[Vol.36]大和路の水神たちを訪ねて

 奈良南部、吉野山や高見山は、古くから神聖な山々として信仰を集めてきたが、その根源には奈良盆地の水源地だったこともあったのではないだろうか。そのため、これらの山々の山懐や山里には水に関する神々を祭る神社、史跡が多い。例えば、水分山とも称されていた吉野山青根ケ峰(標高658m)の中腹にある吉野の「水分神社」、奈良盆地の南東、高見山から水を配する芳野川(ほうのがわ)の河畔にある宇陀の「水分神社」、さらには、高見山の山懐にある「祈雨・止雨」の神が祀られている丹生川上神社などが挙げられる。

 これらの神社に祀られる水神はすでに古事記の国生みの話のなかに出てきており、そのなかでは多くの水に関連する神々が出現するので煩雑ではあるが、国生みの順に神々を紹介すると、まずは伊耶那岐命、伊耶那美命が国生みのあと、天地、国土を司る十神の神生みを行う。

 そのなかに「水戸(みなと)の神」、すなわち河と海を分担する神の「速秋津日子(はやあきつひこのかみ)」・「速秋津比売(はやあきつひめかみ)」がいる。その二神が「河・海に因り持ち別けて」八神を生み、このいずれの神も水に関連した神である。 その八神は最初に「河水と海水との出会う所に泡」の静まりと波立ちを表わす神の「沫那芸神(あわなぎのかみ)」、「沫那美神(あわなみのかみ)」が生まれ、次に凪と波の神である「頰那芸神(つらなぎのかみ)」、「頰那頰那美神(つらなみのかみ)」、その次に降雨と湧水を司る神である「天之水分神(あめのみくまりのかみ)」、「国之水分神(くにのみくまりのかみ)」が生まれたとしている。最後に 降った雨や湧き出した水を恵みとして分配する神のである「天之久比奢母智神(あめのくひざもちのかみ)、国之久比奢母智神(くにのくひざももちのかみ)」が誕生したという。

 これとは別に「伊耶那岐命」と「伊耶那美命」は「速秋津日子」・「速秋津比売」などを生んだ後も次々に神々を生むが、そのなかで「伊耶那美命」が火の神である「火之迦具土神」(ひのかぐつちのかみ)を生んだ際に病み、その時の尿から「弥都波能売神(みつはのめのかみ)」が出現したとしている。これは「日本書紀」では「罔象女神(みつはのめのかみ)」と表記され、「ミツハ」が「水つ走」から潅漑用水を走らせることや火を鎮めることに霊験があるとされ、尿から生まれたことで下肥との関連から農耕の神ともされた。

 さらに「伊耶那岐命」は「伊耶那美命」が「火之迦具土神」を生んだことで没したため、子である「火之迦具土神」を斬首するが、「御刀の柄に集まった血は、指の俣から漏れ出して出現した神の名は闇淤加美神(くらおかみのかみ)。次に闇御津羽神(くらみつはのかみ)」だとしている。これを「高龗神(たかおかみのかみ)」、「闇龗神(くらおかみのかみ)」と称し、雨を司る龍神として「祈雨・止雨」の信仰の対象となったといわれる。

 実際、「続日本紀」では、698(文武天皇2)年4月29日(戊午)条に「奉馬于芳野水分峯神祈雨也」とあり、927(延長5)年成立の延喜式では五穀豊穣の祈年祭祝詞に「水分坐神等能前爾白久吉野宇陀都祁葛木登御名白氏(水分に坐す皇神等の前に白〈もう〉さく、吉野・宇陀・都祁・葛木と御名は白〈もう〉して)」と、水分神が鎮座する地名を挙げ、稲作の豊かな稔りを祈念している。こうした信仰をもとに延喜式神名帳には、水分神としては吉野郡の「吉野水分神社」、宇陀郡の「宇太水分神社」。山辺郡の「都祁水分神社」、葛上郡の「葛木水分神社」の4社が記載されており、ちょうど奈良盆地の南部を四方から囲むように鎮座している。

 また、これらの水分の神につがなるように「祈雨・止雨」に関する神々を祀る神社・史跡も吉野山や高見山などの山中にも点在し、丹生川上神社3社がその例にあたる。

 ちなみに吉野水分神社の主祭神は、「天之水分神」であり、おなじく「宇太水分神社」は「速秋津日子」、「天之水分神」、「国之水分神」とし、「惣社水分神社」は「速秋津比売」、「天之水分神」、「国之水分神」である。さらに丹生川上神社は、中社が「罔象女神」、上社が「高龗神」、下社が「闇龗神」となっている。

 そこで国造りの根源とされる水に関わる神々が坐すところは、どんなところか訪ねてみた。


〇吉野水分神社

 吉野水分神社は、近鉄吉野線吉野駅前の千本口駅からロープウエイに乗り、約3分で吉野山(山上)駅。その吉野山(山上)駅から3㎞、金峯山寺からは2.5㎞の高台にある。吉野のサクラを一望できる花矢倉から大峰山、熊野に向かう修験の道「大峯奥駈道」の急坂を上り、数軒の民家を過ぎるとカーブに沿って参道の石段が西側に面している。見上げると朱の楼門がこんもりとした木立の緑に映えて建ち、境内は北東向きの急斜面に平坦地が造成されており、そこに社殿が建立されている。

吉野水分神社 鳥居

 石段上の楼門は三間一戸で設えられ、門の両脇は斜面の山肌に沿って建てられた懸造の南北両回廊へと続く。境内は意外と狭く、社殿がある意味でパズルのようにきっちりはめ込まれ、周囲は深い森に囲まれている。境内の楼門を入って奥正面には幣殿が建ち、西北隅において拝殿の屋根と接続している。幣殿内部は棟通り(棟の中心線)で前後に分けられ、前面は右端に小部屋を取った広い板の間で神棚を横一列に3ヶ所設けており、その後面は3室にわけられている。境内に入って左側、幣殿と西北隅で接続する拝殿、反対の右側に本殿が祭場(中庭)を囲み対面するように建つ。杮葺きの拝殿は桁行 10 間、梁間3間の長大な木造建造物で華やかさはなく、簡素な造りだ。

吉野水分神社 楼門と拝殿

 一方、本殿は、拝殿とは対照的で、桁行9間、梁間2間、石垣の基壇の上に建ち、花鳥禽獣などを入れた蟇股をはじめ、豊富な極彩色飾金具などで飾っており、華やかだ。一間社春日造の左右に三間社流造を配し、その間を相の間で三殿が連結され、正面屋根に3つの千鳥破風を設けている。こぢんまりとした境内に華やかな本殿が建つが、豊かな緑に囲まれているせいか、艶やかな色味もしっとりしているように感じ、まさに異空間の神域に飛び込んだかのような雰囲気である。

吉野水分神社 本殿

 創建、縁起は不詳のところも多いが、「延喜式神名帳」に記載があるので、9世紀以前であることは間違いない。古くは青根ヶ峰に祀られていたとされ、山腹には元水分神社跡があり、万葉集には、「神さぶる磐根こごしきみ芳野の水分山を見ればかなしも」(神々しい岩石のごつごつと峙っている芳野の水分山を眺めると、荘厳ですばらしく感ぜられることである)と詠まれている。この水分山は青根ヶ峰とされ、万葉集の歌には水分信仰が底流にあることが分かる。

 現在の社殿は、棟札から1605(慶長 10) 年に豊臣秀頼により再建されたものであることが分かっている。水の配分を司る天之水分大神を主祭神とし7柱を祀っている。中央の正殿には天之水分大神を、右殿には「建長三(1251)年十月十六日」の銘がある子守りの神として知られる国宝木造玉依姫(たまよりひめ)命坐像など3柱が安置され、左殿には高皇産靈神(たかみむすひのかみ)など2柱が祀られている。 なぜ、水の分配の神と子守りの神が関係するのかといわれると、「みくまり」が「みこもり」と訛り、信仰に繋がったというが牽強付会過ぎて、少しばかり理解しがたい。

 しかし、そうは言ってみたものの、すでに、「御堂関白記」によれば、藤原道長が1007(寛弘4)年8月11日の条に御嶽(金峰山寺)参詣の折に、「參上小守三所。獻金銀。五色絹幣。紙。御幣等」と現在地か、あるいは青根ヶ峰の元水分神社かは、定かではないが、参詣したと記している。三所とある所から見れば、現在の社殿の右殿にあたる玉依姫命など3柱が参詣の対象だったのだろうか。道長の御嶽参詣の目的のひとつとして、長女で一条天皇の中宮(皇后)となっていた彰子の懐妊を祈願したものとされ、翌年その願いが実ったのか、後の御一条天皇が生れており、藤原家の皇室権力を掌握していた絶頂期だったともいえよう。

 子守り、あるいは子授けの神として江戸時代においてもさらに深く崇敬を集めていたようで、1713(正徳3)年発刊の貝原益軒「和州吉野山勝景図」の絵図のなかでも「子守り明神」と描かれている。また、江戸中期の国学者本居宣長は同社を生涯に3回も訪れている。43歳で訪れた際の「菅笠日記」では、「此御やしろは、よろづのところよりも、心いれてしづかに拝み奉る、さるはむかし我父なりける人、子もたらぬ事を、深く嘆き給ひて、はるばるとこの神にしも、ねぎことし給ひける」と、宣長の幼いころ亡くなった父親が同社に祈願して宣長を授かったことだとし、自分の原点だとも記している。さらに、「思ひ出る そのかみ垣に たむけして 麻よりしげく ちるなみだかな」(父母の思い出のある神社に参詣し、手向けとして撒く幣よりも、涙が繁く流れ出る)とも詠んでいる。

 こうした江戸時代の知的エリートも肯定的に評価しているので、それなりに子授けの神として説得力があったのだろう。この吉野水分神社は、かつては、青根ヶ峰を水源とする在地の水分信仰から始まったものの、早くから子守り神としての性格が強まり、江戸期にはすでに子守り神信仰が完全に前面に立っていたと思われる。


〇宇太水分神社

 大和の水分神社4社のうち、奈良盆地の南にあるのが吉野水分神社で、東にあるのが、宇陀の水分神社となる。宇陀の水分神社は、奈良盆地の南東、高見山(標高1,248m)から流れ出し、一旦、北流し名張川、木津川に合流する芳野(ほうの)川の上流部にあたる菟田野地区に「惣社水分神社」と「宇太水分神社」が、その下流となる榛原地区下井足(しもいだに)に「宇太水分神社」の3社がある。いずれが延喜式の式内社であるか不明である。

 この3社は一般的には上流から「宇太水分神社」の「上宮・中宮・下宮」と呼ばれたり、あるいは「惣社・上宮・下宮」と称されたりしている(現在の鳥居前の石柱には、最上流の神社は「惣社水分神社」と他の2社は「宇太水分神社」と表記されている)。なお、明治末期の「明治神社誌料 府県郷社」では、菟田野の「宇太水分神社」は1890(明治23)年に「宇陀」から「宇太」に改称し「うたのみくまりじんじゃ」と呼んだと記載し、下井足の下宮を「宇陀水分神社(うだみくまりじんじゃ)」として区別はしている。

 これ以外にも芳野川沿いには、水分神社が7社ほど分祀されており、高見山を水源とした在地の水分信仰が古くから浸透していたとみられ、これが延喜式の祝詞に見られるような朝廷の稲の豊作を祈念する祭事に取り込まれていったとも見られている。

 そのなかで、もっとも古い社殿を有する菟田野の「宇太水分神社」は近鉄大阪線榛原駅から南へ約7.5㎞、芳野川の河畔から参道がつづき、緑豊かな社叢に包まれるように建つ。創建は不詳だが、崇神天皇(実在した可能性のある最初の天皇、3~4世紀か)の勅命によって祀られたとも言い伝えられている。

 芳野川河畔から一の鳥居をくぐって、鄙びた家並みを抜けると二の鳥居。こんもりとした社叢に囲まれた広い境内に、新しい拝殿があり、その背後の高台に、朱塗りが美しい春日造の本殿が瑞垣に囲まれ一直線に等間隔に3棟並び、装飾性の高い造りに目を奪われる。祭神は三座鎮座しており、向かって右から天之水分神(第一殿)、速秋津彦命(第二殿)、国之水分神(第三殿)と並ぶ。本殿はいずれも一間社隅木(屋根を支える部材のひとつ)入り春日造り、桧皮葺で正面、側面に蟇股が入っており、全体に塗装、彩色を施されている。1320(元応 2) 年の造営とされ国宝に指定されている。

宇太水分神社 鳥居

宇太水分神社 本殿

 右手にはこぢんまりとした春日神社と宗像神社の2棟が鎮座する。こちらも小さいながらも白壁に朱が良く映える。春日神社の本殿は室町中期の造営で、本殿同様に一間社隅木入り春日造り、檜皮葺き、宗像神社本殿は室町後期の造営で一間社流造り、檜皮葺きで、ともに国指定の重要文化財となっている。摂社は、室町時代にはこの地が春日大社や興福寺の荘園であったことから勧請されたという。奈良盆地の東の水の守りの神たちが鎮座するのに相応しい風格がある社殿だ。社務所に申し出れば、高台の瑞垣の中に入ることができ、本殿や摂社を間近に拝観することもできる。

 この地の水分信仰の古さは、朝廷の正史である古事記や日本書紀にも著されている。古事記では、神倭伊波礼毗古命(かんやまといわれびこのみこと・即位前の神武天皇)が熊野から大和に入って、最初に敵対したのは宇陀の兄宇迦斯(日本書紀では兄猾・えうかし)であったが、弟宇迦斯(同じく弟猾・おとうかし)の機転により、兄宇迦斯を討つことができ、奈良盆地へ進撃する足掛かりとなった。この弟宇迦斯は「宇陀の水取(もいとり)らの祖先」、すなわち「宮廷の飲料水を掌る役目」を果たす集落の祖だとしている。このことから、兄宇迦斯と弟宇迦斯は宇陀で祭祀に携わり、すでに農業用水なども含めた水を管理していたと考えられ、この事件はそれを朝廷側に取り込んだことの暗喩だとも想像できそうだ。

 菟田野の宇太水分神社の装飾性が高く美しい朱塗りの本殿3棟と造りとシンプルながら白壁に朱が効いた春日神社と宗像神社の2棟を前に、ひとつひとつの社殿をじっくり向かい合うと、多様な神々が関わった建国神話と在地の水への篤い信仰が伝わってくるような気がする。


〇丹生川上神社(中社)

 丹生川上神社(中社)への道は奈良盆地の南縁、吉野山への登拝口である上市から吉野川支流高見川の谷あいを東へ20㎞余りくねくねと遡る。高見山の山懐、川幅もかなり細まった、狭隘の谷間に沿って細長い境内が続く。高見川に対し杉の大木に守られるようにして一段高い所に拝殿、その奥には江戸末期の造替された本殿、東殿・西殿などの社殿が並ぶ。神社前の高見川は少し瀞になっていて、透き通った青みがかった水面が美しい。この神社は延喜式の式内論社(式内社の推定候補)とされ、この中社(東吉野村大字小)以外に、上社(上川村大字迫)と下社(下市町長谷)も長い間、論社として議論の対象となってきた。現在は、中社を式内社とするのが定説となっている。

丹生川上神社(中社)鳥居前の高見川

丹生川上神社(中社)

 いずれの神社が延喜式内社であろうが、これらの神社の由緒は、非常に複層的で興味深い。同社の信仰や由緒の歴史的な流れは大きくは3つあるのではないかと思われる。

 まず、これらの神社の基層となる信仰は、岡田干毅によれば「同社の鎮座する大和国吉野郡の深山は、大和地方の水源地であり、古来より名高い祈雨の信仰の対象地でもあって、祈(止)に験ある神社としての地理的な条件は備えていた」と指摘していることから、自然信仰の水の神として崇められていたと言えよう。

 中社はこの地域での水、川への自然信仰の中心的な役割を果たす高見山の山襞を縫う高見川に沿って立地し、また、上社は吉野川の上流にあたり、下社は吉野川の支流丹生川沿い建ち、吉野水分神社や青根ヶ峰に代表される吉野山の水神信仰との関連性が強い。とくに高見山は宇太水分神社の項でも触れたが、社前を流れる芳野(ほうの)川も高見山の北西の山懐を源流としている。高見川は吉野川と合わさり、芳野(ほうの)川は中流域では木津川となることから、大和盆地の水源地としてその重要性はよく理解できる。 それゆえ、古くからこの地方に水神にまつわる伝説、神話に彩られており、それが大和政権の確立とともに社殿のある神社への形態を整えていくのであろう。社伝では、675(白鳳4)年に祈雨・止雨神を祀ったのが始まりだと伝えられているが、それ以前から祠、社などはなくとも、この地付近を中心に間違いなく自然信仰の対象であったろう。

 この自然信仰をもとに大和政権の確立に伴い、信仰の第2段階として自然災害や農業に重要な意味を持つ、「祈雨・止雨」への霊験力を大和政権が取り込み、大和朝廷の神話のなかの神と結びつけ、その祭祀儀礼の中に位置づけていったといえる。

 丹生川上神社の中社の主祭神は「罔象女神」であり、上社の主祭神は、「高龗神」とされ、下社の主祭神は「闇龗神」となっている。これらの神々が「祈雨・止雨」に霊験があり、雨を司る龍神であることは「古事記」や「日本書紀」に記載があると既に述べた。

 「続日本紀」では763(天平宝字7)年「奉幣帛四畿内郡神。其丹生河上神者加黒毛馬。旱也(幣帛を畿内四ヵ国のそれぞれの神に奉り、そのうち丹生川上には加えて黒馬を奉った。日照りであったため)」という記述が見られ、また、775(宝亀6)年9月には「遣使奉白馬及幣於丹生川上。畿内群神。霖雨也。(勅使を丹生川上社と畿内の群神に派遣し白馬と弊を奉った。長雨のため)」とも記されていることから、祈雨・止雨神として信仰を集めていたことがわかる。927(延長5)年に撰進された「延喜式」でも名神大社として朝廷の祈雨、止雨の中心的な神社として位置づけられていくのである。このように丹生川上神社の地位が上がるのと並行して、神話、伝説との絡みがより一層重層性を増し、正史の中での祭祀として記録されるようになるのだ。さらに、この地が神武天皇東征の道筋であるという神話、伝説も、また、この地の神秘性と霊験性を高める。

 例えば「日本書紀」では、神武天皇は大和の平定に向け、丹生川上において天の香具山の土で作った平瓮(薄い土器)、厳瓮(御神酒を入れる土器)で吉凶を占い、神託に良い結果が出たので平定に向けて進軍したという。もっともここでいう丹生川がどこかが特定されていないが、高見川を指すのではないかともされている。

 こうした歴史的、信仰的な背景のもと、遷都後の平安時代中期以降においても朝廷から特別に崇敬を受けた「二十二社」の一社に数えられたが、平城京とは異なり平安京は遠方であるため、この地での霊験の意義が薄れ、徐々に社勢は衰えた。その地位は平安京の水源地にあたる貴船神社に奪われることとなる。戦国時代以降には奉幣祈願も中断され、式内社としての丹生川上神社の所在地も不分明にさえなったのだ。

 こうして、この地における水神に対する公的、権威的な崇敬が衰えていく状況の中で、とって代わるようにして現れるのが第3段階の蟻通(ありどおし)信仰である。

 この「蟻通信仰」は、日本では和泉国の蟻通神社(現大阪府泉佐野市)が始まりとされ、明治期の「明治神社誌料 府県郷社編」では中社はまだ、延喜式内社の丹生川上神社としては認められておらず、この地に和泉国から勧請された「蟻通神社」として紹介されている。

 「蟻通信仰」は中国から渡来した信仰といわれ、紀貫之の「貫之集」や清少納言の「枕草子」にも取り上げられている。そのいわれを枕草子では「七わたに曲れる玉のほそ緒をば蟻通しきと誰か知らまし」(七曲りに曲りくねった玉の穴に、蟻を用いて緒を通したのでそれから蟻通明神というが、誰がそのことを知っているでしょう)と和歌にしている。

 蟻が緒を通す説話は、吉野にも伝わっており、随筆家の山崎しげ子によると「昔、ある天皇が、都から老人を追放した。ところが、ある中将だけは、老父母をひそかに家に住まわせていた。その頃、唐の皇帝が日本征服を狙い、知恵試しの難題をふっかけてきた。困った天皇は、中将にその難題を解かせた。曲がりくねって、中に細い穴のあいた玉に紐(ひも)を通せというもの。中将は考えあぐね、こっそり老父母に相談した。『穴の一方に甘い蜜(みつ)をつけ、他方から糸を結びつけた蟻を入れるといい』。蟻は蜜の甘い香りに誘われて玉の中を見事に通り抜け、紐を通した」とされ、そのほかの難題も老人が解決したので、唐は日本征服を諦めたという内容だという。その中将を祀ったのが「蟻通明神」だというのだ。

 この説話は姥捨説話と難題説話の組み合わせとのことであるが、各地でいくつかの異なったストーリーで伝えられ、謡曲にもなっている。吉野にこの話が伝わったのは、平安時代末といわれ、それで和泉国蟻通神社から蟻通明神を勧請したとされているが、山間部であったので、姥捨の風習とも関連があったのかもしれない。

 ちょうど、丹生川上神社の勢いが衰え、それと入れ替わるように、蟻通明神の信仰が始まったともいえる。ただ、どの程度、影響力や波及したのかは、江戸初期の地誌「大和志」にも、同じく中期の「大和名所図会」にもこの蟻通明神あるいは神社については、掲載されていないので、良く分からない。ただ、和泉、紀伊、大和周辺には、この系統の説話が残るとともに、「蟻通明神」や「蟻通神社」が散在している。

 このような複層的な信仰の対象となった、丹生川上神社は、政権中央からは吉野の山中の忘れ去れた信仰の場となったが、吉野地域の村々の氏神として細々と生き続けた。それが、江戸時代に入ると、尊皇意識も醸成に伴い、延喜式内社の格式ある神社として、所在地についていろいろな推論がなされるようになった。

 江戸中期の「大和名所図会」では丹生川上神社の関連としていくつか社、祠を紹介している。まず、吉野山中にある雨師獏観音堂から「此所より一里ばかり川下に丹生明神の社あり」としているので、この位置関係からすると、この社は現在の上社か下社のいずれかにあたるようだ。一方、「丹生神祠」の項も立っており、「小村(をむら)にあり。小川荘七村の氏神なり。神宮寺あり」ともしているので、こちらが現在の中社を当てているのではないかと推測できる。さらに「丹生川上神社」の項では、「丹生村にあり。近隣四村の氏神とす」としているので、これはあきらかに現在の下社を指しているようだ。これからみると、「大和名所図会」では延喜式の式内社は現在の下社としているようだ。

 「大日本史」ではこの式内社について、詳しく論証している。

 まず、「和漢三才図会」や「和州舊跡幽考」は下市の西にある下社とし、「大和志」「大和名所図会」では「丹生村に在り」としてこれも「下社」にあるとしていると、整理したうえで、「大日本史」の見解は「川上迫村に一祠(上社)あり、蓋し本社ならん」としている。

 これは「古老傳へ云ふ、古昔洪水あり、丹生社の鳥居を漂はして此地に留まる。因りて祀る」という古老の言い伝えと「類聚三代格」の寛平七年の太政官符にある「『東は鹽匀(塩勾か?)に限り、南は大山峯、西は板浪瀧、北は猪鼻瀧、而る』に丹生村の地形之と合わず。唯ゞ迫村稍ゞ近し」と論考し、「大日本史」の結論としては迫村、すなわち現在の上社を推していることになっている。

 明治に入って、丹生川上神社の所在地を含め研究調査が行われた結果、1871(明治4)年に丹生村(現在の下市町)、1896(明治29)年には川上村(迫村)の神社が対象として取り上げられ、それぞれ官幣大社丹生川上神社下社・上社とされた。 しかし、1915(大正4)年に森口奈良吉が「丹生川上神社考」で前述の「大日本史」による「類聚三代格」の四方の地理的関係の比定を覆すなどの詳細な論考を行い、さらに、1922(大正11)年の調査により、東吉野村の「蟻通神社」とされた現在の「中社」が式内社の丹生川上神社であるとした報告が出され、これが現在の定説になった。このため、この折には3社をもって官幣大社丹生川上神社としていた。第2次世界大戦後は3社がそれぞれ独立した宗教法人となり運営されているが、「三社巡り」の設定などの連携を行っている。

 なお、現在の上社は近鉄大和上市駅から南東へ約16㎞、吉野川上流にあたるダム湖「おおたき龍神湖」を見下ろす山の中腹にある。もともとの境内地は大滝ダム建設に際して水没することとなり、1998(平成10)年に現在地に遷座した。境内からのダム湖の景観が見事だ。旧社殿は、明日香村にある飛鳥坐神社へ移築されている。

丹生川上神社(上社)

 下社は近鉄下市口駅から南へ約12㎞、吉野川の支流丹生川に面して建つ。拝殿から丹生山山頂に鎮座する本殿まで続く木製七十五段の階段状の渡り廊下が特徴的である。境内には「類聚三代格」などにも記載されている「降雨止雨」祈願の際に神馬が奉納されたことに因み、現在も神馬の白馬が飼われている。

丹生川上神社(下社)

丹生川上神社(下社)で飼われている白馬

 丹生川上神社3社は、いずれが式内社かどうかはともかくも、古くから在地の信仰に支えられ、それが大和政権の神話に取り込まれて行き、これらの伝承が積み重なって奥深い歴史的背景を有することになったのは間違いない。その意味でも、水神様三社巡りも一興かもしれない。

 国造りの根源とされる水に関わる神々が坐すところは、実際に訪ねてみると、そこは山深く清冽で豊富な水に恵まれた自然環境に抱かれ、熊野から大和盆地への重要な道筋だったことが理解できる。それゆえ、水に因む自然信仰が生まれ、大和政権の成立に向けての戦いの道筋となり、平城京を潤す実際的な水源地となったことは必然であり、それによって複層的な信仰の歴史が生まれるだろうことは肯ぜざるをえないだろう。この地を訪ねるのは吉野の山々の山襞に入り込むので少しばかり骨折りにはなるが、水神信仰や日本の古代史の深層に触れることができる興味深い旅となることは請け合える。

 

引用・参考文献

筆者

典然

観光関係の調査研究機関をリタイヤして、気儘に日本中を旅するtourist。
「典然」視線で、折々の、所々の日本の佇まいを切り取り、カメラに収めることがライフワーク。「佇まい」という言葉が表す、単に建物や風景だけではない人間の暮らしや生業、そして、人びとの生き方を見つめている。

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