2018年7月21日の朝日新聞の記事に「小京都から独立する観光地」というのがあった。その記事では1985年に27市町で「全国京都会議」という団体が設立され、これまで計63市町が入会したものの、このところ18市町が退会しているということをレポートしていた。退会の理由は、1970年代から90年代では、ディスカバージャパンなどの気運のなかで、旅行雑誌やテレビ、旅行会社のパンフレットなどに「小京都」が取り上げられることも多かったが、2000年代になると注目度が下がったというのである。そのため、入会しているメリットがなくなり、金沢などが独自のブランドで観光客誘致を始めたというのだ。
私はこの記事を大変興味深く読んだ。以前より、「小京都」や「小江戸」、さらに「日本ライン」、「日本ロマンチック街道」など、国内外の有名観光地になぞらえてブランド化し、観光客誘致をしようとする動きに疑問を持っていたからだ。
「全国京都会議」への加盟は、「①京都に似た自然景観、町並み、たたずまいがある ②京都と歴史的なつながりがある ③伝統的な産業、芸能がある」という3つの条件のうち一つ以上あてはまることを基準にしているという。この条件では、多少古い歴史のある全国の街は、「小京都」になってしまい、その街のアイデンティティを何も示していないといえる。例えば、「全国京都会議」に加盟している町のひとつ、秋田県仙北市の角館は、佐竹北家の城下町で武家屋敷の家並みが保存され静かな美しい町ではあるものの、行ってみれば分かることだが、町の成り立ちが全く違うため京都の町並み、佇まいや周囲の自然景観と一致するものはほとんどない。いわんや、日本の都であった京都との歴史的つながりや京文化の影響を受けた伝統的な産業、芸能があるというのは、当然ながら、一定の歴史のある日本の都市であればどの町にも存在するものであり、加盟条件は基準として意味をなしていない。
しかし、こうした「小京都」や「日本ライン」などの「なぞらえ」型のブランド化やプロモーション手法が使われてきたのは、日本人が旅行する際のディスティネーション選びという行為のなかで、一定の有効性があったからなのだろう。
日本において、この「なぞらえ型」がいつ頃から見られるようになったのだろうか、考えてみると、「なぞらえる」という意味では、万葉集にはすでに見られ、平安時代に形式が整った「枕詞」がそれにあたるのだろう。枕詞はいろいろな物や事象、人、地名に定型的に掛かる言葉だが、そのなかでも地名、場所に掛かる言葉は多い。有名なものとしては「青丹よし奈良」「飛ぶ鳥の明日香」「玉藻よし讃岐」などが挙げられる。
また、「なぞらえ」が、古くから人口に膾炙されていたのは、「富士山」であろう。日本人の自然信仰のひとつとして「神奈備の山」があり、その象徴が「富士山」であった。「天地(あめつち)の 分れし時ゆ 神(かむ)さびて 高く貴き 駿河なる 富士の高嶺を」と山部赤人が歌ったように万葉の時代から崇められてきた。さらに、日本の近代化の過程においても志賀重昂は、その円錐形の山容をして「富士実は全世界『名山』の標準」として富士山へ徹底した肩入れをし、ナショナリズム高揚の梃子にも利用されるほどだった。志賀重昂は、「日本風景論」のなかで、名山の標準たる「富士」を「『岱宗』となし」、「千島富士」をはじめとして全国21の山を「富士」になぞらえている。山容は全く異なる比叡山まで「都富士」として組み入れている。果ては、日露戦争の戦勝の勢いから、台湾の玉山、中国山東省の泰山までも「富士」になぞらえる乱暴なナショナリズムを発揮している。
こうした「なぞらえ」の類語表現として、日本語には「見立て」という言葉がある。山崎正和は「“見立て”というのは、法則と個別の中間、類型と典型のちょうど中間のところ」にあって「本来関係ないものを結びつけて、その間にある共通性を発見するということ」だという。それは「中国の古典の中に原型を見出して、身近な人の人生を納得する」という営為につながる日本人の精神構造だとしている。事例として挙げているのは、古くは、源氏物語が「桐壺帝」と「桐壺更衣」を「玄宗皇帝」と「楊貴妃」に「見立て」ており、「太平記」でも中国の故事、歴史に「見立て」ている場面が多いという。さらに江戸文化では歌舞伎の設定そのものが「見立て」になっているというのだ。私がこれらから読み取れることは、「見立て」によって個別の人物、事象、事態が普遍化できる一方、それらの本質を包括化し、曖昧化することになるということだろう。この包括化、曖昧化の過程で、捉え方を二重構造にすることが可能となり、この曖昧あるいは無責任構造が日本人の精神構造に受け入れやすいものなっているのでは、ないだろうか。
こうした日本人の「なぞらえ」について、松崎憲三は、「日本は古くは中国や韓国の大陸文化を、近代以降は欧米の文化を受容しつつ日本的文化を築いてきた。その意味で元来『うつし文化』の育成に長けていたといえる。国内レベルでみても、それぞれに北九州や畿内、あるいは上方や鎌倉・江戸の文化を受容しながら独自の地域文化を育んできた」と、「うつし文化」という言葉で日本人の「なぞらえ」を説明している。
いずれにせよ、日本人は、人物や事象、地域、場所を「なぞらえ」なり「見立て」なり、「うつし」によって、表現しようとする精神性が、古くから存在することは分かる。これが、大衆社会ことさら観光行動のなかで大きな意味を持つようになるのは、明治以降の日本社会の急激な近代化が関係する。
その出発点となった明治期において、大きな影響力を持った人物のひとりが、地理学者の志賀重昂である。国粋主義者であった志賀重昂は、「浩々たる造化、その大工の極みを日本国に鍾む、これ日本風景の渾円球上に絶特なる所因」として「日本風景の瀟洒、美、跌宕なる所」をあげ、その故は、「一、日本には気候、海流の多変多様なる事、二、日本には水蒸気が多量なる事、三、日本には火山岩の多々なる事、四、日本には流水の浸蝕激烈なる事」だとして、「外邦の客、皆な日本を以て宛然現世界における極楽土」と言わしめているとまで、我田引水している。自然景観は、主観者がどうとらえるかによってその価値は多様であるため、絶対的な評価は下すことはできないのだが、志賀重昂は4つの所因が極めて相対的な項目であるにもかかわらず、日本の景観をどこまでも世界の冠たるものとして表現したかったのだろう。
この所論を掲載した「日本風景論」は1894(明治27)年に初版が発行されている。この年、日清戦争が開戦しており、日本全体がナショナリズムの渦が逆巻いている社会状況であった。近代化を急速に進め脱亜入欧のスローガンのもと、国家政策も進んでいる時だからこそ、日本のアイデンティティの確立が求められていた。志賀重昂の「日本風景論」のなかでも、外国、とりわけ、アジア諸国の景観と比較対照すべきでないものまでも比較して、その優位性を説こうとしている。これが当時の社会状況の中では受け入れられ、増刷、改版が続くのである。さらに日清戦争に勝利すると、前述するがごとく日本の景観の優位性の所因を忘れ「富士山」の拡張までしている。
こうした、日本の景観の絶対的優位性を唱え続けていた志賀重昂は、日本が日露戦争に勝利し、自らの欧州旅行の体験の中で脱亜入欧を実感すると、今度は日本の景観を欧米の景勝地でなぞらえるようになるのだ。例えば、「世界の奇観」のなかで「日本のラインと日本の瑞西」では、「唯独逸ライン河の風景、瑞西の湖光嶽色に至つては世評」は高く、「世界風景の雙美と稱ふる過大に非ず」と欧州の風景を持ち上げつつ、全く、規模も生成も違う、比較対照すべくもないにもかかわらず、「髣髴としてこれを得、瑞西は即ち信濃の仁科湖、ラインは犬山城下の木曽川」と、言い放つのである。このほかにも、ナポリと鹿児島、オランダと美濃大垣から尾張海西郡(現・弥富市付近)、スイスのインテルラーケンと長野大町など、比較も恥ずかしくなるくらいのなぞらえ方なのである。さらに、「続世界山水図説」では、伊豆半島がイタリヤ半島だの、江戸川もテームズ河やサクラメント河に似ているというのだ。そこまでして、欧米の景観と比する必要があるかと思うほどである。そこにはアジアとの比較は全く欠けているのだ。
大室幹雄は、こうした志賀の言説の変節を「かりに日本の風景が世界で一等であるのならば、それを他の国の風景になぞらえてみる必要はまったくない」とその矛盾を指摘したうえで、変節した理由を分析している。大室は志賀のナショナリズムは「欠乏の感覚、日本の国家的な弱さの自覚」と欧米先進国に対する「後進性の認識」にあったとしている。さらに、そこには中国や朝鮮半島に対しては、国力はもとより、景観でも優位にあり、欧米に対して、一貫して劣等の観念があったと指摘している。しかし、それが日露戦争の日本の勝利によって、内実はともかくも国際社会でも一定の地位を得たことを、志賀自身が欧州旅行の経験から体感し、その結果「洵美たる日本の風景をヨーロッパ各国の風景に晴れて比肩させ得る」に至ったと、その「心理の屈折」を大室は看破している。要するに、国粋主義者の胸の中に欧米崇拝を宿す屈折したコンプレックスをかかえていたのだ。
ちなみに「日本アルプス」は1881年、英国鉱山技師のウィリアム・ゴーランドによって名づけられたもので、これは、いわば、上から目線で名付けられたもので、志賀のなぞらえとは異なる。しかし、それを喜々として受け入れるのもまた、志賀の精神構造と同様だと考えるべきなのだろう。こうした精神構造は、現代社会も抱え込んでいる。明治期は成長、伸び盛りで、しかも追い抜き、追う立場であったが、現在は、アジア諸国に追い上げられつつあるなか、日本社会の衰退が予見される状況下であるがゆえに、「ヘイトスピーチ」にみられるようにナショナリズムの屈折の仕方が余計に複雑で危険だ。
そもそも観光は、他にないもの、すなわち特異性、あるいは新奇性があるからこそ成り立つものであり、旅行者にとって日常的あるいは身の回りにある見慣れた景観や文化では、その意味をなさない。また、自分の観光資源を他のものでなぞらえるのは、その有名観光地の矮小化、卑小化に過ぎず、さらには、その有名観光地のイメージで、折角の特異性が塗りつぶされてしまう可能性が強い。
そうした視点で見れば、同じ「なぞらえ」でも「枕詞」はまさにその町のアイデンティティを明確に示している。「青丹よし奈良」「飛ぶ鳥の明日香」「玉藻よし讃岐」など、その時代のその地域の特異性を表現するのに極めて有効だ。この古代からの形容の手法は、まさに現代のブランド戦略に通じる。小京都など自らを矮小化した「なぞらえ」の発想から抜け出ることによって、自らの観光資源を見つめなおす契機となり、その観光資源の本質を理解することが、観光振興、あるいはブランド戦略の第一歩となるのではないだろうか。小なりといえども、自らのアイデンティティを明確に持った観光地が数多く生まれることを願ってやまない。
引用・参考文献
- *朝日新聞2018年7月21日別刷版「be report 小京都から独立する観光地」
- *全国京都会議HP
- *志賀重昂「日本風景論」岩波文庫
- *丸谷才一・山崎正和「半日の客・一夜の友」文春文庫
- *松崎憲三「『小京都』と『小江戸』-『うつし文化』の基礎的研究-」 成城大学文芸学部 日本常民文化紀要2007-03
- *志賀重昂全集 第5巻「世界の奇観」昭和3-2 第6巻「続世界山水図説」昭2-4 志賀重昂全集刊行会編 国立国会図書館デジタルコレクション
- *大室幹雄「志賀重昂『日本風景論」精読』岩波現代文庫