[Vol.11]宿場町の今

 私たちが旅行に出掛ける目的のひとつとして、「非日常」を体験したいということがよく言われる。旧宿場町がディスティネーションとして選ばれ、人気観光地化されていくことが見受けられるのも、疑似体験として時代をさかのぼることで、「非日常」を感じることができる有効な手段だからだろう。それゆえ、観光振興の手段としても重視され、「重要伝統的建造物群保存地区」の選定などの後押しで、街並みを修復再現しているところも全国各地に少なからずある。

長野県南木曽町:妻籠宿

 それでは、その宿場町とは一体どのようなものだったのだろうか。

 日本においては古代から官道の整備とともに都と各国との連絡のため、各地に「駅」が置かれた。中世に入っても引き継がれ「宿駅」などと呼ばれ、人馬の乗り継ぎの場として機能した。近世に入ると、江戸幕府が「江戸を中心とした国土を形成する為、日本橋を起点に各都市へ整備された五街道沿いの集落に制定された町」として本格的に制度化し、その町は「公文書や旅人を宿場町から宿場町へ運ぶ人馬の提供を幕府に課せられ」た。これにより大名や旗本、幕府の役人などが泊まる本陣・脇本陣や一般人が宿泊する旅籠が建ち並ぶようになり、五街道だけでも宿場町は約200個所あったとされる。もちろん、五街道以外にも街道は存在しており、宿場としての機能を持った多くの町が整備、形成され、とくに参勤交代で使われる宿場は五街道の宿場町に劣らない機能を有していた。

新潟県南魚沼市:三国街道塩沢宿牧之通り

 その宿場町の典型的な当時の様子を知る手掛かりになるのは、島崎藤村の「夜明け前」だ。この小説の舞台となった、中仙道「馬籠宿」(現在の岐阜県中津川市)の幕末から明治初期の様子を随所に詳しく描いている。当時の馬籠宿は、「宿場らしい高札の立つところを中心に、本陣、問屋、年寄、伝馬役、定歩行役、水役、七里役(飛脚)などより成る百軒ばかりの家々が主な部分で、まだそのほかに宿内の控えとなっている小名の家数を加えると六十軒ばかりの民家を数える」というから、かなり大きな集落とわかる。本陣のなかでも大名や公家などが泊まる部屋は「上段の間という部屋が一段高く造りつけてあって、本格な床の間、障子から、白地に黒く雲形を織り出したような高麗縁の畳」が敷かれていたという。

長野県塩尻市:奈良井宿

 当時の宿場町は、五街道はもちろん、それ以外の街道であっても、参勤交代の大名行列や公務に備え整備はされていたとは言われるが、庶民にとっては必ずしも十全ではなかったのかもしれない。英国人女性探検家イザベラバードは、明治初期に東北や北海道での旅で泊まった宿場町や宿屋についても数多く記述しているが、そのなかで当時の宿屋は西洋人、ましてや女性から見て、耐えられないほどひどい状況だったことが縷々書き綴られている。

 例えば、彼女が江戸を出て一泊目の日光街道粕壁宿(現在の埼玉県春日部市)では最上級の本陣に泊まったものの、「一階にも二階にも部屋があり、客がいっぱいで、実にさまざまないやな臭いがたちこめていた」とし、部屋は襖と障子だけで仕切られ、「その仕切りに貼られた紙はくすんだ不透明の紙」であり、背面の障子は「おびただしい穴が開き、畳みは無数の蚤のすみかになっている」とも指摘している。本陣ですら庶民が泊まる部屋はこのような状況ではあったようだ。

 さらに、庶民の安宿、木賃宿となると、最重要ルートである東海道でさえ、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」の描写を借りれば、「囲炉裏のそばに、着たきりのごろ寝をする。かような木賃宿の味気なさも話の種とはいいながら、風の音を凌ぐものは莚屏風に破壁」そして「二階に登ってみれば、天井は竹編みの簀の子を張ってあり、その上に莚をのべてある」という建て付けだったというのだ。もっとも、「北八」、「弥次」の二人はなんだかんだと工面算段をしながら、もう少しましな宿屋から宿屋へと渡り歩いていたようだ。その算段が「東海道中膝栗毛」の面白さでもあろう。

長野県塩尻市:奈良井宿

 江戸時代に形成された宿場は、基本的には公務の旅を前提にしていたものの、移動、移住の制限など、いろいろな制約、苦難があった故に、それを乗り越えてでも別の世界を夢見た日本人、とりわけ庶民が、お蔭参り等の信仰、薬売り・遊芸人等の商売、あるいは湯治のためなどと、いろいろな理由を付けては旅に出た。その折々にこの宿場を利用し、宿場町の発展に寄与し文化・風俗をも作り上げて来た。そのため、庶民のための宿の形態も意外にも多様であったらしい。

 柳田国男によると、「旅をする者の夜寝る所は、以前は野宿辻堂を除いても、少なくとも なお三通りはあった」という。ひとつは「御仮屋式、もしくは本陣風とも名づくべきもの」で、これが今の旅館形式のはじまりであろう。二つ目は「問屋式 もしくは定宿風とも名づくべきもの」で商売のための定宿、あるいはビジネスホテルの原初的な形態ではあるが、旅人と宿主は、いわゆる馴染みで家族的で濃密な関係にあったという。もうひとつは、「善根宿 式 または摂待風とも」名付けられていたもので、「村では利益の腋(掖か?)ために、客商売をすることは不可能だから、だれでも一夜の宿を乞う」という者に対し、格式がある家あるいは信心深い篤志家が保護者的な立場から設けていたようだ。明治以降、一つ目以外は、交通網や移動手段の近代化によって次第に衰えていったと、柳田国男は論じている。「東海道中膝栗毛」に出てくる木賃宿は、この衰えていった、二つ目、あるいは三つ目にあたるのかもしれない。こうして江戸時代に形成された宿場町は、明治以降の近代化の中、交通網あるいは交通手段の発達や社会の経済構造の変化に伴い急激に衰え、第2次世界大戦後は、宿場としての街並みも崩れ姿を消しつつあった。

長野県東御市:海野宿

 そこで1975年に国の政策として制定され進められてきた「重要伝統的建造物群保存地区」は、宿場町を含め日本の景観、伝統を守っていくのに重要な役割を果たしてきたといえる。現在、選定され一定の補助により保存されている街並みや建築物群は全国で120地区に及ぶ。そのなかに宿場町は8地区あり、宿坊群、温泉町等を含むと10を超える地区が選定されている。確かに全国を回ってみると、この「重要伝統的建造物群保存地区」は、それぞれの地域における建築様式、生活様式、文化伝統を保存し、それを観光に結び付け、地域振興、活性化に役立っているところが多い。これは極めて高く評価してよいことなのだが、しかし、いくつかを見て回っているうちに、なにか違和感を持ってしまう場合もある。

 例えば、福島県下郷町の大内宿だ。保存維持、地域活性化に成功した事例であることは間違いないのだが、これは京都太秦の映画村やテーマパークの日光江戸村とどこが違うか、ということに行き着く。大内宿は古くから街道に沿って両側にそれぞれ一列ずつ家並が続いていたので、書き割り的に見えてしまうのがその印象をさらに強めるのかもしれない。さらにもうひとつの疑問として浮かび上がるのが、本物の家屋を修復したという点でいえば「明治村」や「房総のむら」等の博物館的な維持保全とどこが違うか、ということだ。

福島県下郷町:大内宿

 「重要伝統的建造物群保存地区」の重要なポイントは、もともとあった場所で、特定の時代のものを、育まれた風土、環境を極力生かして保存維持することにあるのだろう。いわば鉄道遺産の保存でいわれる動態保存の意義に近いのだろう。しかし、違和感が出てくるのは、ある時代の街並み景観は、その当時の生活様式、生産様式、物流、人流形態に規定されて生まれてきたものであるが、そこに現代のあらゆる様式が流れ込んできており、とりわけ生産手段、経済構造の変化は、そこに住む人間とその街並みとの間にギャップを生むことになっていることだ。

 とくに地方においては「重要伝統的建造物群保存地区」を地域活性化の梃子として観光産業の主軸に据えた場合、大内宿のように大半の家が食堂かお土産屋さんになり、かつての宿場町の町並みとは色調も含めいろいろとディテールの違いも出てくる。それでも継続的に観光客が訪れ地域が潤ってその地域が維持発展していけば、それはそれで重要な役割機能を十分に果たしていると言えよう。大内宿の場合、毎年観光客が80万人ほど訪れ、地域経済に貢献している。

 しかし、一方では、現状においても訪問客数の伸びは停滞気味で、また、新たなコンテンツはなく発展性、展開性は少ない。事業としてのテーマパークであれば、一定のサイクルで新規投資を繰り返し新しいアトラクションやイベントを創出し新たな価値を創りだすが、「重要伝統的建造物群保存地区」では、ある時代の景観を守ることが主であるから当然のことながらこのような投資行動にはつながらない。

 大内宿においては観光関連収入が集落の維持に繋がっており、地域としての取り組みとしては成功事例といってもよい。だが、大内地区の人口減少率が下郷町の他の集落と比し相対的に小さいとはいえ、ここ35年ほどで30%近く減少し、町全体では40%と大幅に減少している。下郷町の就労構造も第1次、第2次産業の就労人口が激減し、第3次産業への町全体の依存度が高くなっている。

福島県下郷町:大内宿

 大内宿の本来の姿は、半農半宿の産業構造、生活様式から生まれたものであるが、時代の推移とともにこうした生活様式からは建築物群が分離され、その産業構造が崩れさると、固定化された観光資源となる可能性が高い。生活の場としての集落が時代に沿って変化をすることは当然のことではあるが、一方では、その地域の特有の産物や生活に根付いた文化が常に供給され続けなければ、いまある観光資源を食い潰し、消費されてしまうのではないかという恐れを感じてしまうのだ。つまり、価値の高い観光資源だが、現状のままでは資源自体には再生産機能はないからだ。この点から、大内宿が下郷町の経済を支える重要な柱となり、その依存度が高まれば高まるほど観光産業自体の持続性、再生産性が課題になってくる。

 「重要伝統的建造物群保存地区」はある時代を切り取って固定化したものであるから、経済構造、社会構造の異なる現代社会においては、真の意味での動態的な本物として観光客に見せることはできない。また、学者でもない観光客側もそこまでは求めておらず、日本人ではノスタルジー、外国人ではエキゾチズムに浸たることができ、知的好奇心が満足できることが重要なのだ。その意味では何らかの本物としての演出や演ずる必要性があるが、表層的な演出、演技ではすぐに見抜かれ飽きられるので、本物と感じさせるリアリティを可能とするバックボーンづくりが重要となっている。多くの民俗学者や社会学者が指摘しているように、日常の「生活文化」と「観光文化」にはおのずと違いあるものの、「観光文化」は川森博司が指摘するように「地域の日常生活に根ざしているというあり方を確保することが、地元の人々の主体性を保持していく道筋」だということであろう。

福島県下郷町:大内宿

 そのためには、観光資源を梃子に、地域の特性を生かした第1次産業から第2次産業を巻き込んだ「生業」としてのすそ野をどう広げるかにかかっている。「6次産業化」が叫ばれる本質はそこにあるのではないか。民俗学者の宮本常一は、「観光文化」化には批判の目を持っていたものの、一方では、観光を梃子に地域の生業のすそ野を広げ、それをストーリーで固有の観光資源とつなげていくことの重要性を語っている。例えば、その地域に合った植生であれば、その植物を集落で協力して植え付けることで「風景づくり」を行うべきであり、魅力ある観光資源とすることもできるはずだとし、さらに、農産物に限らず、地域に適合した素材、生産物を開発し、特産品としてあるいはブランド品として消費者目線で作り出すべきだという主張をしている。

 もちろん、こうした努力はすでに各地で行なわれているが、成功事例は多くない。しかし、地域住民と行政がいま、ポストコロナのなかで、この生業のすそ野の広がりを産業面のみならず伝統文化面でも構築しない限り、せっかくの「重要伝統的建造物群保存地区」が観光資源として消費しつくされ、逆に、地域住民にとって重荷にしかならない事態も想定できるのではないだろうか。私としては、そんな心配をしながらも「重要伝統的建造物群保存地区」が根ざしている「地域文化」とその可能性を、ファインダー越しに見つけ出すように努めたい。

長野県南木曽町:妻籠宿

引用・参考文献

  • *「旧街道宿場町の現状と街なか再生事例について」平成25年3月公益社団法人 全国市街地再開発協会市街地再開発研究所
  • *「夜明け前」島崎藤村 『島崎藤村全集』(岩波文庫)Kindle 版 
  • *「新訳日本奥地紀行」イザベラバード・金坂清則訳 東洋文庫 平凡社
  • *「現代語訳 東海道中膝栗毛」十返舎一九 訳者・伊馬春部 岩波現代文庫
  • *「明治大正史世相篇(上)」柳田国男 (響林社文庫) Kindle 版
  • *「日本の民俗3 物と人の交流 Ⅱ 旅と観光」川森博司 吉川弘文館
  • *「宮本常一講演選集5 旅と観光 移動する民衆」 宮本常一 農文協
筆者

典然

観光関係の調査研究機関をリタイヤして、気儘に日本中を旅するtourist。
「典然」視線で、折々の、所々の日本の佇まいを切り取り、カメラに収めることがライフワーク。「佇まい」という言葉が表す、単に建物や風景だけではない人間の暮らしや生業、そして、人びとの生き方を見つめている。

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