[Vol.29]日本の農業景観

〇江戸期に一変した日本の農業景観 

 明治初期に東北地方を歩いた、英国の女流探検家イザベラ・バードは、山形県の置賜地方について、「まさしくエデンの園である。『鋤の代わりに鉛筆で耕したかのよう』であり」、コメ、綿をはじめ、多くの農産物が豊かに育ち、「晴れやかにして豊穣なる大地であり、アジアのアルカディア(桃源郷)である」と評している。少し、ほめ過ぎのような気がするが、日本の田園風景は自然と共生しながら、長年、根気よく人間が手を入れ、繊細な農業景観を生み出したというのも、美しさの一因だろう。 

山形県飯豊町 散居集落 展望台から

 江戸時代の俳人たちも、日本の田園風景を数多く詠んでいる。私の好みで選ぶとすれば、松尾芭蕉の「早稲の香や分け入る右は有磯海」「菜畠に花見顔なる雀かな」や蕪村では「菜の花や月は東に日は西に」「狐火やいづこ河内の麦畠」などで、いずれも情景が手に取るようにわかる。さらに、小林一茶は信州出身で晩年は居を構えていたこともあって、「しなのぢや山の上にも田植笠」「麦に菜にてんてん舞の小てふ哉」「菜の花やかすみの裾に少づつ」など田園風景を詠み込んだ句は、芭蕉や蕪村に比べても圧倒的に多く、生活感もある。 

 3人の俳人たちは、芭蕉が江戸初期、蕪村が中期、一茶が後期に活躍をしたのだが、いずれの俳人たちも菜の花あるいは菜畠を詠んでおり、とりわけ一茶は数多く句作の対象にしている。このことについては、柳田国男の「火の昔」での解説にも符合する。「蝋燭の蠟を絞る櫨の木の栽培が奨励されるのも、菜種の畠が多くなったのも…中略…江戸期半ばのこと」であり、その頃から「菜種の花の栽培の爲に、田舎の春の景色は一變したかと思ふ位に、萬べんなく廣がった」とし、それと同じころに「麥類も盛んに畠に蒔くことになり、又一方には田圃の緑肥用として、紫雲英(れんげそう)を作り出しまして、麥の緑と菜の花の黄色と、れんげ草の紅の色とで、見ごとに春の平野を彩る」ようになったとしている。菜種油の導入により、家々の夜が明るくなるとともに「偶然ながらも一國の風景までを明るくした」とも記述している。つまり、日本においては、江戸中期から、春の田園風景が彩り豊かになったということであり、時代の潮流により農作物の植え付け方が変化し、そのことが農業景観を大きく変えることになって、句作にも反映されていたといえよう。 

埼玉県幸手市 権堂堤

埼玉県杉戸町 江戸川堤

 それは水田の景観でも時代の潮流の中で同様の変化や新しい景観の創出をみることができる。例えば、輪島の中心街から外浦沿いの急峻な海岸線を北東へ10kmほどのところにある「白米(しらよね)千枚田」だ。標高差60mほどの急斜面に小間を1000ほどに区切った棚田がパッチワークのように広がる。急斜面の下方には急崖が続き、日本海に落ち込んでいる。西向きの海岸線は冬には激しい風雪に攻められる厳しい環境にあり、棚田に生える数本の松はみな、北西からの季節風によって枝ぶりが南東方向に流れている。ここの景観は、海に向かっての西向きの斜面だけに、夕日が海面に照らし返され、棚田に差し込む風景はなんとも美しく、見飽きない。 

 白米千枚田の棚田の開墾は16世紀頃から始まり、寛永年間(1624~1645年)には、金沢の辰巳用水路の開発に関わった下村(板屋)兵四郎によって、急斜面全体に水が行き渡るように用水路が敷設され、その後も営々と維持、造成が重ねられた。19世紀半ばころまでには、この緻密かつ繊細な印象を観るものに与える棚田景観が創り上げられたという。

 しかし、私が意外感を持ったのは、海に直面し、海岸近くまで棚田が続いている立地だ。私の棚田の立地のイメージは、柳田国男の「二里三里の嶮岨けんその山を越えなければ、入って行かれない川内が日本には多かった。それを住む人の側ではあるいはオグニ(小国)などとも呼んでいた。…中略…農作は当初自然の水流を利用するために、好んで傾斜のある山添いを利用し、しかも背後に拠よる所のある最小の盆地を求めたゆえに、上代の植民は常に川上に向って進む傾向をもっていた」というような山懐にある谷地田にあったからだ。 

 それゆえ、このように海岸沿いの厳しい自然環境のなかにこれだけの数多くの棚田が造成され、その営みが続けられてきたことを不思議に思っていた。この点については、文化庁の文化財データなどによれば、能登半島の富山湾側の内浦と違い、白米千枚田のある外浦は水田の適地をもたないため、この急峻な斜面に耕作地を開拓せざるをえなかったが、一方で、流紋岩などを組成とする地質や、この急斜面が地すべり地帯であることから水が豊富で水利の便が良いという条件は水田に適しているため、階段状にパッチワーク模様を描くように耕作されたという。しかも、ここの棚田は「一枚あたりの平均面積が18~20㎡と極めて小さな区画の水田が集積し、畦畔の法面が土坡で造られているところに顕著な特徴」があり、このことが保水力を高め、地すべりの防止機能の役割も果たしてきたという。 

 また、「白米」という地名も「はくまい」とは呼ばずに「しらよね」としている点も興味を引く。この地名の由来には諸説があり判断は難しいが、農水省が示している「地すべりに関係すると考えられる地すべり地の地名など」のなかには「地すべり地の田・畑の状況を表したもの」として、他地域の事例も含め「白米(しらよね)」の地名も挙がっている。「白」には「白い砂」の意味も含まれ、「米」の「よね」は、砂を意味する「ヨナ」からなまったものとする説もあるというから、まさしく流紋岩などの地質、崩れやすい地形を表しているといってよいだろう。秋田にある「米代川(よねしろがわ)」についても由来には諸説あるが、古代の十和田湖火山の噴火の際、大量の火山灰などによって川が白くなったことからだとするものもあり、これとも照応する。 

石川県輪島市 白米千枚田

石川県輪島市 白米千枚田

 柳田が指摘するような小規模な谷地田や棚田がきり拓かれたのは、日本への稲作伝来当初からだったろう。中世に入ると、小盆地や平地の小湿地での栽培や国家的な事業としての開墾、開拓もあったが、「谷地田こそが最も安定した耕地であり、標準的な耕地であったとする説もある」(「水土の礎」HP)とされる。さらに中世後半から近世には、治水利水技術の発達により埋め立て、干拓による大規模な新田開発が行われた一方、「自ら直接農耕にたずさわる人々は、自力で『しんがい』『ほまち』などとよばれる小規模な開発」(「水土の礎」HP)を条件の悪い急斜面や小湿地などで、継続的に進めた。これらの古代から営為のなかで、日本の農民の持続性と自立心によって営々と積み上げ創り出したもののひとつが、谷地田や棚田、そして段々畑の素晴らしい景観といえよう。 

 こうした水田の広がり方は農業景観にも影響を与え、古くから小集落と谷地田がセットとなった散村形態が形成され、その後、平地、平野部での水田開発に伴い、地域によっては集村化も行われ、農村景観にも大きな変化がもたらされたのだ。 

 農業景観は、時代の要請や技術の発達に応じ生産物が変遷していくことにより変化する事例として江戸中期の菜畠や水田開発のなかで生まれた棚田を挙げたが、他にも同様な事例は挙げられる。 

高知県津野町 貝の川棚田

長野県白馬村青鬼

〇農業景観の変化と観光 

 ぶどう畑もそれにあたる。ぶどうは12世紀ごろからすでに栽培をされていたが、商品作物として成立したのは江戸期に入ってからであり、江戸中期の儒学者荻生徂徠の「峡中紀行」には勝沼宿付近で「路側葡萄架、采摘殆盡」(街道沿いにはブドウ棚が架り、おおかた摘み採られている)と書き記しているところをみると、ブドウ棚の景観が形成されていたことがわかる。 

山梨県甲州市勝沼

山梨県甲州市勝沼

山梨県山梨市 笛吹川フルーツ公園

 さらに新しいところでは、静岡の牧之原の茶畑の景観だ。この地の広大な茶畑景観の多くは幕末から明治に入って形成されたものだ。お茶の栽培自体の歴史は古く静岡でも中世から始まり、駿府における茶問屋の起源は慶長元和年間(1596~1624年)ともいわれ、「慶安(1648~1652年)年中御高帳」のなかでも駿河国安倍郡(現・静岡市葵区)でお茶の取引があったことも記されている。「静岡県茶業史」では、この旧安倍郡では、「諸村は何れも古くより茶樹ありて製茶をなし、安倍茶(足久保茶)と稱し其名遠近に聞こえ、一時は江戸茶問屋に直販賣をなせり、南部地方は北部山間の如く古より栽培せずと雖も、人家の傍等に茶樹を植え製茶をなせしは近きにあらざるが如し、されど今日の如く盛況を呈するに至りしは安政年間(1855~1860年)外国貿易開始の後」だとしている。 

 また、俳人松尾芭蕉が元禄7(1694)年に「駿河路や花橘も茶の匂ひ」と詠んだといわれる島田宿のある旧志太郡では、北部山間において古くから自生するものはあったが、江戸期に入ってから近江の茶種が移入され元文年間(1736~1741年)になって普及し、文久年間(1861~1864年)には郡全体に広まったという。さらに現在広大な茶園が広がる牧之原が属した旧榛原郡の南部では「安政前後に茶樹は牧之原其他各所に散在して多くは畑の畦畔、若くは山畑等の一部に境界の如く點々栽植せられ、之を摘採して自家の飲料に供せるに過ぎざりき、特に栽培の目的を以て繁殖を計りたるは維新前後」と、「静岡県茶業史」には記されている。 

 こうしてみると、芭蕉が「茶の匂ひ」の句を詠んだ頃の江戸初期には静岡は茶の栽培地としては知られていたものの、まだ、現在のような煎茶の煎り方も確立していなかったこともあり庶民への広がりも少なかったと思われ、茶の栽培といっても、小規模の庭先栽培に近い形態だったようだ。大規模なお茶の栽培が行われるようになるのは江戸後期になってからで、とくに幕末から始まった外国への輸出によって促進され、静岡の生産量は明治、大正期に飛躍的に拡大した。昭和初期になると、浪花節「清水次郎長伝」や新民謡「ちゃっきり節」などにより全国に喧伝され、富士山と広々とした茶畑のイメージが定着し、静岡茶のブランドは確固たるものになった。 

 この幕末から明治にかけての大規模な茶畑の開墾、開拓に従事したのは、静岡に隠遁した徳川慶喜に従う旧幕臣や大井川の川越人足たちであったという。「静岡県茶業史」によると「藩主徳川家達公に牧野原開墾を願ひ出て許されて開墾方となり、中条景昭、大草高重其他十八名を幹事となし、二百二十五戸此處に移住」し、徳川家や新政府の援助のもと「專ら開墾に従事」したという。明治11(1878)年には明治天皇の巡行もあり、「今日牧野原茶園の盛況は藩士が刀剣を抛ち来秬を把り開墾に従事したる結果にして其功勞洵に大いなり」としている。この入植の労をとったのが勝海舟で、旧幕臣たちをバックアップし励まし続けた。回顧談である「海舟座談」では、金谷の開墾地に「茶を植へた所が、大相よくできた…中略…横濱へもつて來て、貿易をするようになった。實に赳々たる武夫が白髪になって、日にやけて居るのなど、夫は實に哀れなものだ」と、旧幕臣が開墾、開拓に携わった労苦を思いやっている。 

静岡県島田市 金谷町の茶畑(牧之原台地)

静岡県牧之原市牧之原 大茶園

 また、明治期に入り大井川での渡船が開始されたため、「川越人足百餘戸糊口を失して官に哀願」し旧幕臣たちの開墾地の南側に入植した。彼らには川越人足救助金が与えられ、茶の栽培を始めたという。これにより「年に弛張ありしも、牧野原茶園は年を逐ふて拓け、漸次來住者の數を加ふる」に至ったという。 

 こうした時代の流れに翻弄された旧幕臣や川越人足などの労苦の積み重ねによって、放置された荒野は、茶樹が整然とならぶ現在の牧之原の農業景観に生まれ変わったのだ。いま、茶摘み体験などで、この地を訪れると見渡す限りの茶畑が大きくうねる丘陵を覆い、場所によってはその先に雄大な富士が姿をみせるという素晴らしい景観を提供してくれている。 

静岡県牧之原市グリンピア牧之原 茶摘み体験

静岡県島田市蓬莱橋 島田から金谷方面の茶畑に向かう橋

 これまでに挙げた事例だけでなく農業景観は、日本全国各地で地形、地質、気候、農産物の種類によって、それに対応する形で、先人たちが営々と積み上げ、創造されてきた。この農業景観を観光に生かそうという努力が全国に広がっている。その成功事例のひとつとして挙げられるのが北海道の美瑛だろう。明治期の北海道開拓の苦闘の中から生まれた丘陵地帯の畑の農業景観の美しさを1970年代に写真家前田真三が掘り起こし、いまやインバウンドでも人気の観光地となっている。 

北海道美瑛町

北海道美瑛町

北海道美瑛町

 こうした農業景観の観光への活用は、地域活性化として6次産業への広がりもあり、これからの地域経済にとっても重要であることは間違いない。しかし、一方では懸念材料もある。美瑛の場合でも入込客が増えることによって、農作業への妨げや農地への立ち入りによる観光被害に見舞われており、その対策に悩まされているところも多い。これは行政の環境整備などによってクリアしていかなければならないが、さらに深刻なのは気候変動による農産物の変化、農業技術の発達にともなう農作業の変化、そしてなによりも農業従事者の高齢化が進みこれまで築き上げられてきた農業景観の維持、保全ができなくなってきていることだろう。 

北海道美瑛町 新栄の丘

北海道美瑛町 スプウン谷のざわざわ村

 ボランティアや観光のための公的助成による維持保全も懸命になされているものの、農業景観は、あくまでも日常的な営農活動が結実したものであり、その営農が継続できなければ、その景観の維持は一時的であり、限界もある。さらに景観の維持、保全という問題だけではなく、例えば、全国にある棚田は一部を除けば休耕地や廃田も目立ち始め、自然に戻りつつあるところも多く、将来、保水力の低下、地崩れなどによって大きな災害を引き起こす要因ともなりかねない状況である。 

 こうした状況を打破していくために、時代のニーズに見合った農産物作りや商品化、新たな農産物の作付けを行う努力も重ねられてはいる。その好例のひとつが、勝沼のブドウ畑だろう。かつては、食用の甲州ブドウを中心にその農業景観を形成したが、1990年代以降には、生産するワインの品質を世界に誇れるレベルまでに引き上げる努力をした結果、ワイナリーがその景観の中で重要な役割を果たすようになった。さらに、甲州ブドウはもちろんのことワイン用の多種多様な種類のブドウ栽培が行われようになり、農業景観も更新され、それがまた、観光に生かされている。 

 しかし、日本の農業はこうした地道な努力だけでは乗り越えることができないほどの数多くの課題を抱えている。我々国民全体が、農業の担い手のことや食料の自給率、グローバル化、流通など日本の農業に関する基本的な考え方を固め直さなければないことを迫られている。農業景観の観光への活用はあくまでも副次的な支えにはなるだろうが、農業そのものを支えることはできない。先人たちが築いた素晴らしい日本の農業、そして国土を彩る農業景観をどのように引き継いでいくのか厳しく悩ましい現実だが、向かい合うしかない。 

 

引用・参考文献

筆者

典然

観光関係の調査研究機関をリタイヤして、気儘に日本中を旅するtourist。
「典然」視線で、折々の、所々の日本の佇まいを切り取り、カメラに収めることがライフワーク。「佇まい」という言葉が表す、単に建物や風景だけではない人間の暮らしや生業、そして、人びとの生き方を見つめている。

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