[Vol.26]国境の『奥の細道』

 東北を旅していると「奥の細道」に関連する句碑や案内板に頻繁に出合う。観光振興のツール、ストーリー作りにもよく使われている。世界に誇る俳句、古典文学なのだから、当然のことだろう。 

 芭蕉が「奥の細道」に出掛けたのは、古くから詠まれている歌枕を訪ねる旅といわれている。歌枕は各地の名所旧跡が歌に詠み込まれ、それぞれ定型化した表現、情趣が形成され、歌に深みを持たせるものとして使われた。なかでも平安中期の能因法師や平安末から鎌倉初期の西行法師は、実際にその場所に足を運んでいたことから、江戸期の文人にとっては憧れの人であった。それゆえ「奥の細道」の芭蕉と曽良がたどる経路も、この二人の法師、なかでもとりわけ西行法師の足跡を追い、陸奥の平泉と出羽の象潟にもっとも心を傾けていたという。こうした「奥の細道」の経路の中で、私が注目したのは「白河の関」と「尿前(しとまえ)の関」の2つの国境(くにざかい)越えだ。 

 中世から近世にかけ、都からもっとも遠い北の国、陸奥国に踏み入れる第一歩の「白河の関」への憧憬は、芭蕉のみならず多くの文人、歌人にとって大きいものがあった。「奥の細道」では、「白河の関」での国境越えの旅は、門人や連衆のサポートも篤かったせいか、円滑に進んでいる。一方、それに対し、平泉から出羽に向かう国境越えは、陸奥国の内奥に入り込んだところのせいか、門人や有力者のサポートも薄く、それなりの旅の苦労が伴っていたようだ。ある意味では「奥の細道」の旅の醍醐味が集約されていることろかもしれない。芭蕉の目に映ったものを、私なりに想像しながら、実際に訪れた際の印象を書き綴るとともに、「奥の細道」の観光資源としての意味も合わせて考えてみたい。 

 〇遊行柳から白河、須賀川(下野国から陸奥国へ) 

 芭蕉たちは北千住から日光街道を下って、まず、日光を訪ねたのち、那須野の黒羽に向かい、黒羽城の城代家老の浄法寺図書高勝(桃雪)や弟の芦野の領主鹿子畑高明(翠桃)の邸宅に逗留し、歌仙などを開いている。黒羽のあと、芭蕉はまっすぐ白河には向かわず、今でいう那須高原の方に登って行き、湯本温泉に投宿している。「九尾の狐」伝説で知られ、謡曲にもなっている殺生石にも立ち寄って、また、山を下り、東山道(奥州街道)の芦野に向かう。 

黒羽城跡と那須の山並み

 芦野に向かった理由は、西行法師を慕っての旅だけに、西行法師が「道のべに清水流るる柳蔭しばしとてこそ立ちとまり」のその柳だという「遊行柳」があったからだろう。この柳、何代目か知らないが、現在も国道294号線沿いの水田の中にある。 

 鎮守の森の小山を背に、国道からあぜ道のような長く細い参道の先に立っている。ただ、日本のどこにでもある風景で、ここで、あえて西行法師が歌を詠むようなロケーションであったとは信じがたく、ふと、西行法師はここで本当に歌を詠んだのかという疑問が湧いてくる。「遊行柳」は、時宗の遊行上人19代尊皓が老翁として現れた柳の精を成仏させたという室町時代の伝説を謡曲にしたことにより、その名が広まったものだという。 

 とすると、西行法師の歌とは時代が異なる。しかも、室町から江戸にかけて成立した「西行物語」や「西行一代記」などではこの歌は、まだ、西行法師が鳥羽院に仕える武士だった頃の歌として紹介されおり、鳥羽院の邸の障子絵を題材にして歌ったものだともしている。ということは、後代になって、西行法師と「遊行柳」は結び付けたものといってよいだろう。 

 芭蕉もおそらくこのことを知りつつも、西行法師に掛けて、この柳の下で休んでみようということになったと考えてよい。ここでは「田一枚植えて立ち去る柳かな」とどうも主体がはっきりしない句を遺している。蕪村が詠んだ「柳散清水涸石處々」は西行法師の歌を前提に率直に光景をとらえているのに対し、芭蕉の句はかなりひねった句だ。

 それゆえ、この句はいろいろな解釈が可能だが、「西行法師の詠んだ柳の陰でしばし休んでいる間にも、田一枚の田植えが終わった。さあ、名残惜しいが旅を続けることにしよう」(解釈:潁原退蔵)が一般的で、西行や遊行柳との関係を意識した解釈ともいえる。だが、どうもこの解釈は、主客関係に矛盾があり文法的には合っているとは言い難い。かなり牽強付会な解釈ともいえるが、ここは旅のロマンを遺すためにも鷹揚に構える必要があろう。

栃木県那須町芦野遊行柳

 遊行柳から白河の関までは現在の道程で10㎞ほど。西行法師、能因法師を慕っての「奥の細道」であるから、その入口となる「白河の関」は、芭蕉ももっとも心を寄せていた地のひとつといってよい。ただ、芭蕉が訪れた当時、「白河の関」が実際にどこにあったかは明確になっていなかった。白河藩主で几帳面で綿密な性格だったという松平定信が、いくつかあった候補地の中から、現在、推定地とされている場所を「白河の関」だと判断し、「古関蹟」の石碑を建てたのは1800(寛政12)年であるから、芭蕉がこの地を訪れた時より100年以上後のことである。この推定地は、1959(昭和34)年から5ケ年にわたっての発掘調査でも、竪穴住居跡や掘立柱建物跡、土坑、柵列などが確認され、8~9世紀の土師器や須恵器、鉄製品が出土したことから、白河関跡としての可能性が高いことが検証されている。 

 しかし、芭蕉が訪ねた頃は、現在推定地も候補にはなっていたものの関跡が特定されていなかったので、現在の推定地を訪れたかどうかは、どうもはっきりしていない。芭蕉が「白河の関」付近を辿った路は、「奥の細道」の記述では簡略すぎて不分明だ。より詳細な記述のある「曽良随行日記」から推測すると、おそらく以下の経路だったのではないかと思われる。

 現在の国道294号線(奥州街道)で栃木県と福島県の県境の峠を越え、少し下った所で奥州街道を右に折れ、東山道の宿場であった「旗宿」に向かって泊まり、翌日、「白河関跡」、「二所明神」(関跡にある現在の白河神社か?)、関山の満願寺など周辺の古跡、名所を見て白河城下に入ったのではないかと思われる。ただ、「曽良随行日記」にある、「旗宿」と「二所明神」や「関跡」の方角の記述が実際とは異なっているので、この経路を辿ったとは断定できない。 

 「白河の関」については、その役割、機能や設置時期については諸説ある。確実な記録としては、太政官符の799(延暦18)年12月10日の項には「白河・菊多(勿来の別称)剗(関)守六十人」の記載があり、同じく835(承和2)年12月3日の項には「勘過白河菊多両剗(関)事。右得陸奥国觧稱。撿舊記。置剗(関)。于今四百餘歳矣。」(通行を検査する白河、勿来の両関を設けることで陸奥国と称して分けた。旧記を調べると、関を置いてから400年余りになる)とも記されている。すなわち、835年当時においては菊多(勿来)の関とともに「白河の関」は設置から400年ほど経ていると記されていることから、5世紀半ばには設置されていたと認識していたと考えられている。その後、律令国家が崩壊し、平安中期には関の役割は終わったとされるが、「白河の関」は、同じ福島県の勿来の関、山形県の念(ね)珠(ず)関(鼠ケ関)とともに奥羽三関の一つとして、人々の記憶の中に遺された。

勿来の関跡

 どの場所だったのか、どの時代であったかはともかくも、芭蕉にとっては「奥の細道」の原点、出発点であったのに違いない。「白河の関」は、歌枕のなかでも、「みちのく」あるいは未知の世界への入口的な意味合いが強く、実際にこの地を訪れた西行法師や能因法師への憧憬は、そこに起因する。 

 芭蕉は、「奥の細道」のなかで、「白河の関にかかりて旅心定りぬ」として「風騒の人(詩歌を楽しむ風雅な人)、心をとどむ。秋風を耳にのこし、紅葉を俤にして、青葉の梢猶あはれなり」と、能因法師の「都をば霞(春霞)とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」やそれを受けた西行法師の「白川の関屋を月のまもる影は人の心を留むるなりけり」などをはじめ、多くの先人の歌や文章を踏まえ、芭蕉にとってのこの地の意味合いを記している。 

 「奥の細道」には曽良の「卯の花をかざしに関の晴着哉」(「古人もこの関を越えるのに、冠を正し衣装をあらためて通ったと言う事だが、私も今卯の花をかざしにして晴れ着のつもりで通っていこう」解釈:潁原退蔵)を掲載しているが、芭蕉の句はなぜか掲載されていない。思い入れのあった地で芭蕉が一句も詠まなかったのか気になる所でもある。

 現在、「白河の関」といわれている所の状況は、こんもりとした単なる鎮守の森の風情で、参道の石段下にある石の鳥居と松平定信が建てた「古関磧」の石碑と石段の上に小さな社殿の白河神社がひっそりと建ち、周囲に空堀と土塁を遺すのみである。1988(昭和63)年に司馬遼太郎もここを訪れ、「私どものまわりには、空濠が大きくうがたれている。掘られた土は、積みあげられて土塁(古語では土居)になっているのである。空濠も土塁も、やわらかい草でおおわれている。深山にいるような感じがするが、しかしこの丘ぜんたいは孤立した隆起で、付近のどこの山ともつながっていないのである。関を置くには、絶好の場所であり、それに、岩山ではなく、すべて土であり、空濠や土塁をきずくのにまことにたやすい」と描写している。

白河の関跡「古関蹟碑」

白河の関跡・白河神社

白河の関跡 土塁

 これからみると、もし芭蕉がこの現在地を関跡として訪ねたと仮定すれば、当時は発掘もされていなかったので、おそらくはただの小さなこんもりとした丘であったろう。とすれば、作句にいたるほどの特段の感興を生むことはなかったのかもしれないと、推測してしまうのだ。このことは、須賀川で訪ねた等窮から「白河の関」越えについて問われ、疲れやいろいろな思いがあり作句は出来なかったとしていることからも窺い知れる。

 とはいうものの、「無下に越えんもさすがに」ということで、「風流の初やおくの田植うた」(「白河の関を越えて行くと、田植え歌が聞こえて来た。その懐かしくまた古代を思わせる響きに感興も新たに湧いた」解釈:潁原退蔵)を発句し、連歌につなげている。しかし、これは、どうみても白河の関での句ではなく、「みちのく」に入って、白河や須賀川の平野の田植え風景にこと寄せた発句の挨拶句ではないか、と思える。

 結局、「白河の関」は西行法師とみちのくの入口という憧憬は強かったが、実際は作句するほどの場所ではなかったというところだろうか。 

白河の関跡

 〇平泉から尿前の堰、尾花沢(陸奥国から出羽国へ)

 「奥の細道」の最北は現在の秋田県の象潟と岩手県の平泉になるが、この2ヵ所は、能因法師が辿った最北は象潟であり、西行法師の最北は平泉だったということなので、芭蕉が「奥の細道」への思いから考えれば当然のことだったのだろう。 

 平泉での芭蕉の感興は「奥の細道」なかでもとりわけ強いものがあったようだ。その背景には、この地を西行法師は2度も訪れており、奥州藤原氏の栄華と衰亡を目の当たりにし、そこでの悲劇を歌に詠じたことから芭蕉としても追体験したかったことにあるのだろう。しかし、芭蕉の訪問当時は「七宝散りうせて、珠の扉風に破れ、金の柱霜雪に朽ちて、既に頽廃空虚の叢となるべきを、四面新たに囲みて甍を覆ひて 風雨を凌ぐ」と、寺院、遺構の保存がやっとはじまったばかりだった。 

 芭蕉がこの地で詠んだ「夏草や兵どもが夢の跡」は、西行法師が罪を犯し咎受けた奈良の僧(義経ともいわれる)と中尊寺で出会い、その僧の都への思いを託した「涙をば衣川にぞ流しつるふるき都をおもひ出でつつ」という歌を踏まえているといわれる。また、「五月雨の降りのこしてや光堂」は、やっと保存が始まったばかりの金色堂を前に詠んだとすれば、芭蕉の心中を推し量れば、さらにロマンは広がるような気がする。 

岩手県平泉町中尊寺鐘楼

岩手県平泉町中尊寺峯薬師堂

 もっとも、これらの句は、いずれも後年に推敲を繰り返し完成したといわれ、この地で芭蕉が極めて強い印象を持ったことは事実であるものの、作品として昇華していくためにはさらに熟成の時間と努力が必要だったのだろう。 

 芭蕉たちは、平泉から出羽の尾花沢の紅花の豪商で門人だった清風を訪ねるため、出羽山地越えを行なう。その道筋は、当初は、南寄りの軽井沢越え(現在の国道347号線)を考えていたが、「道遠ク、難所有レ之由故、道ヲカヘテ」(「曽良随行日記」)ということで、「奥の細道」によれば「鳴子の湯より『尿前の関』にかかりて、出羽の国に越えんと」中山越え(現在の国道108号線)となったとしている。このせいか、「関守にあやしめられて、漸として関を越す」とし記しているので、「尿前の関」では厳しいチェックがあったようだ。曽良は「断六ケ敷也。出手形ノ用意可レ有レ之也」と書いているところを見ると、出手形の用意が十分でなかったのだろう。 

 「尿前の関」には古くから陸奥、出羽の国境地帯として柵(砦)が設けられ、藤原秀衡の時期にも柵があったという記録があるという。尿前に番所が仙台藩によって建てられたのは、1670(寛文10)年ごろだと考えられており、岩出山伊達家から役人が派遣されていたという。芭蕉たちがこの関を通ったのは、1689(元禄2)年5月15日(新暦7月1日)のことであるあるから、番所が設けられて、20年足らずで、まだ、厳しい詮議があったのだろうか。 

 この「尿前の関」とは、「尿」という漢字が地名にあてられ、なんとも興味深いものがあるが、義経伝説でその由来が説明されることが多い。頼朝に追われた、義経一行が出羽から平泉に逃れる際、亀割峠で生まれた亀若丸が、この地に来て初めて啼いたので「鳴子」となり、初めて尿をしたので「尿前」だというのである。しかし、これは何とも、義経伝説に寄りかかりすぎだろう。「尿前」については峰とか山上の湖がある場所などというアイヌ語から来ているとする説の方が、まだ、納得性はある。ちなみに、鳴子は火山の鳴動から来ているという説の方が正当だろう。 

 芭蕉たちの旅程で意外なのは、「尿前の関」の川向こうには名湯の鳴子の湯があるが、先を急いだのか、立ち寄っていないことだが、実情はわからない。そういえば、「奥の細道」では、那須の湯本や加賀の山中温泉での記述はあるが、存外、温泉のことはあまり話題にしていない。 

 「尿前の関」をなんとか通過した芭蕉たちは、「大山をのぼつて日すでに暮れければ、封人の家を見かけて舎を求む。三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す」ることになる。この地は堺田といって、出羽山地の分水嶺となるところで出羽新庄領に入った最初の集落である。「封人の家」は、陸奥仙台領との国境を守る庄屋、有路家のことを指す。この建物は現在も遺されており、芭蕉が「奥の細道」で宿泊した家として、現存している唯一のものだと言われている。 

山形県最上町堺田の分水嶺

 芭蕉は雨に降り込まれ、この家に1689(元禄2)年5月15日から17日(新暦では7月1日から3日)まで逗留する。ここで詠まれた「虱蚤馬の尿(しと)する枕もと」(「山中で泊めてもらった家はみすぼらしく、蚤や虱は言うに及ばず、厩の近くとて馬の小便する 音まで聞こえて来る」解釈:潁原退蔵)という句が知られている。

 確かに、実際、この家に訪ねてみると、囲炉裏のある「ござしき」と土間をはさんで馬屋も同じ屋内にある。囲炉裏は、建物の保全のために現在も現役で薪がくべられており、その囲炉裏に坐ると馬が目の前にいたことがわかる。「枕元」はさすがに誇張ではあるが、それでもその屋内の位置関係にリアリティがあることを得心できる。この句はその後推敲が重ねられたといわれているものの、これからの旅程を案じアドバイスをしてくれる有路家の主とのほっこりしたやり取りも含め、臨場感あふれる句として楽しみたい。 

山形県最上町封人の家

山形県最上町封人の家 「ござしき」の囲炉裏

山形県最上町封封人の家「なかざしき」

 「封人の家」を後にし、芭蕉と曽良は間道となる山刀伐(なたぎり)峠を越え、尾花沢を目指す。「奥の細道」には山刀伐峠は「高山森々として一鳥声きかず、木の下闇茂りあひて夜行がごとし雲端に土ふる心地して、篠の中踏み分け踏み分け、水をわたり岩に蹶 きて、肌につめたき汗を流して、最上の庄に出づ」と記されている通り、相当の難所であったようだ。堺田を出立して山に入る前には笹森というところに番所があって、ここでも厳しい取り調べがあったはずだが、芭蕉も曾良も記していない。あくまでも推測だが、有路家から若衆の案内がいたことから、何も事もなかったのかもしれない。 

 その先で、新庄に向かう道と別れ、南下して山刀伐峠を越えることになる。山刀伐峠は標高470mの峠で、山の形状がかつて山仕事にかぶった「なたぎり」というかぶりものに似ていることからこの名が付けられたという。現在、峠はトンネルで抜けてしまうが、旧道は遊歩道として整備されており、歩いて越えることも可能ではあるものの、当時と変わらない険阻な山路である。

山形県山刀伐峠古道

 そして、その山越えをすれば、尾花沢の門人の清風邸に到着することとなり、芭蕉もほっとしたことだろう。平泉から尾花沢までの旅程では、門人や支援者がほとんどおらず、心細かったのではないだろうか。尾花沢からの先の旅路では、各地に門人、支援者が多く、数多くの歌仙も開かれている。 

 尾花沢では、清風邸だけでなく連衆の邸にも泊まり、10泊している。芭蕉の「涼しさを我が宿にしてねまる也」(「あるじのもてなしのお陰で、涼しい部屋にくつろいくつろいでゆっくり寝ることが出来ることだ」解釈:潁原退蔵)の句で始まる歌仙も開かれ、芭蕉も曽良も多くの句を詠んでいる。また、「眉掃を俤にして紅粉の花」(「いかにも(化粧道具の)眉掃きのような形をしたベニバナの花だ。可憐で美しい」解釈:潁原退蔵)と、門人清風の商売でもあり、当地名産の紅花を詠み込んだ句もサービスしている。 

 さらに門人たちの勧めもあって「殊静閑の地也」という立石寺まで足を延ばし、「閑さや岩にしみ入る蟬の聲」の名句へとつながる。このあと、最上川沿いに大石田、新庄など経て日本海側に下って行き、「奥の細道」はまだまだ続く。 

「奥の細道」の2つの国境越えについて、芭蕉の足跡を追ってみたが、この2つの地域は、観光資源として評価すれば、残念ながらメジャーな資源だとはいえない。「奥の細道」には、もちろん、松島や立石寺、平泉、出羽三山など、現在でもメジャーな観光資源もあるが、この2つの地域のようなマイナーな資源も数多くある。 

 確かに芭蕉がこの道を歩んで400年ほど経てみると、こんな場所で名句を詠んだのかと、思われるところや、こんな扱いになってしまうのか、という景勝地もある。しかし、このような地域でもこの2つの国境越えも含め、バックグランドの奥行きが深く、ロマンはつきないところも多い。それでは、飛び抜けた景観も文化財もないこれらの地域は、「奥の細道」という観光資源をどう育てるべきなのだろうか

 これらの地域の観光資源ではメジャーな観光地のよう多くの観光客を動員するということはできないだろうし、「大河ドラマ」のような話題作りによるプロモーションもきっかけとしては良いが、持続的な効果は少ない。しかし、これでだけのバックグランドの奥行きの深さとロマンがあるのならば、マーケティング的にみても、つねに一定の関心を有する層は存在するし、知的欲求を満足させたい訪問客にとっては、大変興味深く、持続性のある観光資源ともいえる。知的好奇心の高い外国人にとっても魅力ある資源だろう。それらの層の観光客や訪問客を満足させるためには、偽物や薄っぺらなストーリーでは対応できない。しっかりとしたハード面、ソフト面の持続的な取り組みが必要だろう。 

 まず、ハード面では、「奥の細道」に沿った旧街道の整備を徹底して行い、その維持が重要だ。ともすれば、整備は行っても維持管理ができず、せっかくの投資が無駄になることが多い。例えば、「尿前の関」から「封人の家」までの約10㎞については、旧道を辿る「出羽街道中山越」の散策道が整備され、山刀伐峠越えにも散策道があるものの、一部区間は現在の国道を使っており、その部分の歩道などの整備はされておらず、散策道も維持管理が行き届いていないところもある。さらに、プロモーション的には、パンフレットやマップは宮城県側と山形県側で分断されている。やはり、県を跨いだプロモーショが必要だろう 

 「白河の関」の方では、散策道はまったく整備されていないし、案内板も不十分だ。栃木県側と福島県側の連携もさらに薄いし、ストーリー作りも出来ていない。遊行柳、雲巌寺、境の明神、追分の明神、それに白河の関跡、関の山など、「奥の細道」に関する資源を繋ぐことにより、未知なことも多いので興味深いストーリーが生まれるのではなかろうか。

 ハード面よりさらに重要なことはソフト面だろう。ストーリー作りはもちろんのこと、松山市で市民へ俳句を浸透させたように、「奥の細道」を始め、西行法師、能因法師など「みちのく」に関する平安から鎌倉の古典文学を地域の学校教育や生涯学習での取り組みとして明確に位置づけ、地域のアイデンティティにしていくことも重要だろう。山形県最上町ではすでに取り組みも始まっていると聞いてはいるが、さらに徹底し、持続していく必要があろう。

 こうしたハード、ソフトの両面での取り組みは、地道で長い時間が掛かり、不断の努力が必要とされる。しかし、こうした積み重ねが、息の長い観光資源として育てることができ、それぞれの地域のしっかりとしたアイデンティティとして位置づけられるようになるのではないだろうか。 

 

引用・参考文献

筆者

典然

観光関係の調査研究機関をリタイヤして、気儘に日本中を旅するtourist。
「典然」視線で、折々の、所々の日本の佇まいを切り取り、カメラに収めることがライフワーク。「佇まい」という言葉が表す、単に建物や風景だけではない人間の暮らしや生業、そして、人びとの生き方を見つめている。

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