[Vol.27]幻視化された『下町』と観光

 東京23区のどの区においても経済政策および都市計画において、観光が重要なテーマのひとつになっている。そのなかで、墨田区では、景観まちづくり像として「水辺と歴史に彩られ、下町情緒あふれる“すみだ風景づくり”」の実現を目指し、台東区では、まちづくりの整備方針として「下町の生活を表現する景観づくり」を挙げ、江東区でも「水辺と緑が豊かで、伝統と歴史を重んじ、昔ながらの下町の風情が色濃く残る、人情に厚く温かいまち」だと自らを規定しているなど、荒川区、江戸川区も含め、東京東部の各区は、「下町」を街づくり、景観づくりの大きな柱にし、観光計画とも紐づけている。また、東京都心の東北部に路線がある東武鉄道のホームページでは、観光客向け案内に「東京下町エリア」として、北千住周辺、東京スカイツリー(押上)周辺、亀戸周辺、浅草周辺をとりあげ、誘客に力を入れている。東京の東部地域においては、「下町」がキイワードになっているともいえよう。 

東京都墨田区 京島

東京都台東区 谷中霊園

 しかし、この「下町」あるいは「下町情緒」といわれるものは、意外と曖昧模糊としている。それゆえかもしれないが、下町情緒や江戸情緒を売り物にする土産品店や飲食店、あるいは街並みには、国内外の観光客向けに派手なデザイン、色合い、あるいは、日本風をデフォルメしたようなチープなものが並べられていることも多々見られるのは、おそらくは、「下町」の本質がつかみ切れていないからではないだろうか。 

 そこで、「下町」を広辞苑でみてみると、「低い所にある市街。商人・職人などの多く住んでいる町」とし、東京の事例として「台東区・千代田区・中央区から隅田川以東にわたる地域」だと記している。どうも、これも大雑把な説明になっている。この表現だと、どの都市でも低い所で、商店や町工場があれば、「下町」ということになってしまう。 

 そこで、まず、東京以外の街では、「下町」はどのように扱われているかを見てみたい。例えば、大阪においては、浪速の庶民を丁寧に描いたとされる昭和初期の作家、織田作之助は大阪の東側の上町台地の生まれだが、「木の都」のなかで「上町に育つた私たちは船場、島ノ内、千日前界隈へ行くことを『下へ行く』といつてゐたけれども、しかし俗にいふ下町に対する意味での上町ではなかつた」として、上町は東京の「山の手」と違い「路地の多い――といふのはつまりは貧乏人の多い町」で「同時に坂の多い町であつた。高台の町として当然のことである。『下へ行く』といふのは、坂を西に降りて行くといふこと」だとしている。つまり、大阪人にとっての「下町」の意味は、坂を下り西に向かうという極めてシンプルな意味しか持っていなかったともいえる。京都でも「下京」「上京」という形で町が区切られているが、あくまでも御所を中心としての地理的かつ風水的な意味合いといってよいだろう。 

 また、「下町」を「down-town」と英語で訳されることがあるが、英語では「down-town」は、都心とか都市の中心繁華街、ビジネス街という意味であり、イギリス英語では「city centre」という。つまり、「下町」に対応する適切な単語は英語にはないため、正確に訳するためには「Shitamachi-district」あるいは「a traditional working-class neighborhood」(プログレッシブ和英中辞典)と、東京(あるいは日本)の固有地名とするか、説明的な表現になるという。「down-town」自体は、もともとはニューヨークのマンハッタンで地図上の南にあたる街を指すことから始まっているとも言われており、「低い所」や「商人・職人が住んでいる町」という意味合いはないという。 

 さらに都市計画の専門家や建築家が、都市における「下町」の存在の重要性、優位性について取り上げることも多いが、この場合の「下町」の定義として、「職住近接ないし職住一体の町」であって「濃密なコミュニケーションの形成、祭りなどの住民主体の行祭事の開催、日常的な暮らしの比較的狭い範囲での完結などが可能な」町で、合わせて地理的な高低、中心周縁など相対概念だと説明している例もある。これも余りに概括的に過ぎ、都市の発展過程や地理的条件のなかで様々な形態が生まれてくるので、多くの都市では「下町」という概念より、地名や町、通りの名で表現されていることの方が多い。 

 例えば、ニューヨークであれば「ダウンタウン」はマンハッタン島の南部地区だが、「下町」の雰囲気が漂うのは、ブルックリンということになり、大阪では東側の上町台地からみれば、地理的条件として西側はみな「下町」ではある。しかし、心斎橋や道頓堀あるいは御堂筋は英語としては「down-town」あるいは「city centre」だが、都市計画の専門家たちが使っている意味での「下町」ではない。強いて大阪の「下町」を挙げるとすれば、新世界、十三、千林等々だろうが、特定されたイメージはない。 

大阪市 ドン・キホーテ道頓堀店

大阪市 法善寺横丁

 以上のことから考えてみると、「下町情緒」や「下町文化」などと使われる場合の「下町」の意味は、江戸時代からの日本の首都だった東京の都市構造と深い関係にありそうだと推測できる。「下町情緒」は「江戸情緒」と同義的に使われることが多いことからも、この推測は当たらずとも遠からずではないだろうか。 

 東京における「下町」の誕生については、1603(慶長8)年から始まった江戸城の拡充、再整備に関係する。日本橋に五街道の起点が設定され、江戸城の常盤橋門外から東の浅草方面へ向かう街道に沿って本町の町割りを行ったという。江戸文化・風俗の研究家、三田村鳶魚は「その時に日比谷の入江になつて居りました分をずつと埋立てまして、そこにへ町數にして三百ほどの新市街」ができ、「江戸の古町」と言い、これが「江戸の下町」だとしている。この新市街には「櫻田から神田までの地域は、家康が入國した頃の江戸の城下町」であったが「江戸の大名屋敷になってしまつて」、民家が移されたとしている。そのため、「『下町』とは御城下町の略で、慶長八年以来それを江戸の町と稱」していたという。「山の手の武家地に対して『下町』と呼ばれた」(「日本橋HP『日本橋の歴史』」)とする説もあるが、いずれにせよ、誕生期の「下町」は日本橋から室町、神田付近に限定され、隅田川(大川)西岸の埋め立てにより拡張された地域であることは確実だ。 

 江戸時代の「下町」の範囲がかなり限定されていたことは、三田村鳶魚が享和年間(1801-1804)の「武野演路」を引いて「日本橋南北神田京橋新橋俗に下町」だと紹介している。また、同時代の1804(文化元)年に元飯田町中坂(現:千代田区九段北一丁目)の履物商「伊勢屋」の婿になっていた滝沢馬琴が日本橋本町一丁目に寄寓していた赤松魯斎から「いろ/\御噺も御座候。何卒下町辺御序の節、御過訪奉願上候」と、来訪を依頼される書簡を受け取っているが、日本橋から至近の九段北に住んでいる馬琴に対し、日本橋付近を「下町」としているので、下町の範囲がいかに限定されているかがわかる。 

 また、「濹東綺譚」の挿絵でも知られる洋画家の木村荘八が明治の建築学者佐藤巧一の説として「昔の都会生活、『江戸』では、中心地から一里半のところを、東西南北共に、自ら『場末』としたものだ」と紹介し、その説に従うと「この円の中が『江戸の内』といふわけではないが、本郷三丁目より地図の上で右回りに東へと湯島新花町、秋葉の原、こゝで神田川 を越えて、岩本町、大伝馬町、人形町、茅場町、八丁堀、新富町、築地、汐留と、「下町」を半周して、段々『山の手』へ」ということにあるとし、隅田川(大川)を越えていない。これらをみると、江戸時代は東海道筋であった銀座は「下町」の範疇に括られているが、商業地の中心は京橋から日本橋にあったともいえよう。 

 江戸における「下町」の形成が大阪や京都との大きな違いは、江戸が17世紀初頭に造成された近世都市で、しかも、武士階級が人口6~7割を占め、その武士階級は地方との出入りが多かったことである。町人たちは集中的に江戸城の東側で隅田川(大川)の西岸と江戸湾沿いの極めて狭隘な低地である「下町」に居住し、しかも、流動性のある住民たちで男性の比率が圧倒的に高かったことが、町づくりや江戸文化の創造に大きな影響とエネルギーを与えたのだ。その点は、町人中心の大阪や公家社会に連動する京都など歴史ある都市の構造とは大きく異なっていた。 

 それでは、江戸、東京の「下町」の拡張と移動はいつ始まったのであろうか。この「下町」と東京の都市構造の歴史的変化について詳細な分析を三浦展が行っている。 

 東京の下町は、一般的に「浅草、門前仲町、両国、錦糸町、葛飾柴又、あるいは足立区とイメージする人は多い」だろう、とし、「浅草や柴又は本来門前町であり下町と言えるのかは疑問」であり、「下町」という言葉からイメージされる街はさまざまだが、その拡張段階は4段階あるとしている。 

 江戸以来の「下町」を「第一下町」とし、旧区名で日本橋、神田、京橋(月島を除く)と規定しているので、銀座も「下町」の範疇になっている。「第二下町」は明治・大正以降の下町で、1923年の関東大震災前に人口が急増し、震災後は一旦減少して1940年に人口が最大となる地区で、旧区名では「浅草、下谷、芝(芝浦側)、本所、深川が属する」としている。  

 「第三下町」は昭和以降(関東大震災以降)の下町で、昭和に入り人口が急増した地区で荒川区、向島区が相当するという。そして「第四下町」は戦後の下町。 震災後、人口が急増し、 第二次大戦後も人口増加した地区で、旧区でいえば、城東、王子、江戸川、葛飾、足立の各区のなかのいくつかの街が「下町」として扱われるようになったと三浦展は分析している。 

 この説は明治以降の拡張を重視して分析しているが、江戸期においても1657(明暦3)年の「明暦の大火」をはじめ、たびたびあった大火や地震に対する防災的な都市計画と市域の拡大により、三浦の「第二下町」への概念の拡張は準備されていたとも思われる。大名たちの屋敷や寺社を郊外へ移転させ、延焼防止のため火除け地や広小路や土手などを整備し、両国橋が架設され、本所や深川の都市開発が進んだ。さらに吉原遊郭など歓楽街も浅草寺の裏などに移転していた。 

東京都荒川区 三ノ輪付近

東京都北区 栄町電停近く

 その結果、三田村鳶魚は、「明和八(1771)年板の『新名數』を見ますと、江府里數凡四里四方、其中稱府内方二里中央と書いてある。この『方二里』といふのが江戸の町中で、『四里四方』といふのが府内」だと紹介している。このことから、『江戸の町中』ではない、『府内』が「第二下町」化していくのである。もっとも、当時の深川では「辰己芸者」や「深川八幡祭り」などが誕生し、神田明神の氏子ではない矜持もあったとも思われ、また、本所の方には、忠臣蔵の討ち入りで知られる吉良邸などの大名屋敷もあった地区であるから、まだ、住民自身にも「下町」という意識はなかったのではないだろうか。 こうしたみると、「下町」の概念は、時代によって変化してきたわけでが、それはまた「下町」に対する評価の変化でもある。  

 江戸時代に形成された「第一下町」は、江戸という日本の首都において、まさに商業、物流などの経済金融の中心であり、さらには、エドワード・サインデンステッカーが言うように「江戸文学には、江戸という特定の場所と結びついた意識が強い。…中略…下町の特定の場所を抜きにしては理解できず、ましては味読することなど不可能」だとしているように、江戸文学、芸術の中心であった版元も並び、俳諧や歌舞伎などの演劇活動も「第一下町」あるいはその周辺の「第二下町」といわれる地区が揺籃の地となった。このことは、日本橋で生まれ育ち、明治から昭和初期に活躍した女流劇作家長谷川時雨は「大川端(隅田川両岸)といふ名が、ある種の魅惑をもつてきこえてきたのは、吉原が淺草千束村に移り、その交通路とこの川筋がなつたので、特殊の文化を兩岸に生んで來てからで、辰巳(深川)お旅辨天や松井町(本所)の賑はひと、辰巳(たつみ)文學(といつてよければ)香夢洲(むこうじま)文學と切りはなされない。やがて、日本橋人形町の芝居小屋が淺草猿若町に移轉すると、吉原、觀音樣地内、芝居茶屋、舟宿、柳橋、兩國の盛り場…中略…といふふうに大川筋は、遊山、氣保養の本花道となり、兩河岸は大名下邸の土塀と、いきな住居の手すりと、お茶屋といふ、江戸錦繪、浮世繪氣分横溢となつた」と江戸期の「下町」の文化の醸成の推移を整理している。この文化の地理的移行が明治、大正期に「第二下町」として、「下町」の拡張に素地ともなるのだ。 

 明治の文豪国木田独歩は明治34(1901)年から赤坂に住んでいたが、随筆「夜の赤坂」で当時の赤坂と「下町」を対比して「赤坂はさみしい処で、下町、則ち京橋や日本橋に住んで居る者は、狐や狸の居る処と心得て居る位」として「赤坂の夜は確かに日本橋、京橋、神田、本郷、下谷、浅草などの区よりも二時間位は早く夜が更けると見てよろしい」と記述しており、この時期には「下町」は「第一下町」と認識しており、この時期にはすでに繁華街となっていた「第二下町」の認識が形成されつつあったことがわかる。 

 明治25(1950)年に本所に生れ、20歳頃まで住んでいた芥川龍之介は、「明治二、三十年代の本所は今日(昭和初期)のような工業地ではない。江戸二百年の文明に疲れた生活上の落伍者が比較的多勢住んでいた町である。従って何処を歩いて見ても、日本橋や京橋のように大商店の並んだ往来などはなかった。はじめ、『伊達様』『津軽様』などという大名屋敷はまだ確かに本所の上へ封建時代の影を投げかけていた」と明治期には隅田川(大川)を渡った東岸は、大名屋敷時代の雰囲気を残しつつ、貧民が流れ込み、いわゆる「第二下町」時代の工業地帯化は進んでいなかったことがわかる。 

 明治期に入り、西洋文化が急激に入り込むと、「第一下町」の近代化は急激で、まさに「down-town」化しビジネス街、官庁街や繁華街と生まれ変わってしまい、銀座、新橋、日比谷などがいわゆる「下町」の概念から遠ざかり、日本橋、京橋も街の景観や住民層の変化がみられた。そのことにより、日本の文化、伝統が圧迫され、その精神性をも否定されていく現象に対し、当時の知識人、文化人のなかから、江戸文化や下町文化やその精神への再評価がなされ、とくに関東大震災で「第一、第二下町」が物理的に壊滅したことによって、より一層その渇望感が強く現れるようになったのだ。 

 その本所について、明治の小説家で翻訳家の柴田流星が明治44(1911)年に出版された「残された江戸」では「江戸ッ児の文明は大川一つ向岸に追いやられて、とうとう本所深川の片隅 に押込められてしまった。然らばすなわち、今の東京に江戸趣味は殆んど全く滅ぼしつくされたろうか。いいえさ、まだ捜しさいすりゃァ随分見つけ出すことが出来まさァね」と、隅田川の西岸の「第一下町」では江戸文化は廃れ東岸が「第二下町」として明確に認識している。 

 芥川も、その後の「第二下町」への移行について「現世は実に大川さえ刻々に工業化しているのである。しかしこの浮き桟橋の上に川蒸汽を待っている人々は大抵大川よりも保守的である。僕は巻煙草をふかしながら、唐桟柄の着物を着た男や銀杏返しに結った女を眺め、何か矛盾に近いものを感じない訳には行かなかった。同時にまた明治時代にめぐり合った或なつかしみに近いものを感じない訳には行かなかった」と明治から大正への近代化する東京と、「下町」の住民がもつ江戸的な保守性を対比的に語っている。 

 だが、関東大震災をくぐると、芥川は大川端の両国について「僕の記憶を信ずるとすれば、 この(回向院の表門を出て)一つ目の橋のあたりは大正時代にも幾分か広重らしい画趣を持っていたもので ある。しかしもう今日ではどこにもそんな景色は残っていない」とし、浅草についても「つつましい下町の一部である。花川戸、山谷、駒形、蔵前——その外どこでも差支ない。ただ雨上りの瓦屋根だの火のともらない御神灯だの、花のしぼんだ朝顔の鉢だの……これは亦今度の大地震は一望の焦土に変らせてしまった」と、関東大震災が東京、とりわけ「第一、第二下町」の風景を一変させたことに触れている。 

 長谷川時雨は「震災後の下町は、いつて見れば、新しい開府時代が來たのだ」として、「丸の内をとりまく個所は西洋建築でよいとして、日本橋ツ子よ、京橋ツ子よ、そして淺草、下谷の人々よ、安いコンクリートまがひをやめ、耐火、耐震、防空の強かりしたものを建てて、その表面は、黒壁の店藏造りにしませんか。」と提唱している。丸の内近辺は徹底した最新の建築物が並んでも良いが、日本橋、京橋、下谷は「壁を塗らずとも、黒壁をおもはせる、新しい店藏づくりの甍」を並べ、「宮城と相對し、中央に歐風諸建築をはさんで、眞の、日本的な、そして東京の氣風が出ると思ふが——」と、全てが近代的な建築物群になり、東京らしさが消滅することを危惧している。 

東京都千代田区東京駅前 新丸ビル

東京都千代田区 JPタワー

 そして、「江戸の都市美には田園風景を多分に抱へこんでゐた。いま、江戸憧憬者が惜がるのは、都の中にあつた田園水郷の風趣が、都會的に洗練され」ていたものが、現今「 震災後の雜ばくたる下町」となったしまったことに慨嘆している。震災後の昭和初期においては、震災前には多少なりとも江戸の風情が残っていたが、それが壊滅的に喪失したが故に「下町」への憧憬が強まったといえよう。 

 ただ、一方では、長谷川時雨は、「それはあまり見馴れすぎてゐた舊文明の殼が眼のうらにありすぎるからだ」と近代的な町づくりへの期待も持ち合わせていた。 

 これに対し、長谷川時雨と同じ1879(明治12)年生まれでも山の手に生まれ育った永井荷風は、明治から昭和初期の「下町」の移り変わりを体感してきた長谷川時雨とは違い、川本三郎が指摘している通り「おそらく現実の下町の風景を見ているというより、自分の頭のなかの『江戸』『東京名所』という既成のイメージで下町を見ている、いわばそれは、本当の風景というより見立ての風景である。荷風にとって東京の風景とは、しばしば、そういう見立ての風景だった。荷風はいつも浮世絵や版画のなかの描かれた風景、あるいは江戸文学に描かれた風景を通して目の前の風景」を見ていたのだろう。それが「のちに『濹東綺譚』で頂点に達する。実際には、汚れた私娼の町が、荷風の目には、江戸情趣を残した風雅な町」として見立てたのだろうから、明らかに長谷川時雨の立ち位置とは異なる。 

 また、江戸っ子、あるいは「下町娘」の気質、立居振舞いについても、二人は語っているが、表現は似通っているものの、立ち位置の違いが見え隠れする。長谷川時雨は「下町娘は心意氣である。江戸生れの氣質を代表した名なのである、單におつくりそのものではない」とし、「くだけていへば下町娘は決して美人ではない、感覺的にも性的魅惑はもつてゐない…中略…自然の色氣――それは避けないが、殊更に、女の匂ひを利用しようとはしなかつた。情にもろいこと、涙もろいこと――それが僞りものでないだけに 缺點だともいへる」と、その「下町娘」の気質を評している。さらに長谷川は同時代の「下町娘」について「明敏な瞳をひらき、胸をはつた、あんまり白粉つ氣のない娘」で「最も近代的な、そして力強い未來をたのむことの出來る、代表的な東京娘」だとして、なんとか近代化の中に「下町娘」を見出そうともしている。 

 それに対し、永井荷風は、「已に完成しおわった江戸芸術によって、溢るるその内容の生命を豊富にされたかかる下町の女の立居振舞いには、敢て化粧の時の姿に限らない。春雨の格子戸に渋蛇の目開きかける様子といい、長火鉢の向うに長煙管取り上げる手付きといい、物思う夕まぐれ襟に埋める頤といい、さては唯風に吹かれる髪の毛の一筋、そら解けの帯の端にさえ、いうばかりなき風情が生ずる」とし、また、浅草の大門前日本堤橋近くの裏通りに在る古本屋の主人について「頭を綺麗に剃った小柄の老人。年は無論六十を越している。その顔立、物腰、言葉使から着物の着様に至るまで、東京の下町生粋の風俗を、そのまま崩さずに残しているのが、わたくしの眼には稀覯の古書よりも寧ろ尊くまた懐しく見える」ともしている。 

 これらをみると、自らが「下町娘」である長谷川は一人称的に分析にしているのに対し、永井は第三者的かつ表象化しているのではないかと思える。長谷川は、「下町」が自らの血肉であるので、かつての江戸の「下町」を失いつつあるものへの思慕はあるものの、雑駁な近代化は否定しつつも、近代化そのものは、いかに取り込むべきかを模索している。 

 一方、永井は、「下町」は憧憬の対象ではあったものの、自らの体質に見合ったものではないことは、「曾て山の手の家を住みにくしと悪み、川添の下町(築地)住ひを風雅となしたるは、軍人と女學生とを毛虫の如く嫌ひしためなりしが、いざ下町に來て住めば、隣近所の蓄音機騒がしく、コレラとチブスの流行には隣家と壁一重の起き臥し不氣味にて、且は近年町内に軍人まがひの靑年團といふもの出來て、事ある毎に日の丸の旗出せといふが煩しく、再び山の手の蜩鳴く木立なつかしく思返され引き移り」と述懐しており、下町に馴染めず、うっとうしさも感じていたことを吐露している。 

 永井荷風は近代的自我を確立しているがゆえ、下町的な社会性や貧困を受け入れられないことを自らも悟っていたといえよう。そのため理想化した江戸文化、情緒を昇華し、それを「下町」に求めたといえよう。ただ、「第一下町」は近代化が進んだゆえに幻視の対象にはならず、最初はその周辺部や「第二下町」に求め、関東大震災後「濹東奇譚」の時期に至ると、「第三下町」に求め、その幻視に耽溺していったのだろう。 

 永井が「下町」を幻視するという意味では、東京空襲や戦後の高度成長経済下において、昭和初期の「第三下町」も喪失され、現代的なメトロポリタンとなった東京の姿のなかで、大衆が「第四下町」を見出したのと相似形になっている。それは三浦が下町 は 「1970年前後に『発見』(ディスカバー・下町!)された、あるいは再定義された」として、「都心の近代的オフィス街化、郊外住宅地を中心とする生活様式の西洋化などが進むことにより、近代的でも西洋的でもない、伝統的で日本的なものとして下町が珍しがられる時代が始まったということである。言い換えると下町は地方・田舎と同様に『近代』や『西洋』のない(少ない)、その意味で『遅れた』 場所というイメージで語られるようになった。あるいは『江戸の象徴』として見いだされたのである」と指摘しているのにあたる。 

 ただ、これらの指摘から見ると、昭和初期の「下町」への懐旧と1970年代から始まる「下町の発見」は相似形ではあるが、本質は大きく違うことにも気づく。 昭和初期の、永井荷風や長谷川時雨は、それぞれ明治初期の山の手と日本橋(「第一下町」)の生まれで、江戸の町並みや文化、伝統が崩壊していく姿を、立ち位置は違っても身を持って体感している。それゆえ、この二人は、本源的な「下町」なるものを具体的かつ身体的に、感得していたことは事実である。  

 しかし、一方、1970年代の「下町」は、震災、戦争、高度成長経済を経て、大衆化社会の中でのイメージ化といよう。「江戸」的あるいは「下町」的なものは、江戸期にせよ、明治大正期にせよ、昭和初期にせよ、いずれの時代のものも、近現代化により、具体的なものは殆ど遺されていない状況であるがゆえ、「生活観が感じられること、住民との連帯感が感じられこと、歴史性が感じられることの3点で構成」された抽象的な郷愁としての「下町」のイメージが大衆のなかで形成されたといえる。それがさらに地域的にも拡張され、「下町」としてブランド化されていった。 

 この時期からいわゆる「下町」のブランド化が始まったのは、三浦は「下町がノスタルジーの対象となるのは、近代(化)という時代がノスタルジーの対象になったからだとも言える。下町イコール江戸情緒が残る世界なのではなく…中略…近代化とともに新しく生まれ拡大し続けてきたからこそ、今われわれを懐かしませる」としている。 

 おそらく、今後も「下町」は幻視化され、そのイメージは創造され、より抽象化されていくだろう。三浦は、その著書で「東京の下町の最後の記録のようなものになるかもしれない」と記しているが、幻視化された「下町」は、社会経済のあり方やマーケットの変化に応じて時代性に合わせながら、形を変えて意外と生き続けるのではないのだろうか。 

 もちろん、そうした、「下町」を否定する必要はない。最大のポイントは、「下町」のイメージの卑小化、矮小化なのだ。とくに江戸の文化、伝統、気質のイメージを、例えば、外国人の「日本」のイメージに合わせ、矮小化することなどなのだ。町づくりにせよ、観光誘致にせよ、「下町」のブランドを活かすなら、その文化や伝統、気質が生まれた背景、土壌、江戸から近代までの歴史を理解したうえで、新しい時代に合わせた改変や創造していくことが、まさに「下町」のブランドを活かし続けて行くのには必要なことだろう。 

 

 

引用・参考文献

  • *墨田区景観計画(平成29年)
  • *台東区都市景観整備方針(平成23年)
  • *江東区長期計画(令和2年)
  • *織田作之助「木の都」 現代文学大44 武田麟太郎・島木健作・織田作之助集 筑摩書房 (「新潮」昭和19年3月1日 第41年3号 青空文庫)
  • *久木田禎一「特集:下町・界隈 『下町が示唆するもの』」 都市環境デザイン会議 JUDINEWS 048 1999年
  • *三田村鳶魚「江戸っ子」昭和8年 早稲田大学出版部 響林文庫版
  • *縄田康光「歴史的に見た日本の人口と家族」立法と調査 2006年 No.260
  • *木村荘八 「東京の風俗」毎日新聞社1949(昭和 24)年 失われた江戸を求めて Kindle 版 滝沢馬琴、柴田光彦「馬琴書翰集成」第6巻 八木書店 
  • *三浦 展「下町はなぜ人を惹きつけるのか?~『懐かしさの正体』~ 」光文社新書
  • *エドワード・サインデンステッカー「東京下町山の手 1867-1923」1986年 TBSブリタニカ
  • *長谷川時雨 「大川ばた」1938(昭和13)年東京日日新聞 「下町娘」1929(昭和4)年サンデー 長谷川時雨作品集kindle版
  • *国木田 独歩「夜の赤坂」国木田独歩全集kindle版
  • *芥川龍之介「本所両国」1927(昭和2)年 失われた江戸を求めて Kindle版
  • *柴田流星「残されたる江戸」1911(明治 44)年 失われた江戸を求めて Kindle 版
  • *芥川龍之介「野人生計事」芥川龍之介大全 Kindle版
  • *川本 三郎『荷風と東京(上)―『断腸亭日乗』私註』岩波現代文庫(p75-76)
  • *永井荷風「妾宅」「濹東綺譚」青空文庫
  • *永井荷風「麻布雑記:小説随筆」春陽堂 大正13年 国立国会図書館デジタルコレクション
  • *田中秀岳・福井恒明・篠原修「グレイン論に基づく街路の下町イメージに関する研究」
筆者

典然

観光関係の調査研究機関をリタイヤして、気儘に日本中を旅するtourist。
「典然」視線で、折々の、所々の日本の佇まいを切り取り、カメラに収めることがライフワーク。「佇まい」という言葉が表す、単に建物や風景だけではない人間の暮らしや生業、そして、人びとの生き方を見つめている。

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