[Vol.34]「観光資源としての史跡・遺跡」

 横手盆地は、周辺の山々が遠く、その真ん中を悠々と雄物川が流れ、盆地と言いながら開放的な雰囲気に溢れている。そのなかでも、北部の仙北平野ともいわれる地域は、広大な水田地帯が続く。雄物川はこの辺りで田沢湖から流れ出る玉川と合流し、大きく屈曲して日本海に向かう。その屈曲しているところよりそう遠くない、大曲の市街から6㎞ほどの水田地帯を突っ切る直線道路を走っていくと、広々とした芝の広場と木造の楼門が突如現れる。その後ろには杉林が繁茂する小さな双丘(真山・長森)を見通すことができる。 

 楼門から小丘陵に向かうと、右手にクリークというよりは池のような流れがあり、丘の麓には、中門の柱跡を示す太い木柱が両サイドに建ち、それを抜け幅のある階段を登ると、高みの平坦地には政庁跡の礎石が置かれている。振り返ると、横手盆地が大きく見渡せ、見事に耕地整理がされた水田が続く。南には鳥海山も遠望することができ美しい山容をみせている。 

 この素晴らしいロケーションにあるのが払田柵跡(ほったのさくあと)遺跡である。この遺跡は、1930(昭和5)年に発見されたが、近年まで発掘調査が行われ、年輪年代測定によれば、外柵は800(延暦19)年及び801(延暦20)年、外郭柵は801(延暦20)年から917(延喜17)年頃以降に伐採した材木を使用していることが明らかになっている。また、外柵・外郭柵は城柵全体の建造と同時に造られたことも分かっている。 

秋田県 仙北市 払田柵遺跡

秋田県 仙北市 払田柵遺跡

 この払田柵は、大和朝廷が東北地方を律令体制に取り込もうとして建造した行政と軍事機能を備えた城柵であったとされ、10世紀後半にはその役割を終えたという。遺跡の総面積は87.8万㎡に及び、当時の「城柵」には2つの丘陵を楕円状に取り囲むように東西1,370m、南北780mの外柵(地上高約3.6m)が設けられていたことが分かっている。政庁は双丘東側の長森の丘陵上に置かれ、正殿・脇殿などを設け、周囲を板塀で囲っていたという。実務を司った建物は政庁からやや離れた長森東側に置かれ、長森の西側には、主に鉄・銅などの金属の生産加工の場となっていたとされており、丘陵に南面する広々とした平坦部には祭祀関連の遺構・遺物が多く発見されている。東北地方においては、多賀城跡・秋田城跡と並ぶ規模を誇っていたという。 

 ところが、これだけの考古学的な発見があるのに対し、この城柵の存在については、正史などの文献的な裏付けがとれていない大変興味深い遺跡なのだ。当時の正史「続日本紀」には記載がなく、また、他の文献においても比定すべき城柵の記述も見つかっていない。このため、学説としても「『続日本紀』にある雄勝城」説や「秋田城からの国府機能の移転先である河辺府説」などがあるが、まだ決着をみていない。 

 一方、この払田柵跡遺跡が観光資源としてどのように整備されているかというと、簡単な案内解説施設と外柵南門の復元、官衙跡の礎石と一部の建造物の復元を行い、石塁、環濠の一部の修復、敷地の大半を芝生にし、主に公園として活用している。遺跡を巡る園路の整備も行き届いていて、古代におけるこの地の様子を思い起こさせてくれ、のんびりと古代のロマンに浸りながらの散策には格好の地といえよう。道路を挟み、秋田県埋蔵文化財センターもあり、払田柵を始めとして、秋田県内の遺跡からの発掘品を収蔵・展示し、生涯学習の場にもなっている。観光資源としては極めて抑制的に整備がなされていると言って良いだろう。 

秋田県 仙北市 払田柵遺跡

秋田県 仙北市 払田柵遺跡

 ここにかぎらず、現在、史跡・遺跡公園の整備の仕方は、いろいろなアプローチの方法が試みられている。古代から中世の各国にあった国分寺跡や政庁跡などがそれにあたるし、中世から近世でいえば、戦跡、城跡などもそれにあたる。公園として一定程度は機能しているところも多々あるものの、観光資源的には、現状では観光客の誘引は難しいと思われる場合も多く、観光資源として活用するために天守閣や官衙などの建造物の復元を目指そうとする動きもみられる。この払田柵跡遺跡の場合、考古学的、歴史学的な価値は極めて高く、今後も学問的な探究は続けられて行くだろうが、観光資源としてどう扱っていくのかも検討されていく必要もあるだろう。この遺跡以外でも、史跡・遺跡を観光資源として保護保全という側面と復元・再建、案内施設整備など観光客誘致策の観点からどのように扱うか、同様の課題を抱えていると思う。 

 そのなかにあって、最大規模の整備計画が立案され、施工が始まっているのが奈良の平城宮跡だ。この整備計画によると、平城宮跡は「律令国家の完成や万葉集をはじめとした古典文化の舞台となった奈良時代の都であり、我が国の歴史と文化の始まりの地として、世界に誇ることのできる国民共有の財産であるとともに、地域にとってかけがえのない宝である」とし、大規模な復元計画を織り込んだ「遺跡博物館」の機能を有する公園整備を行うとしている。そして全体を「歴史・文化体感・体験機能」「歴史・文化交流拠点機能」「観光ネットワーク拠点機能」「自然的環境保全・創出機能」「レクリエーション機能」「利用サービス機能」を有する大規模国営公園とすることを目指している。 

奈良県 奈良市 平城宮跡大極殿

奈良県 奈良市 平城宮跡南門

奈良県 奈良市 平城宮跡東楼復元現場と近鉄

 現在、順次整備が進んでおり、第一次大極殿、朱雀門などは完成し、東院庭園が復元され、南門も完成間近で、さらにこれらを取り囲む築地塀の建設が行われるという。また、朱雀門前の朱雀大路には観光用の施設が並び、公園内には遺跡関連の発掘調査の結果などを展示解説する施設も3か所ほどあり、内裏跡や朝堂殿跡には、現時点では基壇、礎石のみが復元整備されている。 

奈良県 奈良市 平城宮跡朱雀門と資料館

 奈良時代、わが国の首都にあった中心施設の遺跡であるからこそ、こうした整備を行うことは当然のことだろうし、そこは地方の遺跡とは大きく違うことは理解できる。このため、壮大な整備計画の方向感が間違っているとは思っていないが、一番気にかかる点は、どこまで復元するかである。現在の整備計画にある復元される建造物だけでも極めて壮大で、素晴らしいものが出来上がると思われ、修学旅行やインバウンドの集客にも大いに力を発揮すると思うが、一方では、これ以上の復元はアミューズメントパークとはどこが違うのだろうかという疑問も持たざるを得ない。 

 復元にあたっては、「現在、古代建築物として現存する、法隆寺金堂や薬師寺東塔などを参考に、『続日本紀』、『年中行事絵巻』といった多くの歴史資料も参考にして、構造(建物の骨組)・意匠(建物の姿や形)において奈良時代の姿に忠実に復原」しており、一方では「大規模、純木造建築物の架構を出来るだけ当時の形式に近づける為に、基壇内部に免震装置が導入され、基壇躯体には超高耐久コンクリート(500年コンクリート)を採用し、初重の身舎天井に虹梁のない、豊かな立体空間の形成を実現」し、「古代と現代の技術の融合が試み」る、現代の建築工学の粋を集めた建造物にもなっている。

奈良県 奈良市 平城宮跡第2次大極殿基壇

 それゆえ、考古学的、歴史的研究の成果としても、また建築工学的にも、さらには歴史教育の学習効果といった面からも復元の重要性は十分理解できるが、どこまで復元するかは微妙なところだ。ある一線を越えると、それはアミューズメントパーク的要素が強くなり、所詮、見世物の範囲を出なくなってしますのではないだろうか。

 なぜなら、そこには、社会的機能は、観光的要素しかなく、本来あった政治的、行政的、軍事的機能もなければ、営みもないからである。かつてあった建造物は、そうした実働があったからこそ、工夫もあり、価値があったのであるから、その観点でいえば外形的に見せることが重視され、自ずと復元には限界性はあるといえよう。現に、現在の平城宮跡の朱雀大路と朱雀門の付近の雰囲気は大きな「道の駅」といっても過言でないだろう。

 こうした視点からみると、名古屋城の天守閣復元工事に関する議論も興味深い。過去に実際に建てられたものに極力忠実に木造建築で復元しようとする名古屋市の原案に対し、バリアフリーを考え、エレベーター施設などを整備するためには、鉄筋コンクリート造りにすべきだとする議論である。

 こうした議論が起こるのは、1959(昭和34)年に再建された現存の鉄筋コンクリート造りの天守閣の存在意義に関わってくるからである。現在、天守閣は耐震性の理由などからすでに入城はできないが、中に入れば通常のビルの資料館と違いなく、天守閣自体の建造物としての歴史的価値は、松本城や姫路城とは大きく異なる。見学するにしても、建造物としての内部構造に歴史的意味合いはない。ただ、このコンクリート製の天守閣は広く公開され、名古屋市内の眺望、あるいは外観のシンボル性、ランドマークとしての役割を十分にこなしており。市民のアイデンティティにもなっている。

愛知県 名古屋市 名古屋城天守閣

長野県 松本市 松本城

 しかし、一方では、名古屋城は太平洋戦争の空襲で江戸時代に建造された天守閣などが焼失したものの、江戸時代の図面や記録、昭和戦前期に作成された実測図、古写真などがよく残されているため、江戸時代に建造された天守閣の精緻な復元が可能という事情もある。実際に本丸御殿は2009(平成21)年から忠実な復元工事が行われ、2018(平成30)年から全面公開がされている。天守閣も創建当時のものを忠実に復元することが可能なだけに、再建の仕方が議論になったともいえよう。

 この点は、昭和初期の大阪城の再建が、最初から大阪のランドマークとして、また、博物館機能として企図されたのとは大きく違うところではある。大阪城は豊臣時代の「大坂城」の上に徳川幕府の「大坂城」が建てられたが、天守閣があったのは、豊臣時代の15年間と徳川幕政下において火災で焼失してしまうまでの39年間の合計54年間のみであった。また、現在の天守閣は、昭和初期に再建され、豊臣時代の天守閣をイメージして造営されたというが、資料が少なかったため、徳川時代のイメージも折衷したとも言われている。要するに短期間にしか存在しなかった天守閣が、近代になってからまさに大阪のランドマークとして創造されたと言うことができるだろう。この大阪城の事例が全国にコンクリート製の天守閣を叢生させたといってよい。このことは、各地域のアイデンティティとして住民に定着していくのであれば、意義深いものであるが、そこまでには至らずに、陳腐な姿を残すだけの天守閣も多い。

 名古屋城復元問題の議論のポイントは、復元忠実派は忠実に再現することによってシンボル性と史跡・遺跡自体の価値を高めることで誘客をしようとするものであり、一方のバリアフリー型の公開施設派は、外観のシンボル性、ランドマーク機能を重視し幅広い公開性に力点を置く見解であるから、交わることのない史跡・遺跡活用に対する価値観の相違だろう。その違いを認識しつつも何のために復元再建するのかをきっちり整理していくことが重要であり、再建、復元によって文化財や史跡を保護保全し、歴史的意義を正確に反映することで、後世に何を継承することができるかを常に検証しておくことも必要であろう。

 例えば、払田柵跡遺跡は、周辺の環境と調和しており、抑制の効いた公園整備は、訪れてみれば素晴らしいものがある。地域住民にとっては、極めて貴重な公園となり、地域の歴史を学び、誇りを持てる場所となっている。しかし、一方では、史跡としては際立つランドマークもないし、再現建造物も少なく、仕掛けも作られていないので、遠方からの多くの観光客を誘致するという力はないだろう。

 それと対照的なのは、平城宮跡だ。平城宮跡の現在計画されている復元工事が完成したとすれば、確かに朱雀門から大極殿までの大路は、きっと往時を髣髴させる外見は整うはずであり、圧巻の光景であろう。しかし、同時に書割的な違和感は拭えないだろうし、そのうち、より観光客をあつめるためにテーマパークと同様に各所で当時の風体でパフォーマンスも行うようになることは想像に難くない。

 それでは、遺跡保全整備や観光利用はどのように考え、史跡、遺跡をどのように再建、復元していくべきなのかだろうか。

 これは、地域住民がその史跡・遺跡に何を望んでいるかと、保護保全と観光資源としての活用の持続性がどう担保されるかどうかの2点だろう。例えば、ランドマーク性と経済性があれば、それでよし、とするのか、それとも、より文化財保護の観点を重点に置いたうえで活用を考えるかであり、その中間もあろうが、地域住民の選択にかかっているともいえよう。

 ただ、重要なことはいずれの選択でも考古学、歴史学の研究成果や歴史的事実を軽んじ、現代社会に受け入れやすい歴史の一面を切り取っての「えせ」復元だけは避けるべきだろう。

 この観点を厳密に生かそうと思えば、本来は、国として、地域としてシンボル性の高いもの、歴史教育的な意味合いがあるものを除き、多くの史跡・遺跡は、極力復元を避け史跡・遺跡公園の整備にとどめ、その代わりに資料館や研究機能を設け、ガイド機能、展示機能、学習機能を充実させることが一番よいのではないだろうか。建造物の復元より、資料館あるいは研究機能への資金投下に重点を置くべきであると思う。もし復元するとしても、徹底した原形復元を目指すべきであり、せめてどの時代の断面を切り取って再建したのかを明確にしておくべきである。

 こうした史跡・遺跡の保全整備の方が長期的には、その歴史的価値を高め、一時のブームではなく、持続的な観光資源としても活用が可能となるのではないだろうか。

 遺跡・史跡はその特性、地域性によっては、シンボル性、ランドマーク性が国、地域にとって重要な意味を有する場合もあるだろう。しかし、こればかりに着目して、いつの時代のものかも不分明な城郭や建造物の建造、アミューズメントパークのような「えせ空間」の創出だけは避けるべきで、保全、活用の持続性を十分に配慮し、訪れた人々のロマンと想像力を奪わないようにしてもらいたいものだ。

 

引用・参考文献

筆者

典然

観光関係の調査研究機関をリタイヤして、気儘に日本中を旅するtourist。
「典然」視線で、折々の、所々の日本の佇まいを切り取り、カメラに収めることがライフワーク。「佇まい」という言葉が表す、単に建物や風景だけではない人間の暮らしや生業、そして、人びとの生き方を見つめている。

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