[Vol.35]「三川三様」

 日本の川は、大陸の大河と異なり、どの川も山岳地帯から海に一気に流れ出す急流だと言っても言い過ぎではない。李白の「孤帆の遠影碧空に尽き 唯だ見る長江の天際に流るるを」という揚子江を詠んだ漢詩のような大河は見当たらない。当然ながら、急流が多い日本の川は、芭蕉の名句「五月雨や流れてはやし最上川」そのものである。

 大陸の大河であろうが、日本の急流のような川であろうが、それぞれに見合った自然を造形し、人間に恵みと災いをもたらす。そして、そこから生活様式や文化を生み出している。それゆえ、川はどの川にも個性があり、面白味はあるのだが、私が源流または源流近くから河口まで訪ねたことがある最上川、富士川、四万十川の三川について、それぞれの川の今昔や興味深い景観などを2ヵ所ずつあげて、書き留めてみた。

富山県黒部川欅平

〇最上川

 最上川は河川延長229km、日本では7番目に長く約400の支流を集める川だ。しかもそれが山形県一県に収まっている。山形県南西部、福島県との県境にある吾妻山系から流れ出し、置賜(おきたま)・村山・最上・庄内と県内をくまなく巡るようにして、県北の酒田市で日本海に流れ出ている。それだけに山形県民の愛着も深いし、歴史的にも、産業的にも文化的にも、そして生活面でも上、中、下流域で少しずつ係わり方は異なるが、密接に絡んでいる。また流域の景観は盆地を次々に縫い、吾妻、飯豊、蔵王、月山、鳥海等々東北の名山を仰ぎ、狭隘な谷を走り、広闊な平野部を経るため、様々態様を見せてくれる川だ。

1.飯豊の田園散居集落 

 最上川は米沢、山形の盆地を肥沃にしながら、飯豊に流れてくる。これらの地域は置賜地方と呼ばれるが、英国の女流探検家イザベラ・バードは明治初期にこの地を訪れ、「まさしくエデンの園である。『鋤の代わりに鉛筆で耕したかのよう』であり…中略…晴れやかにして豊穣なる大地であり、アジアのアルカディア(桃源郷)である」と評している。

 最上川は飯豊連峰を源流とする白川と飯豊で出合う。ここでも白川が飯豊連峰から流れ出る時に創り出す扇状地と地味豊かな土壌が豊潤な水田地帯を形成する。ただ、かつては扇状地特有の保水力の乏しさ、冬の豪雪、強い季節風、夏の高温多湿など厳しい制約に悩まされた。近世以降、農業技術の発展とともに、この地は豊かな田園地帯となったが、この厳しい環境から生産活動、生活を守るため、防雪林としての屋敷林が発達した。

 飯豊の景観の美しさは、近世から続く水田地帯と点在する屋敷林の対比だ。とくに水が張られた田んぼに屋敷林が映る春先、新緑の田んぼにプロットしたように濃い緑の屋敷林が美しい初夏、そして稲刈り前の田んぼとこんもりとした深い緑の屋敷林のコントラストが見事な初秋など、四季折々に趣の違う美しさをみせる。

飯豊町どんでん平ユリ園近く

 散居集落は富山県の砺波平野が有名であるが、広がりや規模では譲るものの、飯豊は都市化が砺波ほど進んでおらず、最上川や支流の白川が形作った盆地状の平野を江戸時代から丹念に水田地帯として沃野に育んできた様子を垣間見ることができる。この景観を眺望するためには「ホトケヤマ農村公園」に隣接する「散居集落展望台」または「どんでんユリ園展望台」が良い。しかし、「ホトケヤマ農村公園」や「散居集落展望台」は地元の観光客誘致の力が尽きたのか、荒れ方がかなりひどい。おそらく、従来の周遊型の観光客を意識して整備しようとしたので長続きをしなかったのかもしれない。

 散居集落の良さは、確かにその俯瞰的景観にあるのだが、本当の良さは、その景観だけではなく、集落のなかを歩いたり、あるいは、滞在してみたりすることによってわかるのではないだろうか。たとえば、屋敷林は、展望台からみればこんもりとした美しい緑の森のようにしか見えないが、集落を歩いてみれば、そこには屋敷があり、生活が営まれ、まさに日本の水田地帯の原風景がみられる。そして、見下ろす景観ではなく田んぼから見上げる屋敷林、また、その先に広がる田んぼ、遠くにみえる屋敷林の景観など散策の興味はつきない。

 しかし一方で、歩いてみると、世相を反映し、人口減や高齢化の進んでおり、空き屋敷や農地からの利用転換などが目立ちつつある。それに伴い屋敷林の維持が困難になっているところも見受けられる。散居集落の景観は水田耕作という生産活動と密接につながっており、農業生産という活動がこの地で衰退すれば、間違いなく近世から営々と築き上げてきた、この美しい景観は失われることになろう。もちろん、地元でも、いろいろな試みはなされているようだが、なんとか、この地の良さを周遊観光ではなく、長期滞在、滞留型の観光客を呼び込み、これまでの農業生産活動に加え、次の世代の再生産活動の場をつくれないものだろうか。いまの日本の「田舎」に与えられてしまっている大きな宿題なのだと思わざるをえない。

2.出羽大橋と山居倉庫

 最上川の最下流、河口に一番近い橋は、国道112号線に架かる出羽大橋だ。酒田駅からは南へ約3㎞、酒田の観光スポットである山居倉庫からは南へ約1㎞、この橋からの眺望は、庄内平野が大らかに広がり、上流を見やると月山、北には鳥海山の2つの名山を遠望し、そして下流は酒田の港や工業地帯を見渡すことができる。360度、見飽きることはない。国道の橋なので車は駐車できず、山居倉庫からは高い土手に向かって上る形になるものの、散策がてらの徒歩またはレンタサイクルで行くことをお勧めしたい。できれば、さらに橋を渡って、緑の多い公園に囲まれた東北公益文化大学や日本を代表する写真家土門拳の記念館を訪ねるとよい。

酒田市出羽大橋から上流眺望

山形県酒田市土門拳記念館

 この橋の中央部に立つと、江戸時代には、気候としては厳しい面もあるが、最上川をはじめ周囲の美しい山々から流れ出る川によって、庄内平野に肥沃な土壌や清冽な水がもたらされ、日本有数の穀倉地帯になったことを実感できる。さらに中流域の特産品や庄内の米が最上川の舟運によってこの地に集積され、やがて北前船で全国に回漕されていたという地理的な位置関係が手に取るようにわかる。

六十余州名所図会 出羽・最上川月山遠望 広重 大日本六十余州名勝図会 国立国会図書館デジタルコレクション

 井原西鶴は「日本永代蔵」で、当時の酒田の様子や当地の商人「鐙屋」について、「北國の雪竿毎年一丈三尺降らぬといふ事なし。神無月の初めより山道を埋み、人馬の通ひ絶」えるほどだが、「世に船程重寳なる物はなし。爰に坂田の町に鐙屋といへる大問屋住みけるが、昔は纔(わずか)なる人宿せしに、其の身才覺にて近年次第に家榮へ、諸國の客を引請け、北の國一番の米の買入」をしていたと、集散地としての繁盛ぶりを描いている。このような酒田の繁栄は、出羽大橋から眺められるこの地勢がバックボーンとなって生まれたことがこの橋に立てば理解できよう。

 こうした酒田の町の役割も1903(明治36)年の奥羽本線の開通により舟運は急激に衰え変わらざるを得なくなるが、その集散地としての最終盤に登場したのが山居倉庫であった。最上川の川筋とは異なる新井田川沿いに位置する。この新井田川は最上川の河口近くで酒田港に一緒になって流れ込む形となっている。

 幕末から明治にかけて、米の流通制度の変更や海運から鉄路を中心とした陸路の物流へと変遷していったため、それに応じ旧庄内藩の藩主酒井家が中心となり酒田米穀取引所を設立し、山居倉庫はその付属施設として1893(明治26)年に建設された。昭和初期には最盛期を迎えたものの、その後、徐々に主要な役割を終えていく。山居倉庫は江戸期の米集散地としての役割を一旦は引き継いだが、時代の流れのなかに埋没していったといえよう。

 現在は土蔵造り12棟(一部倉庫として現役)が並び、倉庫前の船寄(ふなよせ)などに往時を偲ばせ、酒田観光の主要施設として人気を集めている。とくに倉庫裏のケヤキ並木は良い。新緑、深緑、そして紅葉と、木々の色合いだけでも見応えがあり、もっとも目を引くのはそれぞれの季節の木洩れ日だ。倉庫の木造の外壁に映る木洩れ日と葉影の揺らぎは見飽きることはない。このケヤキ並木は、夏に倉庫の高温多湿を防ぐ役割もあると聞き、さらにこの景観の素晴らしさに感じ入る。

酒田市山居倉庫

酒田市山居倉庫と新井田川

 ただ、残念なのは、新井田川沿いの街並みや旧本間邸本邸などの市の中心部の歴史的な施設へたどる周遊路に風情がないことだ。酒田市全体としても、地元の人々の尽力で、点としての観光資源に観るべきものは多いが、面は無理にしてもせめて線として資源をつなぐ方法をもう一歩考えてみる必要があろう。

〇富士川

 太宰治は甲府盆地あるいは甲府の町を「シルクハットを倒(さか)さまにして、その帽子の底に、小さい小さい旗を立てた」と譬えたが、富士川はその帽子の底に足の短いYの字を描いているといって良い。Yの字の右肩が釜無川で、その源は長野県との県境の南アルプスに発し、八ヶ岳の裾野に峡谷をつくり、左手に七里岩を見ながら甲府盆地に向かう。一方、Yの字の左肩の笛吹川は秩父山地を水源として、盆地に出ると流域の丘や野に果樹園を抱えつつ南西に下っていく。そして、鰍沢付近で合流し、富士川となる。その先は再び、山間渓谷部に入り、それを抜けると駿河湾に注ぐ。釜無川源流からの駿河湾の河口まで総延長128kmで、標高差は2千数百m、まさしく急流と言って良いだろう。それだけにいろいろなドラマを生むが、ふたつほど取り上げてみたい。

士川の源流のひとつ、荒川の昇仙峡仙娥滝

1.御勅使(みだい)川と信玄堤

 甲府の中心街から西に向かう国道52号線は郊外に出ると右に折れるが、南アルプスの登山口となる芦安方面にそのまま直進すれば、釜無川に架る信玄橋に辿り着く。橋を渡る手前を右折すると、信玄堤公園が土手に沿って細長く続く。この公園は、戦国時代の武将武田信玄が甲府盆地を水害から守るために築いた堤で、いろいろな治水の仕掛けを目の当たりにできるところである。

笛吹市八代ふるさと公園から甲府盆地と南アルプスを眺望

 甲府盆地の南部は、富士川となる源流の釜無川や最大の支流笛吹川を中心に、周囲の急峻な山々から流れ出る数々の支流による氾濫原となっていた。古くから治水の試みは行われてきたが、戦国の武将、武田信玄による築堤や分流、還流などの土木工事、植樹、祖税免除などにより、生活の安定、氾濫原の利用などが進んだとされている。

 江戸後期の「甲斐国志」でも「本州処々ニテ信玄堤卜稱スルハ皆武田氏領國ノ時所築卜云就中此筋ハ古ヨリ水菑(災)多キガ故堤防完固ナリシニヤ 今二其形ヲ存シ其名ヲ傳ヘタル所少ナカラズ」としている。御勅使川、釜無川のみならず、笛吹川、荒川など多くの支流でもこの治水対策が武田信玄の時代から、近世、近現代に至るまで、営々と続けられている

 とくに鳳凰三山を源流とし、信玄堤公園のすぐ上流に合流点がある御勅使川は、普段は川の水は伏流していることが多いが、「甲斐国志」によれば「河灘ノ廣壹里餘ナルへシ常時ハ水至リテ少ナク跳テ越ユベケレドモ大雨ニハ暴漲シテ雨涘ノ間牛馬ヲ辨ゼザル程ナリ且ツ地形陵夷ニシテ水勢甚ダ迅急ナル故決水アル毎ニ砂石ヲ流下〆耕地ノ害ヲナスコト甚シ」と、一旦大雨が降ると、川筋が変化し、激烈な水害ももたらして釜無川と合わせ常に氾濫を起こしたという。このため、信玄堤をはじめ多くの治水対策が行われたといえよう。この公園は、その中世以来の治水対策の様子を窺い知ることができる場所のひとつである。

勅使川扇状地3D地図(国土地理院)より作成

 信玄堤のもうひとつの見どころは、山の景観が素晴らしいことだ。前面に、右から甲斐駒ヶ岳、鳳凰三山やその前衛、左手奥に農鳥岳、そしてさらに、その南には、櫛形山がその名の通りの姿をゆったりと見せてくれる。さらに信玄橋の橋上からは南東に、御坂山塊越しの富士山が、また、釜無川の上流方向、正面には八ヶ岳が雄姿を見せ、その右脇には、「ニセ八ッ」と呼ばれる茅ヶ岳がそれらしい姿で並ぶ。

市川三郷町碑林公園から甲府盆地越しに八ヶ岳と茅が岳

 また、鳳凰三山の前衛が切れ、農鳥岳が覗く裾野あたりが御勅使川扇状地の要となり、大きく扇を開き、こちらに向かってくる景観も面白い。ただ、かつてはこの扇状地あるいはその裾の辺りは、果樹園が少し広がっているだけで、典型的な扇状地の姿が遠望できたが、いまは、果樹園や工業団地、商業地、住宅が建ち並び、その形状は不分明となってしまった。

 1950年代後半の頃、この地を訪れた幼い私の目に映ったのは、南アルプスの裾からまさに白っぽい大きな扇が雄大に広げられているといったものだった。この印象は、江戸中期の儒学者、荻生徂徠の「峡中紀行」でも「三勅使之川、川流雖不甚漲、獨長皐之彌望、白砂湧銀、夕陽映之、明月借之、此其奇観」(御勅使川は川の流れは溢れんばかりに激しいばかりではなく、水際が長くこれを広く望める。白砂で銀が湧き、これが夕日に映え、これを明月が借りる。これこそ奇観だ)と記しているところを見ると、江戸時代も同様の景観だったことが窺い知れる。

 なお、この信玄堤公園は、春はサクラ、秋は紅葉が美しい。ただ、私の好みで言えば、びゅんびゅんと「八ヶ岳おろし」が吹く快晴の冬の日だ。風が痛いほど寒く長時間はいられないが、山の景観は殊更美しい。

2.身延詣と富士川舟運

 古典落語として知られている「鰍沢」は身延詣への途上の話で、オチでは「お題目」と「材木」を掛けている。また、「甲府ぃ」という落語でも、身延詣がオチに使われている。豆腐屋の売り声の「豆腐 胡麻入り がんもどき」に掛け、「甲府ぃ お参り 願ほどき」がオチになっている。

 江戸期から明治にかけて江戸の庶民にとっては、いかに身延詣が当たり前のことであったことがわかる。この身延詣の道筋は、東海道側からは、興津宿(現・静岡市興津)から入り、現在の国道52号線に沿って甲州に入境し、富士川を遡行して身延山に向かう。甲府側からは、2コースあり、ひとつは、甲府から南に向かい市川大門(現・市川三郷町)経由で富士川の東岸を下り、西島(現・富士川町)というところで西岸に渡り、そのまま南下するコースである。もうひとつは、甲府から、一旦南西に向かい旧・若草町(現・南アルプス市)あたりで、釜無川を西岸に渡り、そのまま南下するコースであった。

 甲府側からの2つのコースの結節点であり、船着場となっていたのが、西島より手前の西岸、甲府盆地の南の際にある鰍沢宿(現富士川町、東岸は旧黒沢村・現市川三郷町)である。「甲斐国志」では「古時傳遞(伝逓)ハ府中ヨリ三里半ニシテ市川大門宿又三里半ニシテ巖間宿 慶長以後富士川ノ通船開ケテ便道ナレハ西郡鰍澤宿へ遞(逓)送ス…中略…鰍澤、黒澤二村川ヲ夾ミ各々口留番所(天領や諸藩などが他領と接する交通の要衝にある見張所)アリ」としてここが国中(甲府盆地)と河内領(戦国時代には穴山氏が支配)との境であり、ここから先、富士川の急流に沿って駿河まで南下するため河内路(かわちじ)とも身延道ともいわれていた。

 身延詣が盛んであった江戸期には、参詣客は鰍沢で舟に乗り、身延山を参詣し、身延からさらに舟で東海道の岩淵宿(吉原宿・蒲原宿の間の宿)まで下ったという。これは十返舎一九の「諸国道中金の草鞋 身延山道中之記」に記されている。鰍沢は「よきまち(町)にてやど(宿)やもよし 此の所よりみのぶ(身延)へののり合のふね(舟)あり」とし、「法花経(法華経)をよむ鶯のまづさく梅ぞ かじかざハ(鰍沢)にハ」、あるいは「漕ぎつけて祖師のちかひ(誓い)をとなへ(唱え)ばや 法(のり)の舟なる鰍沢とぞ」と、「法華経」と「鶯の鳴き声」あるいは「仏法」と「乗り合い」を掛けた狂歌も添えている。

 さらに「みのぶ(身延)より東海どう(道)のふじ(富士)川へいづる舟ぢ(船路)あり…中略…ふねハさかおとし(坂落とし)にて、こぐ(漕ぐ)といふことなく、ながる(流る)るにしたがひてかぢ(舵)をとり、一人のせんどう(船頭)、さお(棹)をもちてふねのへさき(舳先)にたち、川なかへさし出たる岩どもにさお(棹)をあててふね(舟)のあたらざるやうにいわ(岩)をよけて、ふね(舟)をじゆう(自由)にまはす(回す)」と、巧みな操船のようだったが、それでも水の勢いは矢のようで、舟がひっくり返りそうな思いをしたと、その急流ぶりを描いている。

諸国道中金の草鞋. 12十返舎一九 国立国会図書館デジタルコレクション

 こうした難路もめげずに、近世に入ると、10月13日のお会式を中心に多くの信者が訪れたという。明治に入り、東海道本線が1889(明治22)年に、中央本線が1903(明治36)年に開通し、そして身延線が大正期に入り順次延伸し、1928(昭和3)年に全線開通すると、富士川舟運はその役割が完全になくなった。

 そんな富士川舟運が通った川筋を見るのに一番良いのは、身延山久遠寺の奥之院にある東展望台だ。この奥の院からの眺望については、江戸中期に書かれた「身延鑑」には「大聖人(日蓮)毎日この峯にのぼり、天下の御きとう(祈祷)、佛法流布をいのりたもふ也、またこの峯より房州小みなと(小湊)の浦見へ侍るゆへ両親の御はか(墓)をおがみたもふと也。まことにこの峯よりハ田子乃入海(田子の浦)、三保の松バら(原)、しづはた(静岡の賎機)山、清見ヶせき(興津の清見ヶ関)、伊豆、駿河名所名所残りなく見へ侍り」とし、北には甲府の城下、新善光寺(甲州善光寺)、天目山、塩の山、さしでガ磯(差出の磯、現在の山梨市)まで、見えると、大幅に誇張して記されている。あるいは七面山からの眺望とも考えられるものの、それでも誇張されてはいるが、確かにこの展望台からの眺望が良いことには間違いない。また、ここでは触れられていないが、真東には富士川の対岸に天子山塊が連なり、その山塊越しに富士山が大きく峻厳な顔を覗かせている。

久遠寺奥之院東展望台から富士山を望む

 この眺望の良さは、富士川の川筋が切り込んだ谷によって生み出されていると言ってよかろう。とくに南に向けては大きな蛇行はないが、山々を遥か彼方までジグザクに浸蝕する姿を見せ、南南西の静岡県境方面からは波木井川が北流して富士川に合する谷あいもあり、南に向けて2方向に空が開けているように感じられる。一方、東側の足下は、対岸に波高島、波木井の集落が見える。この「波」のつく地名の所は、すぐ上流で南アルプスの最高峰北岳(標高3,193 m)付近から一挙に流れ降りてくる早川の合流点であり、富士川がよく暴れる場所であったことを示している。その対岸を心細そうに単線の身延線が走っているのも見え、ここはまさに富士川の荒々しさをそしてダイナミズムを見渡すことができる場所だ。

富士川の眺望(身延山奥之院から下流方向)

富士川の眺望(身延山奥之院から)

 富士川は、フォッサマグナの西縁、糸魚川―静岡構造線に沿う形で流れているせいか、とくに早川、下部、身延などの南部中流域(峡南地方)では、川幅が狭まり、崩れやすい地質なため、甲府から静岡に抜ける国道52号線や身延線は土砂崩れなどの災害などでよく不通になる。また、有力な観光地、観光資源がある甲府盆地などの上流域と異なり、南部中流域の観光資源の多くは、山襞にひっそりと点在するものが多く、観光周遊としては決して条件は良くない。そのなかで現在、中部横断自動車道が全線開通するなど、徐々にアクセスは改善しつつあるので、これを自然環境に配慮しつつ、山襞に点在する観光資源とどう結び付けていくかが課題となるであろう。

〇四万十川

 ふと日本の川の源流から河口まで通しで巡ってみてみたい、と思い立ったものの、本格的な山登りは避けたいし、余り長大な川だと移動に疲れてしまうと考え、いろいろ探してみると四万十川に出合った。源流点なるものも明確なようであるし、幹川流路の延長も196㎞とまずまずの長さで流域はほぼほぼ高知県西部で、ダムがなく比較的な緩やかな流れのようだ。「最後の清流」というキャッチも良い。ということで数年前、源流から河口まで車や自転車で巡ってみた。そこで感じた四万十川の魅力は数多くあったが、その中から2ヵ所に絞って書き留めてみた。

1.源流点を歩く

 太平洋を望む須崎から国道197号線で、カワウソがしばらくぶりに発見されたという新荘川に沿って20数km、四国山地に分け入り、津野町に入る。このあたりの国道は、梼原(ゆすはら)街道と言われ、コースは諸説あるものの幕末に坂本龍馬の脱藩の道として知られている。途中、新荘川とは別れ布施坂トンネルを抜けたところで四万十川に出合い、それに沿うようにして、さらに県道で北に向かう。県道とは言うものの、山深く車の行き違いひとつをとっても県外ナンバーには難渋する道を数km走ると、やっと源流点に向かう林道となる。この林道の道幅はさらに狭く、くねくねと3㎞ほど慎重に走ると自動車はここまでで、源流点の案内板と記念の石碑が立つ。とくに駐車場はないが、道幅が若干ひろく取ってあるので、そこに車を置き、沢伝いに上り30分ほど(案内板に25分と記されている)を歩くことになる。

四万十川源流点入口

 私が訪れた際は、大型台風が高知県地方を2つほど通過したばかりで源流点までの道はかなり荒れており、標識も倒れたままの状態で木々に巻かれた目印の黄色いテープを頼りに歩かざるを得ない状態だった。しかし、その後、道もかなり整備され標識もしっかりと設けられたとのことだ。それでもトレッキング程度の足回り、動きやすい服装の準備はしたほうがよいだろう。

 私が登ったのは紅葉シーズンではあったが、道がまだ荒れていたせいか登りでも下りでも誰とも会うとことはなかった。鬱蒼とした樹林帯のなかを冷たく透き通った水が沢音も高く勢いよく流れ下っていく渓流に寄り添うように、台風で荒れ多少難渋する状態の山路をただただ遡行していくという感じであった。

 源流点は、私のイメージとは異なり、二手の小さな沢からの渓流が合流するところに「渡川(四万十川)の源流点」の標識が立っていた。「渡川」についてあとで確認してみると、四万十川は元々「渡川」と呼ばれており、1964(昭和39)年の河川法制定時には渡川水系渡川となっていたという。1980年代後半から日本最後の清流として「四万十川ブーム」が起り、1994(平成6) 年に渡川から四万十川へ変更され、法律上は「渡川水系四万十川」になったという。「四万十川」の名の由来については、上流部にある支流「四万川」と「十川」の河川名を併せたといわれるほか、「シ・マムタ(四万十)の流れでる地点」ともいわれ、この「シ・マタ」が「はなはだ美しい」というアイヌ語から由来している、などの諸説がある。

四万十川源流点

 源流点というと、私としてはちょろちょろと滴がたれるような流れの岩肌、あるいは、湧水池と想像を巡らせていたが、全く異なり勢いの良い渓流の合流点であった。しかし、その場に佇むと、渓流の音を除けば深閑として、まさに深い、深い森の中に取り残された自分を知ることになり、清浄な気持ちにさえしてくれる。

 そこで、ここが「不入山」(いらずやま 標高1,336m)の山腹標高900m余りのところだと思い返す。「不入山」の名は、江戸時代、土佐藩が森林資源を管理するために設けられ、地元民の利用に制限を掛けた「留山」に由来すると、観光案内には書かれており、それゆえ、自然林を守りながら植林も進んだとされている。

 これが山名の由来の定説と分かりつつも、源流点で佇んだ際の清浄な気持ちは何かそれ以上のものを感じさてくれたことから、山岳信仰とは関りがないのだろうかと想像を巡らしたくなった。

 「不入山」という山名自体、霊地の意味としても古くから使われていた。同じ高岡郡の「三間之川村」(現・津野町)に、江戸後期の地誌「南路志」によると「羽伊立明神 本村峯山ノ峠 無社従先年不入山」とあり、高知市の工石山も天狗伝説のある「不入山」だったという事例もある。

 また、源流のあるこの「不入山」は、かつては芳生野村(現・津野町)に属していたが、その村の大字名に荒神ノホキ(ホキは崖)、山神坊乙、権現ノ本があり、自然信仰との関連性も窺える。さらにこの「不入山」の隣には「葉山」「半山」という山名、地名もある。「葉山」「半山」ともに「端山」と同義で里方から見てもっと近い山岳信仰の対象となる山とされ、「葉山権現」などと称され全国各地にその名は残る。

 いずれも山岳信仰や在地の自然信仰を匂わすものはあるが、残念ながらこの源流の山「不入山」を山岳信仰と結びつける決定的なものではなさそうだ。

 ということで、結局は定説である江戸時代の「留山」に由来するというのが、もっとも適切であろうものの、天狗や山伏たちが山や沢、そして森を駆け巡っている「不入山」と想像して楽しみたい気持ちも残る源流の雰囲気であったことは事実だ。

 この源流点の近くの見どころを付け加えるとすれば、標高約1,000mの「葉山」の山頂付近には20基ほどの風力発電塔が立ち並び、なかなか未来的でシュールな美しさだ。しかも、大きな谷を挟んで、国内最大規模である石灰岩の露天掘りがなされている鳥形山を遠望でき、人間の営為としては必要とされるものではあるが、山頂までもが切り取れた姿は明らかに痛々しく考えさせられものがあった。

葉山風力発電所

2.半家沈下橋 

 四万十川を源流から河口まで辿るなら、当然、沈下橋をいくつか回ろうと、地図を見ているうち、四万十川の上中流を纏わりつくように走る予土線をみつけた。そこで予土線の気動車と沈下橋を一緒に写真に収めることができるポイントを探すことにした。

 実際に行ってみると、予土線は川沿いを走る場合は、大抵、河岸段丘などの上を走り、一方、当然のことながら、沈下橋は川面ギリギリに架けられるので、一緒に撮れそうなところが少ないことに気が付いた。地図をみながらいくつのポイントに絞り、撮影場所を求めるなかで、もっともイメージに近いのが、半家(はげ)地区にある2つある沈下橋だとあたりをつけた。

 この「半家」の名は、「平家の落人が源氏の追討ちから逃れるために『平』の一を下にずらして『半』とし、半家としたという説が地名の由来」だとされ、歴史のロマンを感じさせ期待を寄せたが、どうも地名の方は地理的な条件から由来するもので、全国的にも似たような用法があるというのだ。柳田国男の「地名の研究」では「谷川の両岸の山の狭まっている所をホキ・ホケ・ハケという」としており、おそらく、川が崖を「剥ぐ」あたりからきているのではないか、としている。漢字としては、「禿、波介、羽毛、端家、涯」などがあてられ、同じ高知県でも高岡郡波介村(現・土佐市)というのもあった。すこし、ロマンは薄れるが、地形的には確かにこの方がしっくりくるかもしれない。

 その半家には「中半家沈下橋」と「半家沈下橋」があるが、「中半家沈下橋」はどうも思うようにアングルがつかめない。そこで「半家沈下橋」で撮影ポイントをさがすため、国道381号線から沈下橋を渡って予土線の線路が走る対岸の半家天満宮へ向かう。地図をみながら半家天満宮から予土線に沿って、沈下橋が遠望できる場所を求め下流に歩き始めた。予土線の架橋の下をくぐり小規模な棚田の下の道を辿ると、高度も徐々に上がり振り向くと、予土線がゆるく曲がりながらこちらに向かうように登ってきて、その向こうに半家沈下橋が遠望するという構図を見つけることができた。

 しばらく待つと、白とブルーの一両編成の気動車がエンジンの音を高めながら登ってきた。やっと、イメージ通りの写真を撮ることができた。もっとも後日、インターネットで確認するとこの構図の写真がきっちり掲載されており、やはり本物の撮り鉄には敵わない。

JR予土線と四万十川半家沈下橋

 河岸の半家天満宮に戻り、境内に立つと小さな石鳥居の枠のなかに沈下橋が入るような構図になっていることに気づいた。この構図も沈下橋を撮っている写真愛好家の中では有名なようで、もっともよいシャッターチャンスは、秋祭り(例年11月8日)の際に神輿とお浄め役の牛鬼が沈下橋を渡御する場面ということであった。しかし、のんびり宅配便の小型トラックが渡っていく姿を撮るのも日常性が表現できて悪くないとも思った。沈下橋はこののどかさが良い。

半家天満宮と沈下橋

半家沈下橋

 四万十川の良いところは、目が覚めるような絶景は少ないが、日本の昔からの営みと自然がさりげなく共存している、半家のような景観がそこここにあることかもしれない。それゆえ数多くの観光客に訪れてもらいたいが、時間的にも人的にも集中せずに、ゆったりのんびりと時間を過ごす四万十川の旅であってほしいとも思う。

 

引用・参考文献

筆者

典然

観光関係の調査研究機関をリタイヤして、気儘に日本中を旅するtourist。
「典然」視線で、折々の、所々の日本の佇まいを切り取り、カメラに収めることがライフワーク。「佇まい」という言葉が表す、単に建物や風景だけではない人間の暮らしや生業、そして、人びとの生き方を見つめている。

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