前回は、西の有力な温泉地である、道後、城崎、有馬について触れたが、今回は、関東の伊香保、草津、塩原を文豪たちがどう描いたかを見てみたい。
〇伊香保、草津、塩原
関東の伊香保温泉は、江戸後期から第2次世界大戦前まで、温泉地としての近代的な「温泉情緒あふれる温泉地・温泉街」の形成に向け、典型的なプロセスをたどったと思われる。
田山花袋の「伊香保案内」(初版1918⦅大正7⦆年)は、1910(明治43)年に伊香保までの鉄道が開通したこともあり、温泉組合のプロモーションとして、その求めに応じて書かれたガイドブック的な要素が強い紀行文であるため、当時の伊香保の様子を詳細に記している。
まず、「前橋から來ても、高崎から來ても、伊香保に行く人は此處(澁川)で伊香保行の電車に乗ることに」なり、それまで「旅客は此處から車で二里餘の高い長い大きな阪を上つて行かなければならなかつた」ので、いかにアクセスが便利になったかを記している。さらに、「伊香保の町は特色のある町」として「湯が上から湧き出す」ため、丘の上から下に鉄管を通じて温泉を配っているので、どの旅館からも眺望が良いとしている。また、「石段が石段に重なつて續いて行つてゐる。伊香保名物を賣る店だの、矢小屋だの、旅館だの、料理店だのが、ゴタゴタと重なり合つて見えてゐる。そしてその奥に伊香保神社のある丘が聳えている」と「温泉情緒あふれる温泉地・温泉街」の構成要素がすべて揃っていることを強調している。さらに当時、「旅館は數十軒」で貸座敷営業が17軒あり、娼妓も30人いるとも書いている。
同時期に書かれた島崎藤村の「伊香保 土産」でも、この伊香保は「昔の人はこゝに神佛禮拜の靈場を結びつけ、今の人はスキイ場なぞの娯樂と運動の機關を結び」つけ、新旧をうまく「同棲」させていると評している。そして、「二百年も以前から代々この地にあつて湯宿を營むこと」の誇りと「近代的なケエブル・カアの設備やその大仕掛な電氣事業」とまでもが不思議にも調和させていて、それが「温泉の徳」だと書き添え、さらに近代的な温泉地の構造が造り上げられていることを描写している。
一方で、同じ関東の草津温泉は、極めて開湯が古く、現在では、もっとも人気のある温泉のひとつではあるが、有馬温泉と同様、近代的な温泉地としての地域構造の形成という点で時間を要したことは、文豪たちの筆致からも分かる。
草津温泉にはいろいろな開湯伝説があるが、室町時代の初期には、万病に効能のある霊泉としてすでに全国にその名は知られていた。江戸時代になると天領となり、関東最大の湯治場として発展し、十返舎一九の「上州草津温泉道中続膝栗毛十篇下」で「寔に海内無双の灵(霊)湯にして諸病に驗ある事普く人のしるところなれば 遠近の旅客こゝに入り集ひて 湯宿の繁昌いふばかなりなく、中にも湯本安兵衛、黒岩忠右衛門などことに家居花麗を尽くし 風流の貴客絶えず」と書いているほどだった。
ところが、草津温泉は、明治に入り、1869(明治2)年、1903(明治36)年、1908(明治41)年と3度の大火に遭い、とくに1869(明治2)年の大火は被害が大きく、江戸時代から続く宿屋は、1軒を残しすべて経営主体が代わらざるを得ないほどだったという。
このため、1909(明治42)年に出版された大町桂月の「関東の山水」のなかでは「明治以前にあっては、関東唯一の遊山場なりき…中略…湯舟には、数百人を容るべき、遊女やさへありて、白根山腹に一大楽園を現出したり也」とするものの、その後、湯治、養生の湯が中心となって、近年やっと「病人以外の遊山客も増加したる也」と、江戸時代との違いを記述している。そして「今の處にても、一年二十萬の客ありといふ。他日更に交通の便加わり、旅館の改良をはからば、避暑の客、遊山の客も多くなりて、草津當年の繁華を回復することも、決して難しとせざるべし」と、湯治場から近代的な温泉地への脱皮について、大町桂月が期待を寄せていた、という状態だった。
さらに、1918(大正7)年に上梓された、草津節の元を作詞したといわれる平井晩村の「湯けむり」では、軽便鉄道の乗客の言葉を借りて「草津を病人ばかり行くところと思って居なさると大間違ひ。避暑がてらの湯治には唯一無二(もってこい)の涼しい處なんですよ…中略…伊香保や函根のやうに贅澤づくめのお客が些ないから、呑気に悠くり保養するにはこの上なしなんです。いまに御覧なさい。軽便鐡道が草津まで全通すれば、草津は日本一の温泉場」になると記しており、まだ、療養、湯治が主な温泉場という認識が一般的だったことが分かる。
さらには、1922(大正11)年発刊の田山花袋の「温泉周遊 東の巻」でも軽井沢から開発が進み、草津にも都会人が入り込みつつあるとしながらも「いかにも温泉場―といふよりも湯浴場(とうじば)に來たといふ氣がする…中略…何うも少し殺風景なところはあるにはあると思ふね。土地も高原だから、避暑地として恰好ではあるけれども、何處かガサガサしているね。粗野だね」と手厳しい。
1926(大正15)年に草津まで草軽電気鉄道が開通し、昭和に入るとスキー場の開発もはじまり、やっと草津温泉は、平井晩村が期待していたとおり、近代的な温泉空間の形成、保養地化が進んだものの、第二次世界大戦により、観光地としては再び厳しい時代となった。草津温泉がもっとも人気のある温泉地として、いまの地位を築き「江戸時代の活況」を取り戻せたのは、戦後における地元の人々の努力といってもよいのだろう。
交通アクセスの改善は、江戸時代の湯治、療養的な温泉からの脱皮には欠かせないが、その遅れによって、「温泉情緒あふれる温泉地・温泉街」としての近代的な地域の構造を形成するのに時間が掛かったのは塩原温泉だ。塩原温泉は東北本線西那須野駅から新塩原駅まで軽便鉄道が開通したのが1915(大正4)年で、塩原口駅までは1922(大正11)年と遅く、塩原口からさらにバスで乗り継ぐといったアクセスだったことがその要因といえよう。
1903(明治36)年に書かれた尾崎紅葉の「続々金色夜叉」では、塩原温泉郷についてガイドブック以上に詳しく描き出している。この小説では、金貸しの手代となった貫一が債権回収のため、債務者を追いかけて塩原温泉郷の畑下温泉に向かうのだが、お宮への思慕と蟠(わだかま)りの気持ちが綯い交ぜになった気持ちを抱えていることから、塩原温泉郷の風景の描写もおどろおどろしい。まず、温泉郷のとば口、入勝橋を渡ると、「日光冥く、山厚く畳み、嵐気冷に壑深く陥りて、幾廻せる葛折の、後ろには密樹に聲々鳥呼び、前には幽草歩々の花發き・・・」といった風に、いかに深山渓谷であるかを、貫一の心理状況を合わせ延々と描写するのである。畑下温泉についても「一村十二戸、温泉は五箇所に涌きて、五軒の宿あり…中略…四面遊目に足りて丘壑(きゅうがく)の富を擅(ほしい)ままにし、林泉の奢りを窮め、又有るまじき清福自在の別境なり」と描写している。
こうしてみると、当時の塩原温泉郷は秘境あるいは、鄙びた療養、保養温泉というのが当時の一般的な認識であったことがわかる。塩原の湯は、かつては山中を通る会津街道に近いところから、「古湯千軒」と呼ばれるほど賑わっていたというが、江戸中期の災害で壊滅的な被害を受け、渓谷沿いに点在する鄙びた温泉となったのだ。そのため、「節は初夏の未だ寒き、此の寥々たる山中に来り宿れる客なれば、保養鬱散の爲ならずして、湯治の目的なると思うべし」という利用のされ方だったという。
しかし、この塩原温泉も軽便鉄道が新塩原駅まで開通した後、訪れた田山花袋の「温泉周遊 東の巻」では、「今では便利になった。最早あの熱い那須野を乗合馬車に揺られなくとも、あの長い關谷からの道を歩いて行かなくとも好くなった。貧弱ではあるけれども、旅客はあの西那須野から軌道に乗って、そしてこの溪の入口である新鹽原驛まで樂に入って行くことが出来た。否、今では少し便利以上になつた形があった。いやに新開地らしい人氣になって、人を見ればすぐふんだくり主義を實行せずにはおかないというようになった」と、交通アクセスの改善により、温泉地として開けたものの、急速な発展は弊害ももたらしたことを慨嘆している。
当時の文豪たちからの筆致からみると、江戸時代の湯治、療養中心の温泉をベースに歓楽的かつ行楽的な要素を加えながら「情緒あふれる温泉地・温泉街」としての近代的な地域の構造が形成していくプロセスでは、江戸時代後期から有力な温泉地であっても、それぞれの地域性や災害、社会経済的背景など多種多様な事情により紆余曲折があったことが分かる。また、当然ながら、そのなかでも交通アクセスの改善が大きな要素のひとつだったことも読み取れる。
そして、なにより、明治・大正期の文豪たちは、その温泉地を巡り、長期に滞在し、湯治保養したり、執筆活動を行ったりして、時には厳しい目でみていたが、こよなく愛し楽しんでいた。
この時期に生まれた「情緒あふれる温泉地・温泉街」は、第二次世界大戦後の観光の爆発的な大衆化により、温泉は、湯治や保養でじっくり温泉を利用することから、周遊観光の宿泊先のひとつとなり、長期滞在する場から一夜の宿となってしまった。さらに需要が拡大するのに伴い旅館の大型化、外部資本の流入により、これらの宿泊施設による温泉地としての空間そのものの内部化、大型化が進行した。この際に多くの温泉地では、「情緒あふれる温泉地・温泉街」としての地域の構造が崩れ始めた。すなわち、地縁としての生業のつながりを失ったのだ。そしてバブル崩壊(1992年)とともに、それらの大型施設の多くが陳腐化して行ったため、温泉地としての地域の構造が全く機能しなくなったところが多い。
そのなかで、文豪たちが愛でた近代的な「情緒あれる温泉地・温泉街」を、地域の人々の努力で、現代の状況に適応させながら地域の構造を再構成し、成功している事例は少なからず見ることができる。さらに2010年代に入り、インバウンドという新しい風のなかで、温泉地が生き返る例も多くなって、そこに地域活性化、再生の意識も高まったことにより、再度、温泉地としての新たな地域の構造のあり方に注目が集まるようになっている。
これまでの日本の温泉地も役割も機能もその時代に合わせ、変化しつつ、盛衰を繰り返してきた。例えば、江戸、明治期では湯治、療養の場としても、明治大正の文豪たちや富裕層が楽しんだ保養地としても、また、戦後からバブル期のような、点から点の周遊観光地や一夜限りの歓楽地としても、その時代に応じた役割を果してきたが、いま、また、新しい温泉地の役割や機能が求められ、それにふさわしい地域の構造も必要とされているのではないだろうか。例えば、労働改革が進むなか、都市住民が気軽に楽しめる長期滞在型の保養地機能や健康増進機能、場合によっては、良好な環境下によるワーケーションやサテライトオフィスのような機能など、時代の要請に応えた役割と、それに見合う温泉地の地域の構造が形成されることに期待したい。
引用・参考文献
- *田山花袋 「伊香保案内」 1930年再版本(初版1918年)(国立国会図書館デジタルコレクション)
- *島崎藤村 「伊香保 土産」1919年 『島崎藤村全集・52作品』(Kindle版)
- *十返舎一九「上州草津温泉道中 続膝栗毛 十篇下」(国立国会図書館デジタルコレクション)
- *大町桂月 「関東の山水」1909年 博文館(国立国会図書館デジタルコレクション)
- *平井晩村 「湯けむり 草津紀行」1918年 武侠世界社(国立国会図書館デジタルコレクション)
- *田山花袋 「温泉周遊 東の巻」1922年 金星堂(国立国会図書館デジタルコレクション)
- *尾崎紅葉 「続々金色夜叉」1902年 金星堂(国立国会図書館デジタルコレクション)
- *下村彰男 「近代における温泉地空間構造の変遷に関する考察」1993年 造園雑誌56