山形県の北部にある肘折温泉の温泉街に入ると、昔懐かしい感じがする。狭い道の両側にそれほど大きくない旅館が20軒ほど肩を寄せ合うように建ち並び、その間には、お土産屋などの店がいまでもきちんと開いている。温泉街の奥には豆腐屋もある。そして、真ん中あたりに木造の元郵便局が保存され、すぐ向かいには共同浴場があって、その裏手の高台は温泉神社だ。温泉街を抜けたあたりに源泉がいくつか白い煙を上げている。温泉街では自炊湯治客用ということで始まった朝市も開かれ、浴衣姿の宿泊客がそぞろ歩く。一定の年齢に達した世代にとっては、まさにこれが「情緒あふれる温泉地・温泉街」の景観であり、空間である。
肘折温泉の開湯の歴史は極めて古く、中世から近世にかけては湯治場として、そして、葉山や月山への登拝客の登山口として賑わい、そのなかで、江戸時代から地元の人々が肘折三十六人衆として温泉使用権を守ってきた。その結束はいまも続き、宿屋、お土産屋、その他温泉地に関連する商売を互いに尊重してきた結果、稀有ともいえる温泉街が奇跡的に残ったという。それに付け加えるなら、近代に入ってからは、大都市から遠く離れ、交通の便も必ずしも良くなかったこともその要因になるかもしれない。
いま、全国の温泉地を見ていると、バブル経済の崩壊後、栄枯盛衰が極端に現れ、従来の温泉街や旅館という意味では、衰退傾向にあると言って良いだろう。もちろん、新しい形態の宿泊施設や温泉リゾートでの新しい過ごし方を提案する中で復活を遂げようとしているところやインバウンドによる宿泊需要が高まり、これをうまくキャッチしている温泉地はあるものの、温泉地の宿泊施設は全体としては減少しており、経営形態も家業としての旅館が減り、チェーンやファンドによる、その地域にとっての外部資本の経営が目立つようになっている。
そのなかで、地域の活性化のツールとして、かつての温泉街、あるいは温泉地の雰囲気を取り戻そうという動きが数多くの温泉地でみられる。日本人観光客はもとより、外国人観光客も肘折温泉のような極めて日本的な鄙びた「情緒あふれる温泉地・温泉街」を求めていることも事実だ。
しかし、その取り戻そうとしている「情緒あふれる温泉地・温泉街」というのは、そのイメージばかりでなく、地域の地縁的、血縁的なつながりや生業のあり方を含めた地域の構造があって、はじめて成り立つたのではないだろうか。それでは、こうした地域の構造は、いつ頃造り上がられたのだろうか。
歴史ある温泉地の開湯伝説には、鹿など動物はもとより、行基、弘法大師などが登場することが多いが、宿など施設が整備された湯治などが一般化するのは江戸時代だろう。その江戸時代にせよ、よほどの名湯や御殿湯でない限り、わざわざ遠路から足を運ぶという温泉地は少なく、大半の温泉地は、近隣の農閑期の湯治、保養や巡礼、登拝の浄め、骨休めのためのものであった。肘折温泉もその性格が強かった。ただ、江戸中期以降では宿場町と同様、湯女など歓楽的な要素がより大きくなってきた温泉地も少なからずみられるようになるが、それでも、やはり大半の温泉地は長期滞在型の湯治、保養が中心であった。
江戸後期、明治に入り、都市中間層の登場により、徐々に行楽、娯楽性が高まり、いま、われわれがイメージしている「情緒あふれる温泉地・温泉街」は、関連する生業の広がりとともに、この時期に誕生したのではなかろうか。そして、明治になって、西洋から持ち込まれた避暑、避寒などの別荘地としてのリゾート開発があり、さらに交通インフラの整備によって、都市中間層の需要に応えられるようになり、近代的で「情緒あふれる温泉地・温泉街」としての地域の構造が昭和初期までに完成されたと考えられる。
こうした、われわれがイメージする近代的で「情緒あふれる温泉地・温泉街」といえば、西では、道後温泉、城崎温泉、有馬温泉であり、東で言えば、伊香保温泉、草津温泉、塩原温泉などがあげられるであろう。
江戸後期から明治期の文豪たちの作品を読んでいると、これらの温泉を含め、温泉地を舞台としたものに出合うことが多い。あるいは、実際、温泉地をたびたび訪れ、保養や療養で長期滞在したり、作品を執筆したりもしている。その文豪たちが、われわれがイメージする近代的で「温泉情緒あふれる温泉地・温泉街」としての地域の構造が出来上がっていく姿をどのように見ていたのか、どのように描いていたのだろうか、日本の温泉地の行く末を考えるのに興味深い材料となるのではないか、と思い立ち、すこしばかり拾い読みをしてみた。
〇道後、城崎、有馬
明治中期で温泉が舞台の一つとなる小説といえば、夏目漱石の「坊ちゃん」をあげることができる。舞台はもちろん道後温泉だが、「この住田と云う所は温泉のある町で城下から汽車だと十分ばかり、歩いて三十分で行かれる、料理屋も温泉宿も、公園もある上に遊廓がある」と描写し、さらに「温泉は三階の新築で上等は浴衣をかして、流しをつけて八銭で済む。…中略… 湯壺は花崗石を畳み上げて、十五畳敷ぐらいの広さに仕切ってある」と共同浴場を中心とした温泉街の様子を描いている。道後温泉は江戸前期から、松山藩が共同浴場を整備し、お遍路も受け入れていたので、早くから温泉地として共同浴場=総湯や歓楽街を備えていたが、「坊ちゃん」が上梓された1906(明治39)年の時点では、さらに、集落の都市化が進み、交通インフラや歓楽、娯楽機能が充実し、旅館の内湯はまだない(内湯は1956⦅昭和31⦆年から)ものの、今のイメージに近い近代的な「情緒あふれる温泉地・温泉街」として出来上がっていたことが分かる。
同様に城崎温泉も1910(明治43)年に刊行された大町桂月の紀行文「城崎の七日」から同様のことが読み取れる。この前年には、城崎-豊岡間に鉄道が開通し、山陽方面に接続され、1912(明治45)年には山陰本線も開通し、京都、大阪方面にも直接連絡されるようになり、交通アクセスが格段に向上している。
この紀行文の中で大町は「關東にては草津、畿内にては有馬、四國にては道後、北陸にては山中、中國にては城崎、これ古来天下に名を馳せたる温泉塲也。草津には、總湯もあれば、内湯もあり。關東に多きが、總湯の無き處はありとも、内湯の無き處は無し。有馬や、道後や、山中や城崎や、皆唯總湯ありて、内湯は無し。即ち宿屋には浴湯が無くして共同浴場が別にある也」として、当時の有名温泉における共同浴場=総湯と内湯のあり方が地域、温泉地によって異なっていることを指摘し、城崎温泉は、明治中期には一時衰退したこともあったが、共同浴場=総湯を中心とする温泉街が維持され(内湯は1950⦅昭和25⦆年から正式に導入)、大町のこの紀行文が執筆された明治末頃までには人気が回復していたことを示している。
城崎温泉の外湯については、泉鏡花は1926(大正15)年の「城崎を憶ふ」で「景勝愉樂の郷にして、内湯のないのを遺憾とす、と云ふ、贅澤なのもあるけれども、何、青天井、いや、滴る青葉の雫の中なる廊下續きだと思へば、渡つて通る橋にも、川にも、細々とからくりがなく洒張りして一層好い」と鷹揚に評している。
また、「盛饌出づ。やがて、唐紙を隔てて、管絃の聲起る」と大町桂月は歓楽的要素も備えていたことも記述している。さらに、温泉寺や極楽寺などについて大町は来歴や境内の様子を詳しく描写しており、これらの仏閣が温泉地滞在の要素として重要な役割を果たしていることも示している。温泉周辺においても東山公園、玄武洞や日和山などの散策路や周遊船が整備されており、大町もその周遊について丁寧に触れていることから、広域で温泉を中心とした近代的な「温泉情緒あふれる温泉地・温泉街」の構造が出来上がっていたことも分かる。
さらに、1922(大正11)年の志賀直哉の「暗夜行路」では、「俥で見て来た町の如何にも温泉場らしい情緒が彼を楽しませた。高瀬川のような浅い流れが町の真中を貫いている。その両側に細い千本格子のはまった、二階三階の湯宿が軒を並べ、眺めはむしろ曲輪(くるわ)の趣きに近かった。又温泉場としては珍らしく清潔な感じも彼を喜ばした。一の湯というあたりから細い路を入って行くと、桑木細工、麦藁細工、出石焼、そういう店々が続いた。殊に麦藁を開いて貼った細工物が明るい電灯の下に美しく見えた」と描写しており、まさに、われわれがイメージする「情緒あふれる温泉地・温泉街」の構造が地域のなかで揃っている。
道後温泉も城崎温泉も、歴史を振り返れば浮き沈みはあったが、有馬温泉はそれ以上のものがあったかもしれない。
有馬温泉は、古代からその存在を知られる温泉で、豊臣秀吉をはじめ、江戸時代を通じても支配層・富裕層の保養地でもあり、湯治場であった。江戸初期には40軒の宿があったといわれるが、災害などにより衰退したこともあったようだ。江戸後期には泉温の低下、飢饉や大火のため、戸数が半減したというのだから、明治の初期は盛業であったとは言い難い。
幸田露伴は1893(明治26)年の「枕頭山水 まき筆日記」で、当時の有馬温泉へのアクセスについて、官営鉄道(現在のJR東海道本線)の住吉駅で「此所より有馬へは三里に足らぬところなれど打ち仰ぐばかりの山を望みて上ることなれば…中略…二挺の駕籠を連ねて」長閑に進むことになるが「眺望の興少からず、此悪路をば徒歩にてならば喉の渇き涸るゝに悲しみ汗の沸き流るゝに恨みて楽し氣も」ないと記している。当時は、住吉駅から徒歩または駕籠で六甲越えをしており、外国人居留民も清涼な六甲山を避暑地として利用するため、このルートを利用した。
「元来有馬は行基の開きし以来世に聞こえたる温泉場なれど今に尚戸々に浴室あるに至らで所謂『坊』と稱ふる二十の客舎其他の亭より下婢に浴衣を持たせなどして沸き出づる地に建てられたる一堂に就き浴するなれば、さまで闊からざる湯槽の中ハ混閙して男の手の触れしに驚く處女もあれば眞の病者に近づかれて氣味わるげに避くる壮夫」といった共同浴場(元湯)だったと描写しており、「近きあたりを見めぐりしに、温泉寺藥師温泉神社など別にこれというふべきこともなし」と温泉地として重要な行楽的要素についても、アクセスとともにあまり評判は芳しくない。
1883(明治16)年に温泉浴場(元湯あるいは本温泉)を洋風に改築したり、1899年(明治32年)には「六甲山鳴動」と呼ばれる地震で、源泉の温度が上昇したりして、温泉地として復活を目指し整備は続けられてはいた。
しかし、1913(大正2)年に発表された夏目漱石の「行人」でも、主人公が東京から来た母親や兄夫婦を有馬温泉に連れて行こうとしたところ、有馬温泉へのアクセスについて「車夫が梶棒へ綱を付けて、その綱の先をまた犬に付けて坂路を上るのだそうだが、暑いので犬がともすると渓河の清水を飲もうとするのを、車夫が怒って竹の棒でむやみに打擲くから、犬がひんひん苦しがりながら俥引くんだという話を、かつて聞いたまましゃべった。『厭だねそんな俥に乗るのは、可哀想で』と母が眉をひそめた」ため、結局、有馬温泉に行かずに新和歌の浦に行くというストーリーになっている。このアクセスの改善は1915(大正4)年の有馬鉄道開通まで待つ必要があった。
有馬温泉は、その後、地元の絶え間ない努力のなか、温泉地としての近代的な地域の構造が形成されていったが、急激に発展したのは、1950(昭和25)年以降に天神泉源、極楽泉源、妬(うわなり)泉源などが出来、各旅館が内湯となったころからだろう。
次回は、明治・大正期の文豪が、関東の伊香保、草津、塩原をどう描いたか、そして、それらをもとに温泉地のこれからについて少し触れてみたい。
引用・参考文献
- *夏目漱石 「ぼっちゃん」『夏目漱石全集・122作品』1906年(Kindle版)
- *大町桂月 「城崎の七日」『ちび筆』1910年 至誠堂(国立国会図書館デジタルコレクション)
- *泉 鏡花 「城崎を憶ふ」『泉鏡花大全』(Kindle版)
- *志賀直哉 「暗夜行路」1991~22年 新潮社 新潮文庫(2014年版)
- *幸田露伴 「枕頭山水 ちび筆日記」1893年 博文館(国立国会図書館デジタルコレクション)
- *夏目漱石 「行人」『夏目漱石全集・122作品』1913年(Kindle版)
- *下村彰男 「近代における温泉地空間構造の変遷に関する考察」1993年 造園雑誌56