[Vol.30]日本の峠

 柳田国男は、「境の山には必ず山路がある。その最初の山路は、石を切り草を払うだけの労力も掛けない、ただの足跡であったのであろうが、獣すら一筋の径をもつのである。ましてや人は山に住んでも寂寞を厭い、行く人に追付き、来る人に出逢おうと力めるから、自然に羊腸が統一するのである」とそれが「峠」の成り立ちだと説明する。この「峠」という字体は国字であり、柳田国男の説明にあるような具体的な風景と人間の営み、行動が伴い、日本で生まれた漢字体だ。 

 「とうげ」の語源については、説がいくつかある。山と山の間の鞍部で尾根を越える道が通じていることが多く、柳田はそれを「純日本語ではこれを『たわ』といい(古事記)また『たをり』ともいっている(万葉集)」としている。つまり「タワゴエ」や「トウゴエ」の音が詰まったものだとするのがひとつの説で、これは英語の「PASS」にも通じる。もうひとつの説として、「とうげ」は多くの場合、尾根を越えるので村境になっていることが多く、道祖神が置かれ、旅人が道の安全を「手向け」たことから転じたというというのもある。後者の説については、柳田は「行路の神に手向けをするのは必ずしも山頂とは限らぬ…中略…道饗えの祭をしただけで、そこが峠の頂上であったためではなかろう」と懐疑的ではあるが、私はこの説の方が妥当性はともかくも、日本的で、日本人の思いが込められた国字としてはふさわしく感じてしまう。 

 「峠」という言葉を考えてみると、上りと下りの二つの方向性を有しており、「越える」「手向ける」といずれの語源からいっても、「分ける」「つなげる」、そして「祈る」機能が付随しているといって良い。「分ける」「つなげる」、そして「祈る」は、もちろん極めて具象性のある領地であったり、街道であったりするが、「未来と過去」、「内と外」「夢と現実」、「希望と失意」、「来世と現世」という心象、表象的なものも含まれているのではないだろうか。だから、慣用句として「峠を越える」が、「絶頂」を過ぎると「危機」の時期を過ぎるという両義的に使われるところにも表れている。 

 「分ける」、「つなげる」という機能的な意味合いでは、島崎藤村の小説「夜明け前」に出てくる馬籠峠(標高790m)を見てみると興味深いものがある。 

 現在、馬籠峠は、岐阜県と長野県の県境になっているが、この峠を含む馬籠村は「国」という概念と支配、統治という概念が必ずしも一致せず、ここの帰属の歴史は古代から現代までに及んで少しばかりややこしい。 

 古代においては、木曽谷は美濃国という認識であり、奈良井宿と藪原宿の間の分水嶺となっている鳥居峠あたりに国境(くにざかい)があったという。その後の帰属あるいは国境(くにざかい)については、多少の異動がありつつも16世紀末までには徐々に木曽谷全体が信濃国として認識されるようになったとされる。一方、支配統治の実態は、江戸時代に入ると、初期を除けば一貫して尾張藩の藩領で木曽福島の代官所の管轄にあり、松本藩との境は奈良井宿よりさらに北側の贄川宿だったされる。 

 江戸時代中期享保年間(1716年~1736年)に書かれた信州側の「信府統記」での国境(くにざかい)の認識は、恵那山の麓の「湯舟澤村ヨリ美濃國落合村マデ一里六町二十間餘 是ヨリ馬籠峠マデノ間モ又山中ニテ境知レズ 馬籠村ハ木曾路往還ナリ 峠ノ上一里塚國境(西南ハ美濃國ナリ 十石峠ト稱ス、東北ハ信濃坂馬籠峠ト云ヘリ) 馬籠村ヨリ美濃國落合村マデ一里五町 此峠ヨリとゞめき道マデノ間モ國境知レズ」としている。「信府統記」の記載を馬籠峠からみてみると、西に対しては美濃との国境(くにざかい)とはなっているが、木曽街道に沿って西南に向うと馬籠村(宿)に下り、落合村との間の十石(「夜明け前」では十曲)峠に美濃との国境(くにざかい)があるとしている。「夜明け前」でも「美濃の中津川、落合の両宿から信濃境の十曲(石)峠にかかり、あれから木曾路」だ、と表現している。さらに、「信府統記」では十石峠の国境(くにざかい)から東にある恵那(野熊)山までが信濃と美濃の境であり、恵那山の東は信濃国の伊奈(那)郡と接しているとしている。 

 その国境(くにざかい)とは別に、馬籠村の明治期以降の行政区分としては、最初は名古屋県、筑摩県、長野県となり、2005(平成17)年に平成の大合併のなかで、結局のところ、岐阜県中津川市に越境合併された。 

 こうしてみると、馬籠峠は木曽谷の最初あるいは最後の峠として認識され、馬籠宿は木曽11宿の最初あるいは最後の宿と位置付けられていた。街道の上では馬籠峠は国境(くにざかい)ではないが、江戸期においても地理的には木曽川方向の西側の山中は美濃との国境(くにざかい)があったということだ。現在は、馬籠峠が長野県(信濃)と岐阜県(美濃)の県境となっているものの、馬籠峠や馬籠宿は美濃かというと、行政区分はともかくも歴史的経緯をみればやはり変わらず信濃であり、木曽街道のはじまりと、考えるのが妥当だろう。 

馬籠峠石標

馬籠峠男滝

馬籠宿近くの木曽街道

 柳田は峠の地理的な特徴を「旅人は誰でも心づくべきことである。頂上に来て立ち止ると必ず今まで吹かなかった風が吹く。テムペラメント(気質)がからりと変る。単に日の色や陰陽の違うのみならず、山路の光景が丸で違っている。見下す村里はかえって右左よく似ておっても、一方の平地が他の一方より高いとか一方の山側は急傾斜で他の一方は緩であるとかいうことが著しく眼につく」と指摘している。馬籠峠も妻籠宿側から登ると、「白木の番所の跡があるような深い森林の間で、場処によっては追剥の出たといううわさの残った寂しいところをも通り過ぎなければ、馬籠峠の上に出られない」と「夜明け前」では描写しているが、峠から馬籠宿に向かって下りはじめると西南方向に視界が大きく開け、明るさを取り戻す景観となる。 

 しかし、当時の旅人からすれば、京から下ってくる場合は、馬籠峠越えでいよいよ木曽谷に入ると思ったとだろうし、京に向かう場合は、馬籠峠越え、恵那山や濃尾平野の一端が視野に入れば、木曽谷を抜けたと感じただろう。それに、それぞれの置かれた立場や人生によって感じ方が違うかもしれない。 

 「夜明け前」でも参勤交代の制度改革によって、大名家の江戸詰めの数多くの女性たちが国元へ移動するため、木曽谷を抜けて馬籠峠へたどり着くと、「これが馬籠峠というところかの顔つきの婦人もある。ようやく山の上の空気を自由に吸うことができたと言いたげな顔つきのものもある」といったように、峠を越え、景色が開けたのと同時に江戸詰めの人質的な生活からの開放感が顔つきにでるというのだ。一方、幕末の厳しい空気の京都から戻る関東方の武士たちが「近江の伊吹山の望まれる馬籠峠の上までやって来て、いかにあの関東方がホッと息をついて行ったかがわかる」ともしている。これは彼らが京都で追い詰められた境遇から、木曽谷にいわば逃げ込むことによって、関東が一歩近づいたという感傷なのだろう。 

 「つなげる」という意味合いから馬籠峠をみると、その象徴的なもののひとつに婚姻があげられるだろう。「夜明け前」では主人公の青山半蔵は、峠の反対側の妻籠宿の脇本陣から嫁を娶っている。「半蔵の結婚は、やがて馬籠の本陣と、妻籠の本陣とを新たに結びつけることになる。二軒の本陣はもともと同姓を名乗るばかりでなく、遠い昔は相州三浦の方 から来て、まず妻籠に落ち着いた、青山監物を父祖とする兄弟関係の間柄」として、両家はそもそも一族が分かれて2つの宿で商売を始めたことで、リスク分散を図っていたといえよう。この婚姻は、それを確かするものであり、実際、この小説の後半では、妻籠側の青山家には継子が生まれず、馬籠側の次男が養子に入ることになる。経済活動においても「馬籠は、一分か二分の金を借りるにも、隣宿の妻籠か美濃の中津川まで出なければならなかった」し、「馬籠と妻籠の両本陣の間には、宿場の連絡をとる上から言っても絶えず往来がある」ことから、その結びつきは極めて重要だった。要するに、峠を挟み、環境や経済活動の異にする場所をつなぐことによって、一族の連携とリスク分散をはかるということなのだろう。 

 

妻籠宿

妻籠宿

四十四 木曽街道馬篭駅峠ヨリ遠望之図 渓斎英泉 国立国会図書館デジタルコレクション

 「つなげる」という意味合いでは、馬籠峠のみならず、中里介山の「大菩薩峠」でも峠を越えた婚姻が小説の重要な要素となっている。この小説のキーパーソンの一人となる女性は、主人公机龍之介の御岳山奉納試合の相手となる宇津木文之丞の妻であるが、宇津木の道場が武蔵国側の沢井村にあるにもかかわらず、大菩薩峠(標高1,897m)の反対側、甲斐国萩原領八幡村から嫁に来ている。難路が伴う峠越えをしても婚姻関係を結ぶ意味はどこにあるのだろうか。「宇津木の家は代々の千人同心で、山林田畑の産も相当」あり、嫁側も甲州八幡村の「お里がお金持で評判」というのがあって「ここへ来た最も有力なる縁の一つであった」としている。要するに峠を挟んだ有力者同士の縁結びであった。 この関係を生むベースとなる甲州側と武州側の大菩薩峠の経済的意味合いは、峠にある「妙見の社を市場として一種の奇妙なる物々交換を行う。萩原から米を持って来て、妙見の社へ置いて帰ると、数日を経て小菅から炭を持って来て、そこに置き、さきに置いてあった萩原の米を持って帰る。萩原は甲斐を代表し、小菅は武蔵を代表する。小菅が海を代表して魚塩を運ぶことがあっても、萩原はいつでも山のもの」という物々交換経済が成立していたことにあろう。ちなみに小菅は、現在は山梨県に属するが、かつては武蔵国とされ、沢井村はその多摩川の下流にあたる。 

 この大菩薩峠は分水嶺で、また「祈り」の場でもあったことから、甲州側にとっても武州側にとっても重要な峠であった。小説「大菩薩峠」では「標高六千四百尺、昔、貴き聖が、この嶺の頂に立って、東に落つる水も清かれ、西に落つる水も清かれと祈って、菩薩の像を埋めて置いた、それから東に落つる水は多摩川となり、西に流るるは笛吹川となり、いずれも流れの末永く人を湿おし田を実らす」と、その意味合いを説明している。峠の麓の住民にとっては、大菩薩峠が山岳信仰の対象であり、また、交通、経済の要衝であったことから旅の安全を祈願する場所でもあった。甲州側の山中にあり、小説「大菩薩峠」にも出てくる雲峰寺は、そうした信仰の拠点のひとつであったが、いまも深閑としたその境内に佇むと、往時の人々の思いを感じることができる。 

 つまり、大菩薩峠は甲州と武州の物流、人流の要衝で、つなぎめとなっていたということだろう。 

中里介山 「大菩薩峠」大正14年 国立国会図書館デジタルコレクション

大菩薩峠山中 雲峰寺

大菩薩峠山中 雲峰寺

 「峠」を「未来と過去」とか、「夢と現実」あるいは「希望と失意」という心象、表象的な意味合いで扱っているのは、司馬遼太郎の代表作のひとつの小説「峠」に出てくる、三国峠(標高1,224m)や八十里越え(鞍掛峠・標高965m、木の根峠・標高845m)だろう。この小説は幕末の長岡藩士(家老)河井継之助の生き様を描いたものだ。 

 小説「峠」の冒頭に出てくる、主人公河井継之助が厳冬期に越後の長岡から江戸に出るための「三国峠越え」は、史実としては碓氷峠(標高956m)であったといわれている。作者の司馬遼太郎は、あえて史実と違う「三国峠越え」を舞台に選んだのは、現状を打破するために自らの行動原理を求め、江戸に出る主人公の苦難の道を乗り越えようとする姿を、軽井沢側からほとんどが下りの「片峠」の碓氷峠ではなく、難路のしかも厳冬期の「三国峠越え」として描きたかったのだろう。 

 小説のなかでは、「三国峠は越後と関東とのあいだにそそり立つ峻嶮で、街道最大の難所とされ、江戸幕府の初期にきりとおされた。冬期、この峠をぶじ越えればまず命をひろったとみていい」とし、河井継之助が信奉した「陽明学にあっては、山中の賊は破りやすく心中の賊はやぶりがたし、という。眼前に、難路がある。これも、継之助の思考方法からみれば山中の賊であろう。継之助は、難路そのものよりも、難路から反応した自分の心の動揺を観察し、それをさらにしずめ、静まったところで心の命令をきく。(その心を、仕立てあげにゆくのが、おれの諸国遊歴の目的である)」としていることからもわかる。 

 こうして乗り越えた峠が分けたものは越後と江戸の天候であり、それは主人公の心象を表現しているものでもあった。「真青な天が戸の隙間からひろがった。(これが江戸だ)継之助 は、息をのんだ。この感動は、冬季、鉛色の雪雲にとざされている北国人でなければわからぬであろう。継之助は 本然のところ、この天が恋しさに南下してきたのかもしれない」としているが、それは、追い求める自らの行動原理がここでみつかるのでないかという、河井継之助の心の内を司馬遼太郎はこの天候の違いで描きたかったのだろう。しかし、実際は江戸だけではあきたらず、このあと、河井継之助は横浜、津、京大阪、そして備中松山と、自らの行動原理の形成に向け、行脚することになる。 

 この小説での「三国峠」は、まさに河井継之助がその後、時代の潮流に翻弄される苦難を予言するとともに、そのなかで自らの行動原理を確立し全面展開をしていく一歩として表象されているのではなかろうか。 

 現在の三国峠は、国道17号線のトンネルで抜け、上州と越後の境にある猿ヶ京温泉、法師温泉などに向かう街道と知られているが、人流、物流の中心は、高速道路の上越道や上越新幹線に移っている。その河井継之助の乗り越えなければならない難所という感覚は全く失っている。 

 この小説の終盤に出てくる官軍との小千谷談判に関し、河井の外交の考え方を「峠」に喩えているところがある。「継之助の外交を一個の峠とすれば、談判というのは峠の頂上であろう。頂上への登りぐあいは、継之助が構想しぬいたとおりの形態ですすんでいる」としている。これを読んだとき、柳田国男が峠には表口(甲)と裏口(乙)があるとして「甲種は水の音の近い山道、乙種は水の音の遠い山路である。前者は頂上に近くなって急に険けわしくなる路、後者は麓に近い部分が独り険しい路である…中略…初めて山越えを企てる者は、眼界の展開すべき相応の高さに達するまでは、川筋に離れては路に迷うが故に、出来るだけその岸を行くわけであるが、いざこれから下りとなれば、麓の平地に目標を付けておいて、それを見ながら下りる方が便である」と書いていることを思い起こした。 

 結局、この談判は、峠を登ることはできたが、「麓に近い部分が独り険しい路」である下り道で、その道を見失うことになったのだ。 

 最終盤で描かれる「八十里越え」は、越後と会津の境にある峠だが、「三国峠」とは逆に、夢破れ、袋小路に入っていく終末への門となっていく。河井自身はすでに武士というもの存在しえなくなると予見していたにも関わらず、自らの行動原理に従い、「サムライ」としての筋を通し、官軍との北越戦争を戦った。しかし、官軍を苦しめはしたものの時代の大きな潮流には勝てず、結局は敗れ傷を負い、「八十里越え」を経て、会津若松を目前にして只見で没した。司馬遼太郎は、「この峠の長大さは、どうであろう。 樹海は眼下にあり、道は天空に連なってゆく。『八十里こしぬけ武士の越す峠 』と、継之助はわが姿を自嘲した」とその峠越えを書き表している。主人公の志は「道は天空に連なっていく」のだろうが、現実は失意のなか、会津若松という、地理的にも政治的にも袋小路に向かっていく峠越えであることを描写しているのだろう。 

 司馬遼太郎は自作の小説「坂の上の雲」のタイトルについて、明治の楽天的な時代の雰囲気の中で「そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながらあるく。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶(いちだ)の白い雲がかがやいているとすれば、それをのみ見つめて坂をのぼってゆくであろう」と述べているが、幕末に生きた「峠」の主人公はこれとは真逆の心性だったのかもしれない。それが登って行くことしか考えない人生の「坂の上の雲」と上り下りの人生がある「峠」の違いだろう。 

河井継之助伝 北越奇傑 国立国会図書館デジタルコレクション

六十里越え(国道252号)沿いの只見川

碓氷峠 熊野神社

 「峠」の諸相について、いくつかの具体的な峠を取り上げてみたが、「柳田国男」は「峠に関する二三の考察」のなかで 峠の衰退について、道路や鉄道の整備によって「言うまでもないが峠の閉塞のために、山村地方の受くべき経済上の影響は非常に大である。山が深ければ農業一方の生活は営まれぬから、人をへらすか仕事を作るか、とにかく陣立を立直さねばならぬ。昔から山村に存外交易の産物が多かったのは、正に道路の恩恵であった。袋の底のようになってから、更に里の人と利を争うのはさぞ苦しいことであろう」と、近代化のなかで峠の存在意義が薄れていくことに触れている。かつては「峠の茶屋は両方の平野の文明が、半(なかば)は争い半は調和している所である。殊に気分の移り方が面白い。更に下りとなれば何のことはない、成長して行く快い夢」であったが、その存在を現代ではすでに失ってしまったのだ。 

 現在、多くの主要の峠は、その下にトンネルができ、あるいは場所を変え、高速道路の長大なトンネルで通過してしまう。かつての苦難の場もなければ、「平野の文明が、半(なかば)は争い半は調和」するところでもなく、開放感や安心感を得るところでもなく、経済交流の場でもなく、決意、失意の場でもなくなってしまった。これはこれで時代の流れのなか仕方がないことだが、いまは、峠を訪れて、かつての峠の役割や峠への人々の思い、祈りを思い起こしてみるのも旅や山行の楽しみのひとつではないだろうか。 

奥羽本線 山形県米沢市 峠駅

山刀伐峠古道(奥の細道)

引用・参考文献

筆者

典然

観光関係の調査研究機関をリタイヤして、気儘に日本中を旅するtourist。
「典然」視線で、折々の、所々の日本の佇まいを切り取り、カメラに収めることがライフワーク。「佇まい」という言葉が表す、単に建物や風景だけではない人間の暮らしや生業、そして、人びとの生き方を見つめている。

この筆者のほかのレポート