[Vol.21]日本の高原

「高原」という言葉

 九州横断道路(やまなみハイウエイ)は、くじゅう連山の北麓を抜けていくが、その途中に飯田(はんだ)高原がある。いくつかの火山に囲まれた傾斜面の高原だ。温泉も点在し、牧場やスキー場、そして別荘地などが広がる。確かに広大さ、雄大さは感じるものの、かつて訪ねた中国の雲貴高原の広大さ、雄大さと比べ、原っぱ感は拭えない。しかもその雲貴高原の先に続くのがチベット高原とあれば、その広さ、高さともにまさに雲泥の差であり、同じ高原と言えるのだろうか。それは、別にこの飯田高原だけでなく、日本の高原と名の付く場所のどこに立っても同じことを感ぜざるを得ない。

 そこで、「高原」の定義を調べてみると、結構、奥が深い。平凡社の「世界大百科事典」では、「高度が相対的に大きく起伏の小さい土地の広がりに対して用いられる地形的地域の名称。チベット高原,コロラド高原のように世界地理的な観点で用いられる場合と,志賀高原,那須高原など日本地理的に呼ばれる場合とでは、規模の点でも内容的にもかなり異なったものがある」とあり、ここで「高原」には、世界基準と日本基準があることがわかる。

 さらに、明治時代からの教科書に載っている高原とそれ以外があるとして、教科書に載っていた高原としては「阿武隈高原,北上高原,美濃三河高原,飛驒高原,吉備高原,石見高原など」を挙げ、「第2次大戦後は国定の自然地域名称として地勢図上などで採用」されて一般化されたとも記されている。

 実際、1902年の「新訂中等地理教科書」では、総説の中で「本州中部に濃飛高原」と記す一方、地方誌の項の関東地方では、現在の那須高原について那須岳の「前面の裾野を那須野の高原となす」とあるものの那須高原の表記はない。甲信越地方は「崑崙樺太山系の會合點に當れる本州中部の高原地方とす」と説明し、東海地方では「飛驒高原は長野縣に隣れる本州中央高地の一部」あるいは飛騨は「濃飛高原に属し」とあるが、飛騨高原と濃飛高原の関係性には触れていない。また、現在、大山高原にあたる場所については「大山原」、同じく、三瓶高原は「三瓶原」となっており、阿武隈、北上、吉備、石見については、山脈、高地などの表現で説明をしている。

 ちなみに、現在の二十万分一の地勢図をもとにした国土地理院「日本地名集」では、このなかで、美濃三河、吉備、石見は「高原」、他は「高地」と表記している。

大分県九重町:飯田高原(九重森林公園スキー場)

 前述した教科書に掲載された日本の高原は、どのような地理学的・地形学的意味があるかというと、なべて隆起準平原、あるいは準平原を含んだ隆起山脈であるのではないと思われる。すなわち、この隆起準平原は、規模はともかくも世界的な高原の造山活動の一般的な姿であり、これがhilandやplateauとされ、日本では学術的な翻訳語として「高原」や「台地」があてられたため、日本の地形を説明する際に明治時代の地理学・地形学草創期では、これを援用したのではないか、と推測される。

 明治期の地理学の碩学である志賀重昂は、「高原とは海面より著しき高度にある平原を云ふ」とし、「地積の些少なるものを云うにあらず」とすることから「日本には高原なるものはなく、若し高原と名づくべきものあれば、丹波の中部数万里の部分、飛騨の中部数万里の部分などに過ぎざるを以て固より高原としてこれと人文関係を説くべき程のものにあらず」と明解に断定している。

秋田県仙北市:田沢湖高原

 こうした理解は、当時では一般的らしく、志賀重昂の「日本風景論」に触発されていた、登山家で随筆家でもある小島烏水の「日本山水論」でも、日本の山岳の地理学的・地形学的特色や景観美を綿々と述べているが、「高原」の説明はない。それに代わるものとして、「裾野」という概念、言葉を使用しており、「不二の裾野(甲、駿)の如き、八ヶ嶽(信、甲)及び之に連なる蓼科山裾野(花牧原)相對する浅間山の裾野(六里ヶ原追分ヶ原)の如き」と全国の事例を逐一あげている。その大半が、現在では一般に、あるいは観光地名としては、「高原」となっている。小島と同様に明治期に日本山岳会第2代の会長を務めた高頭式(たかとうしょく)編の「日本山嶽志」では、この本の編纂趣旨のなかで、日本の山水について「群書ヲ渉獵シ、其山嶽・溪・澗・河渠・湖沼・原野・瀑布・鑛泉ニ關スル者ハ、古書新刊、筆ニ任セテ摘録」したと記しているが、「高原」という表記はない。

 ただ、小島は、高原を「高い原っぱ」という一般名詞的な使い方は、容認していたらしく、「日本山水論」のなかでも、同時代に書かれた島崎藤村の「藁草履」から「晴れて行く高原の霧のながめは、どんなに美しいものでしょう。 すこし裾(すそ)の見えた八つが岳が次第に嶮(けわ)しい山骨を顕わして来て、終(しまい)に紅色の光を帯びた巓(いただき) まで見られる頃は、影が山から山へ映(さ)しておりました」と、その一節を引用して、八ヶ岳の野辺山付近の風光を愛でている。

 島崎藤村は、小説の舞台が信州であることが多いということもあって、この引用例以外にも一般名詞的な言葉として「高原」を用いている。例えば、「破戒」(1906年)では「上高井の山脈、菅平の高原、其他畳み重なる多くの山々も雪雲に埋没れて了つて、僅かに見えつ隠れつして居た」と上信越国境の山並みを描写している。同時代では、森鴎外が翻訳した「即興詩人」のなかで「ネミ湖畔の高原を歩みしに、道は暗く靜けき森林の間を通じたり」と、小島や島崎と同様の使い方であり、そのほか河東碧梧桐などにもこうした用例は見られるが、固有名詞としての「○○高原」という用例はこの時期の数名の文豪を調べてみたが、使っていないようだ。

福島県耶麻郡北塩原村:磐梯高原(檜原湖)

 ところが、小島は昭和に入った1927年の著作では固有名詞としての高原を使用するようになった。「甲府全市の知識階級の郷土愛は目ざましく、南アルプスの山々、昇仙峡の谷、八ヶ岳高原、富士五湖を紹介するに全力的になっていられる」とし、八ヶ岳高原の甲州側、清里付近について「裾野式の高原を展開して、桔梗がさき、萩がさき、女郎花がひょろひょろと露けく、キスゲが洞燈のような、明かる味をさしている」と、その高原の地形と野草について解説している。

 この時期より10年ほど前の1918年には、八ヶ岳の信州側の裾野である「富士見高原」について、田山花袋の「山水小記」の目次に「富士見高原」と見え、その本文でも富士山の眺望を褒めている。ちなみにこの「山水小記」に固有名詞の「高原」が出ているのは、なぜか「富士見高原」だけで、那須高原の地域は、那須野の一部として「高原」は付されておらず、地形と景観のみを紹介している。

 「富士見高原」について言えば、1926年に富士見高原療養所という名称のサナトリウムが設立され、1931年には「風立ちぬ」で知られる堀辰雄が療養生活を送っており、固有名詞としての富士見高原がすでに定着していることがわかる。中央本線の富士見駅は1904年の開業であり、東京とのアクセスはそれなりに便利さがあったこともあり、高原別荘の開発が明治末くらいから進んだことを考え合わせると、大正期初期には「富士見高原」の名称がすでに使用されるようになったと推測でき、おそらく「志賀高原」より早い時期にこの名前が使われていたのだろう。

 また、1930年代では、その頃の川端康成の作品を見ると、「平穏温泉だより」では、「岩菅山山裾が今流行のスキイ場志賀高原」を取り上げ、「軽井沢だより」では、映画のロケーションの人々が「霧ヶ峰、富士見高原と廻って来た」と、あるいは、「戸隠山にて」では「戸隠高原が避暑の別荘にならないのが不思議」などと、固有名詞としての「高原」が記されるようになっている。なお、「志賀高原」の命名の経緯については、佐久市の「佐久の先人」によると、長野電鉄の創業者である神津藤平がスキー場を開発し、1929年に「藤平は生まれた村にちなみ、一帯の山や池を含めて『志賀高原』」と名付けたとしている。

福島県耶麻郡北塩原村:磐梯高原(檜原湖)

「高原」というブランド価値

 こうして年代を追って「高原」という言葉の使用方について整理してみると、明治期においては、地理学・地形学用語の訳語として使用され、そのため一般名詞的な使用方が普遍的で、その後、大正期から昭和初期に観光地名として固有名詞の一部に取り込まれたということがわかる。

 それでは、もともとの「高原」という言葉は、「哲学」のように明治期の造語なのか、それ以前からあったのか、また、大正から昭和の初めにかけて、なぜ、観光地名としてその地域の自然地名などに「高原」が付され固有名詞化していったのだろうか。

 まず、「高原」の出自だが、これは古くから使用されていたと思われる。きわめて古いもので挙げるとすると、維摩経の有名な一節に「譬如高原陸地不生蓮花、卑湿淤泥乃生此華」とある。これは高原のような清涼で、乾燥したところでは、ハスの花は咲かず、湿った泥の中で、はじめて咲くという意味で、「ちょうど泥の中からしか蓮の花が咲かないように、煩悩の泥の中からこそ仏のさとりの花を咲かせることができること」を示しているとのことだ。ここで使われている「高原」は、要するに「高いところにある原っぱ」という単純な意味合いだろう。この経文は聖徳太子が三経義疏の一つ『維摩経義疏』として注釈をつけていることから、日本へは6世紀終わりから7世紀初頭には伝来していたと思われるので、この言葉もそのまま受け取られ、使用されていたのだろう。

愛媛県西予市:大野ヶ原

 しかし、もうひとつ気になるのは、「高原」を「たかはら」あるいは「たかはる」と読む場合だ。名字としてはかなり一般的ではあるし、地名としても、宮崎県の高原(たかはる)町や栃木県の高原(たかはら)山など多数存在する。高原町の場合、幕末の地誌「三國名勝図會」では「土俗傳へ云、當邑を高原と號するは、高天原に畧稱」としている。

 また、高原山神社宮司和気達郎によれば、「高原とは、天津神が住むとされる日本神話の高天原のことであって、高原山は古神道にとっての霊峰」だと説明している。すなわち、日本の古くからの信仰と関連付けられているが、維摩経との直接的な関係性は別として、漢字として入ってきた「高原」の一般的意味を自らの信仰に取り込み、位置付けた、とするのが妥当であろう。

 こうした経緯のなかで使用されてきた「高原」という言葉が、明治期に欧米から来た地理学や地形学の学術的な翻訳語としても使われはじめたということだろう。それゆえ、江戸期まではこの「高原」が例えば「志賀高原」という形では地名としては扱われなかったし、明治期の文豪も基本的には、そのような使い方はしなかったということだろう。

 明治以前、現在「高原」といわれる場所は、どのように表現されていたのだろうか。それは、前出の小島も触れているが、単に「原」とか、「野」とか、「平」あるいは「山」が地名に付せられていたところが多い。「原」の例では、野辺山高原は、「野辺山ヶ原」で、現在の国土地理院の地形図でもこの地名が記されており、浅間高原は「六里ヶ原」だったり、四国の久万高原の中心は「大野ヶ原」であったりするように、数多くの用例が見られる。また「野」の例では、那須高原は「那須野」の一部とされるが、「那須野原」、「那須野が原」の表記もみられ、白樺高原は大きくは「芦田八ヶ野」といわれ、そのなかに箕輪平、南平等の地名が残り、蓼科高原は「北山」であった。「平」は「菅平」などが挙げられる。

山梨県北杜市:八ヶ岳高原(清泉寮牧場)

 それではなぜ、大正から昭和初期にかけて陸続として固有名詞としての「○○高原」が増えたのだろうか。その背景を考えてみると、外国人たちによる高原避暑地の開発がその端緒になろう。

 「明治・大正期の軽井沢における高原避暑地の形成と別荘所有者の変遷」(佐藤大祐・斎藤 功)によると、「熱帯における高原避暑地の始まりは,イギリス統治時代のインド」にあり、19世紀初頭、イギリス人士官が「ヒマラヤ山麓に赴いて,健康を取り戻したことをその端緒」とし、「インド各地に広まった避暑慣習は,インドネシアやマレーシア,ベトナムなど東南アジアの欧米植民地にも伝播し,各地に高原避暑地が形成された」という。

 それが開国とともに日本にも伝播し、日光や箱根、あるいは軽井沢に高原避暑地が開発された。その後、軽井沢では、日本人も「1900年頃から別荘を所有し始め」、1913年以降になると外国人所有者から「尾崎行雄夫妻のように英米への留学・滞留経験を有する日本人の所有へ転換」が進んだ。さらに「日本人資本家によって開発された別荘地に,1910年代末から皇族や華族などが別荘を建て,避暑生活の主役となっていった」という。

 その移り変わりを川端康成は小説「高原」のなかで「軽井沢には、土地に別荘を持つ人々の避暑団があって、町政や警察の上にも勢力を及ぼしているが、以前は外人、それも宣教師が主なものであったから、何かと口喧しく几帳面なものだったらしい」と書いている。西洋人が町政までを握っていたというのだ。しかし、やがて「日本人の贅沢な避暑地にとなり、外国人も大公使館員や商人が入り込む」ようになったが、それでも静かな賑わいだとしている。

 こうした高原避暑が、日本人の支配層、富裕層に定着していったのは、日清戦争、日露戦争、第1次世界大戦を経て、日本全体の経済力がアップしたことと、それに連関して鉄道網を中心とした交通アクセスの発達が急速に発達したことによる。その結果、外国人が開発した日光や箱根、軽井沢以外においても、前述した「富士見高原」のような高原避暑地が全国各地で続々と開発されたといって良かろう。

山梨県北杜市:八ヶ岳高原(清里聖アンデレ教会)

 同時に、高級感を醸し出すブランドとして「○○高原」が数多く誕生した。その好例のひとつが「志賀高原」であったのであろう。こうした事情が契機になって、地理学・地形学用語あるいは、古くから使用されてきた単なる「高いところの原っぱ」という言葉から、観光地用のブランド名としての「高原」が認知されるようになったと思われる。

 さらに、第2次世界戦後の高度成長経済、バブル経済のなかで、旅行が一挙に大衆化し、高原リゾートの開発やそのほかの宿泊施設、観光施設が爆発的に増加したことに伴い、全国各地に「高原」が現出することになった。しかし、そのことによって、「高原」の定義がより一層あいまいになったことも事実だ。

 もちろん、国土地理院は、地図への落とし込みの際の定義は明確にしており、高原については「平坦な表面を持ち,比較的小起伏で,谷の発達が余り顕著でなく,表面まで居住が営まれている山地をいう」としている。さらに、「野、台、原などの自然地域の種類を意味する語で終る名称は、台地、高原などの呼称をつけない」とも表記方についてもルール化している。

 また、国土地理院が「高原」という名称を使う場合の地形学的な分類では、隆起準平原と準平原遺物及び火山性高原を挙げている。隆起準平原は「準平原の隆起したもの。輪廻の終末期である準平原が、比較的均一な全体的隆起、広いドーム状の隆起、断層で分けられた一方が下降し他方が隆起するなど、様々な運動様式で高所に位置するに至ったもの」で、準平原遺物は準平原が一部残存したものであり、主なものとしては前出の飛騨や美濃三河、石見などである。

 火山性高原は「周囲より高まりがあり、緩斜面からなる地形で、火山の原型の一部が残っているもの」で、こちらは志賀高原や那須高原がそれにあたり、前出の野辺山高原、清里高原なども挙げられているが、同様の範疇の中でも野、台、原の自然地名が付されている場合は、先ほども触れたようにルール上、高原とは表記していない。このように一定の定義がなされた「高原」と、ルールなく名付けられた観光地名としての「高原」は、その名付ける範囲が自ずと異なっている。要するに国土地理院の定義以外の「高原」が観光地名としては数多くあるということだ。

長野県南佐久郡南牧村:八ヶ岳高原ヒュッテ(旧尾張徳川邸)

 このように「高原」の名称は日本の社会においては、よほどの専門家ではないかぎり、拡張して使われていることに抵抗は少ない。こうした扱いについて、地形学的な立場から、国土地理院の定義をもとにして制作された教科書でも混乱があるので国際的な用法に従うべきだとする研究者もいる。その例として有井琢磨は「吉備高原、美濃・三河高原などは、諸外国の高原に比較して、それらの周囲を限る斜面がゆるやかであること、高原面が傾いていること、平坦面の残留している度合が劣ることなど」から山地の方が国際的用法になじみ、野辺山高原は、「八ケ岳火山の裾野に位置しているので、たんに野辺山原の名称を用いることが無難」だとも指摘している。

 地理学的・地形学的な学問上の整理は専門家に任せるとするとしても、観光地名としての「高原」が多用されることとなると、地域のブランド戦略や観光資源活用という視点からも課題はあるのではないだろうか。無定義に「高原」が多用されると、より一層「高原」の本質が見えにくくなり、ひいては、本来の「高原」の良さを消費者に伝えることができなく可能性が大きい。 

 すなわち、「高原」が一般化されすぎて高原の特質を有せず、本来の高原の清涼感、リゾート感の喪失や自然のダイナミズムを感じることができない「なんちゃって高原」により、「高原」ブランドの価値を貶めている可能性があるのではないか。このため、現代における観光資源としての「高原」の意義、位置づけ、活用の可能性を改めて見つめ直し、「なんちゃって高原」との差別性を明確にしたコンセプト作りも必要かもしれない。                  

 これまで、ともすれば、「高原」ですら周遊観光の資源として扱われることが多かったが、今後の日本の超高齢化、人口減少を考えれば、リーズナブルな費用で、長期間の滞在型、体験型の観光がより一層求められる時代となろう。いまこそ、国土地理院の定義にある地理的地形的特性を生かした観光資源活用や、外部からもたらされた高原リゾートのあり方の日本の風土にあった形へのアレンジ、あるいはワーケーションなど働き方の変化に応じた「高原」の活用などを考えてみる時期かもしれない。その折には「高原」ブランドから脱し、日本らしい小高原や山上の小盆地、裾野などの「なんちゃって高原」を例えば「平」や「subalpine」など別の言葉を使って定義し、ブランド化して打ち出してもよいのではないだろうか。

山梨県北斗市:八ヶ岳高原大橋

引用・参考文献

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筆者

典然

観光関係の調査研究機関をリタイヤして、気儘に日本中を旅するtourist。
「典然」視線で、折々の、所々の日本の佇まいを切り取り、カメラに収めることがライフワーク。「佇まい」という言葉が表す、単に建物や風景だけではない人間の暮らしや生業、そして、人びとの生き方を見つめている。

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