこととして、伊豆の島(伊豆国)に配流中に、夜、富士山まで飛んできて修行をしたことや仙人になったことなどが書かれている。さらに、重要な点は「日本霊異記」が、なぜ役行者について取り上げたかが分かる結論を書き加えていることだ。

 すなわち、役行者については「其の奇しき表を示ししこと多数にして繁きが故に略すらくのみ。誠に知る、仏法の験術広大なることを。帰依する者は必ず証得せむ」として、仏法の優位性を示す事例に仕立て上げられている。しかも、「彼の一語主の大神は、役の行者に咒縛せられて、今に至るまで解脱せず」として、神に対する優位性さえ書き込んでいる。ここに出てくる一語主の大神は、葛城山にいる神であり、大国主命の子である事代主命と同一神とされ、「悪事も一言、善事も一言、言い離つ神」、すなわち託宣の神、言霊の神と言われている。一語主の神が国譲りに関連する国津神であることから、この説話は、仏法の優位性を語るにしても天津神までは出さずに、神と仏の関係について一定のバランスを考えているともいえよう。

 いずれにせよ、ここまで役行者の仏性を「日本霊異記」が書き込むのは、勅撰史書である「続日本紀」とは異なり、当時、日本においてその勢いを増していた仏教勢力のプロパガンダのために書かれたというこの書の性格によると考えられるのではないか。

静岡県袋井市:秋葉総本殿 可睡斎 御真殿(秋葉三尺坊大権現)

神仏習合のプロセス

 しかし、この時期における役行者と仏教や古代神道との位置関係については、いまだ明確にはされていない。柳田国男の「山人考」でも取り上げている。

 「相州箱根・三州鳳来寺、近江の伊吹山・上州の榛名山、出羽の羽黒・紀州の熊野、それから加賀の白山等」には開山に関する仙人の事蹟が伝わっており、「白山の泰澄大師などは、奈良の仏法とは系統が別」としている。「山伏道も、さかのぼって聖宝僧正以前になりますと、教義も作法も共に非常に不明になり、ことに始祖という役小角に関しては、これを仏教の教徒と認めることすら決して容易ではないのです。仙術すなわち山人の道と名付けられるものが、別に存在していた」のではないか、と論述している。

 ここに挙げられた山のほとんどは、その後、「権現様」と名が付され、神仏習合の象徴的存在となる神社仏閣なのだ。おそらく、役行者は山岳信仰に基づく修行者という性格が強く、神仙的な存在であったにもかかわらず、仏教勢力にとっては日本における布教活動の中で、取り込みたい存在であったのではなかろうか。その意味では、天津神、国津神の関係が整理されつつあった古代神道にとっても、各地にあった民間信仰を取り込むためには、否定できない存在だったのだろう。                              

 つまり、脊古真哉が「役小角考」で指摘するように「平安時代までの役小角説話に示された在家仏道修行者であり、山林修行者であり、神仙説的な人物という属性を備えた役小角像が、後世の複合的な宗教である修験道の開祖とされる役行者像へと展開してゆくこととなった」といえよう。

和歌山県田辺市:継桜王子社(若一王子権現)

 このような経緯の中で、山岳信仰などの民間信仰を取り込み、神仏習合の具体的な表徴が「権現」なのである。「権現」は山岳信仰などの民間信仰と仏教、そして古代神道の信仰的な橋渡し的な役割を担ったのではないかと思われる。それまでは、山あるいは自然、自然現象など、人工的な構造物や工作物を信仰にしていなかったものを、仏像として体現化させ、社殿、拝殿などの構造物を構築し、信仰の場へと転化させたといえるのではないか。もともと古代神道においても、「『万葉集』に神社をモリと訓ませている例がいくつかあるが、そこには鳥居も拝殿も本殿もなく、神の目印となる木さえあればモリと呼んでよかった」とする谷川健一のように、多くの先学が日本の神の祀り方を、自然との共生の中に見出していると指摘している。このよう背景のなかで、仏教でも神道でもないが、相互性の強い修験道が生まれ、脈々と生き残っていったと考えられる。

 ここではとくに触れないが、「明神様」も、もとは同族神、地神が派生したもので律令的な神格に取り込まれていったが、神仏習合のプロセスは「権現」と同様であったと考えてよいだろう。

実在した人間の神格化に利用された「権現」

 こうして神仏習合の橋渡し役としての立ち位置が確立された「権現」は、平安時代に入ると貴族社会にも広く浸透した。そのことは芥川龍之介の「俊寛」でも描写されている。俊寛と一緒に流罪になった平判官康頼が、帰還を願い千本の卒塔婆を海に流す際、「帰命頂礼熊野三所の権現、分けては日吉山王」など権現の名を筆頭に神仏を羅列し「応護の眦を垂れさせ給え」と唱えたが、「康頼は何でも願さえかければ、天神地神諸仏菩薩、ことごとくあの男の云うなり次第に、利益を垂れると思うている。」として、俊寛はその現世利益追求の姿を揶揄している。

 さらに、戦国時代に入ると、「権現」が神仏の権化ではなく、実在した人間が「神」として規定された場合の呼称ともなっていく。実在した権力者を神格化していく過程は、曽根原理によれば、戦国武将であった、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康からではないか、というのである。それまで、神話的な天皇を除けば、実在した権力者の神格化した事例としては、藤原鎌足と菅原道真の例はあるが、鎌足は多武峰(団讒神社)の祭神となっているものの、もともとここは藤原氏の祖先の廟で神格化のプロセスは長期間に渡っており、また、道真は政治的敗者の祟りへの恐れから神として祀られたという背景があったというのだ。武家支配になった鎌倉幕府や室町幕府でも、政治的勝者、権力者が自ら神格化しようとした例は見られないという。

栃木県日光市:瀧尾神社(日光三社権現)

 それでは、なぜ、この時期に神格化を権力者が企図したかというと、曽根原は、農民や地侍の主体性、自立性の高まりと、その延長線上にある一向一揆など本願寺を中心とする仏教集団の一大勢力化に対抗するため、思想性とイデオロギー性を身に付ける必要があったという朝尾直弘の説を軸に説明をしている。ただ、織田信長の神格化については、明確な史料がないとし、明らかなのは、秀吉と家康だとともしている。

 秀吉は、本人としては、軍神である八幡大菩薩の称号を欲していたと言われるが、朝廷などからの賛同を得られず、結局は吉田神道の主導により、吉田神道が主に使う「明神」号が採用され、豊国大明神として祀られた。しかし、これも豊臣家滅亡とともに、その影響力は限定的なもので終わった。家康については、2代将軍秀忠が吉田神道をとらず、国家鎮護的な性格の強い天台宗系の山王一実神道をとり、山王一実神道が使う「権現」号によって「東照大権現」を神号とすることになった。

 こうした実在する権力者の神格化がなされた結果、幕末から明治期に国家神道の影響力が強まり、祭神、神社の体系化の中に取り込まれ、神々の序列化がなされると、次々に権力者のみならず、軍人などを中心に実在者の神格化が始まる素地となった。

神仏分離政策による権現の衰退

 しかし、幕末から明治期に入ると、国家神道による、祭神や神社の体系化のなかで、幕藩体制の維持システムを担っていた宗門制度の中心である寺、仏教の存在が権威の一元化のなかで、排除すべき対象となった。

 とくに、修験道のような神仏習合、融合の信仰形態は、民衆の根源的な生活そのものに食い込んでいるだけに、国家神道を軸とした統治システムに切り替えたかった新政府勢力からみれば、仏教勢力以上に民衆統治の観点からもっとも厄介な存在だったと思われる。そのため、明治維新の運動の中で、廃仏毀釈が起り、寺院はもとより、修験道への弾圧は苛烈なものがあった。

 まず、新政府が出した1868(明治元)年の「神仏分離令」では、「中古以来某権現或ハ牛頭天王之類其外佛語ヲ以神號ニ相稱候神社不少候」とし、「佛像ヲ以神體ト致候神社ハ以来相改可申候事 附本地抔ト唱へ佛像ヲ社前ニ掛或ハ鰐口梵鐘佛具等之類差置候分ハ早々取除キ可申事」として、それまでの多くの神社が神仏習合的な信仰の場であったものを、神と信仰の序列化による国家統合による祭政一致を目指す国家神道の主導によって、仏教の排除とともに、神仏習合の中に息づいていた日本の根源的な信仰さえ否定した。この神仏分離によって徹底的に排除されたのは、修験道を始めとした民間信仰だった。

 安丸良夫は「神仏分離といえば、すでに存在していた神々を仏から分離するように聞こえるが、ここで分離され奉斎されるのは、記紀神話や延喜式神名帳によって権威づけられた特定の神々であって、神々一般ではない。廃仏毀釈といえば、廃滅の対象は仏のように聞こえるが、しかし、現実に廃滅の対象となったのは、国家によって権威づけられない神仏のすべてである」としている。

山形県鶴岡市:羽黒山・出羽神社(羽黒三所大権現)

 この結果、例えば「蔵王権現」が本尊であった金峯山寺を擁する吉野山は、まさに修験道の中心地だっただけに、この神仏分離令の影響を大きく受けた。

 1872(明治 5)年に「修験宗ノ儀自今被廢止本山當山羽黒派従来ノ本寺所轄ノ儘天台真言ノ両本宗へ歸入」すべしとする修験道廃止令が発布されたことにより、1874(明治7)年に「金峯山寺はすべて廃寺」され、蔵王堂は金峯神社口ノ宮、山上本堂は奥ノ宮と名称を神社名に改めてなんとか廃絶を免れた。このため仏像・仏具類は撤去されたが、「蔵王堂の三体の蔵王権現像はあまりに大きいため動かすことができず、像の前に幕を張って隠した」といわれる。このような乱暴な措置で、日本の民衆の信仰の一側面を奪い去ろうとしたが、上からの強制は長続きせず、また、信仰の自由という近代国家の合理性とも合うはずもなく、この信仰の強制は明治期の後半には瓦解した。その後、国家神道及び神社は、あくまでも国家の宗祀であり、他の宗教と同一視すべきでないとした位置付けに切り替え、国家統治のツールとしての役割の一部を担うことになった。

 こうした流れの中で、各地の「権現」もそれぞれの状況、形態に合わせ、徐々に復活を果たし、祭事も羽黒山の「松例祭」などのように地元の住民の支えで継承されるものも出てきた。金峯山寺も1886(明治19)年に天台宗の仏寺として復興し、1948(昭和23)年には、蔵王権現が鎮座する蔵王堂を中心に金峯山修験本宗として立宗され総本山となった。

 それでも、この吹き荒れた神仏分離政策は、民衆の生活に根付いた豊かな日本の神々を、仏教、神道が自らの権威のなかに収めようとし、上からの強制的な序列化を図り、その神々を支配しようとした結果、数多くの貴重な日本の文化やその蓄積、伝統も葬り去った事実は忘れてはならない。

山形県鶴岡市:羽黒山・出羽神社(羽黒三所大権現)

 いま、われわれが観光で訪れる神社にも、例えば、奈良談山神社の十三重塔や羽黒山の五重塔のように奇跡的に残されたものもあるにはあるが、残念ながら、多くの場合、堂宇や仏像、修験場などが消滅し、わずかに礎石や地名などに、その痕跡しかみることができない。

 ともすると、明治期以降の神道の姿を伝統と称して、それがあたかも日本の信仰の原点としようとする主張する向きもあるが、じつは、日本の長い歴史のなかには、もっと、生活に密着した豊かな日本の神々がいることを、われわれは知るべきであろう。「権現」への信仰もその一つだ。こうした神々がいる、いたことを理解し、継承することこそが日本の本当の伝統を守ることになる。また、そうした視点で神社仏閣を訪れれば、観光の深みも増すともいえよう。

山形県遊佐町:鳥海山大物忌神社吹浦ロノ宮本殿(鳥海山大権現)

引用・参考文献

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筆者

典然

観光関係の調査研究機関をリタイヤして、気儘に日本中を旅するtourist。
「典然」視線で、折々の、所々の日本の佇まいを切り取り、カメラに収めることがライフワーク。「佇まい」という言葉が表す、単に建物や風景だけではない人間の暮らしや生業、そして、人びとの生き方を見つめている。

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