[Vol.28]日本の庭園

 〇日本庭園の発展過程 

 世界各地の名園は、それぞれの民族や国の文化、美意識、自然観、世界観が凝縮されたものといってよいだろう。日本庭園も同様で、京都をはじめ全国に点在する名園といわれるところを訪ね、庭を前にして佇むと、その場にいるだけで、心に染み入る深い感興を生むことがしばしばある。 

 「鞍馬天狗」などの時代小説で知られる大佛次郎は、日本庭園の傑作のひとつといわれる修学院離宮の庭園について「ここの庭だけは、人がいなくとも、水が生きて鼓動を打ち、月や雲や霧や雨が、それから自由な風 も訪ねて来て、春夏秋冬、季節それぞれの姿を展開する。枯山水ではない、人を離れても生きている庭」で、しかも「借景の遠山の眺めも動く雨雲の中である。これが唐画の景色にならず、墨の濃淡がどこか優雅で、まどかでもの柔らかく、やはり日本の風景としか言えない」と評しているが、国文学者の海野泰男は大佛次郎の評価は「修学院離宮の本質を言っただけではなく、日本人の自然観、美意識の核心を、そして日本文化の根本的な特質をも言い当てていると思われる」と指摘している。 

 これは修学院離宮の庭園から導き出した日本庭園の本質であるが、規模の大小や形式、作庭家の違いはあれども日本の名園といわれる庭園は、大佛が指摘しているような「根本的な特質」を有しているといってよいだろう。 

京都府京都市 修学院離宮上離宮

 この日本庭園の成立発展過程には、いくつかの段階と結節点を見出すことができる。日本庭園の草創はいつなのかは、考古学的な見地からいろいろな議論があるが、古墳時代の古墳周辺の石組や池泉の組み立てにより、その端緒を見出せるとも言われている。それが奈良時代に入ると、他の文化文物と同様に中国大陸や朝鮮半島の影響を強く受けた築庭がみられるようになった。奈良時代中期のものともみられる平城京左京三条二坊宮跡庭園などがその事例であり、平城宮の離宮的な施設または皇族等の邸宅の庭園ともいわれ、石組の園池を中心に築造され、曲水の宴などの饗応施設として使用されていたと推測されている。  

 次の段階としては、中国大陸、朝鮮半島の影響は引き続き受けてはいるものの、平安時代に入ると、皇族、公家などの邸宅として和風の建築様式である寝殿造が確立され、その前庭としての庭園が造営されるようになる。「平安時代中期の藤原摂関政治の全盛期に一般的となったとみるのが通説」で、「大臣クラスの邸宅において儀式・宴遊の用に供されることがその利用の主目的であったもの」と推測され、自然の地形を生かした大きな苑池を中心として、名勝名所の縮景を取り入れたものになっていたという。現在は遺構しかないが、寝殿造りの原初形態は二条城の南にある神泉苑に往時の10分の1ほどに縮小されているが、その面影をみることができる。 

 さらに平安時代中期には、仏教文化の影響を大きく受けた浄土庭園が生まれるが、その始まりは、藤原道長が1020(寛仁4)年に造営した無量寿院阿弥陀堂だとされる。その後、浄瑠璃寺、平等院、平泉の毛越寺・観音自在寺などの庭園など数多く造庭された。浄土庭園は末法思想が広まるなか、皇族、貴族は阿弥陀仏などに救いを求め、数多くの仏堂が建立され、その前池を中心として庭園が造営された。極楽浄土をこの世で再現するというのが造庭の基本テーマになっている。池泉を舟または歩いて回遊できる形式をとっているのも特徴である。 

岩手県平泉町 毛越寺庭園

 造園の様式としては鎌倉時代に入っても浄土式庭園の造営は続いたものの、禅宗の影響が強まり、禅寺の書院を中心に水墨山水画のような作庭もなされ、これが枯山水庭園へと発展していく。枯山水庭園は鎌倉末期から室町初期の臨済宗禅僧夢窓疎石により、その様式は完成されたという。京都の西芳寺、山梨の恵林寺、岐阜の永保寺、鎌倉建長寺などの庭園がそれにあたり、上部の傾斜地に枯山水、龍門瀑が組まれ、下部の平坦地に池泉を配する作庭となっており、屋内から鑑賞する構成になっている。夢窓疎石の作庭ではないが、大徳寺塔頭大仙院、龍安寺なども枯山水庭園として知られる。また、室町から安土桃山時代には茶の湯の誕生により、千利休が確立した侘び寂びの世界を庭に映した簡素な造りの茶庭(露地)が盛んに築庭された。現在も各地の寺院、文化施設に江戸期以降に造園された茶庭はあるが、千利休が関わったことが確実なものとしては、京都府大山崎町の妙喜庵(国宝)に現存している。この茶庭が京町家の坪庭に繋がり、現代でも住宅や旅館の和風庭園に取り入れられることが多い。 

山梨県甲州市 恵林寺

 また、鎌倉から室町時代にかけては武家の邸宅としての建築様式である書院造が確立され、部屋の仕切りを多くすることが可能な室内構造となり、部屋の用途も多様化した。庭園もその建築様式に沿って造営されるようになり、部屋の用途に応じ室内の着座からの視点、座観性を意識して池泉、枯山水、茶庭など多様な造園様式を取り入れた庭づくりがなされるようになった。銀閣寺(慈照寺)に端緒がみられ、その完成形が二条城二の丸庭園だといわれている。 

 〇大名庭園の誕生 

 江戸時代初期から中期には、安定した経済社会のなかで、日本の庭園は完成期を迎える。桂離宮や修学院離宮など、それまでの日本人の造園に対する思想性や作庭技術を集大成したような庭園が造営された。一方、この時代に至るまで京都中心であった庭園文化は、江戸における大名庭園の誕生によって大きな結節点を迎え、小堀遠州守政一(近江国小室藩初代藩主)などの手で江戸のみならず全国各地に広大な庭園が造られ、造園技術がより一層発展した。 

京都府京都市 桂離宮

京都府京都市 桂離宮

 そこで、江戸時代に生まれ、発展し、近代の都市公園へつながっていく大名庭園の発展プロセスをもう少し詳しく追いかけてみたい。 

 大名庭園は、江戸に徳川家康が開府し、全国の大名たちが武家屋敷、藩邸を設けたことを契機に、各藩邸内に接待、交流の場として庭園が設けられたことに始まるという。とくに江戸城、江戸市街の大半を焼き尽くした明暦の大火(1657年)により、防火帯の設置など江戸の防災計画に沿って寺院や大名屋敷などの移転とともに、従来の藩邸(上屋敷)とは別に広大な敷地の下屋敷が下賜され、これが府内に多くの大名庭園が造営される要因ともなった。 

 1929(昭和4)年発行の東京市史稿遊園篇では、江戸開府前の状況について、神社仏閣の境内や名勝、景勝地の整備が徐々になされていたことを記したうえで、史書にあらわれる庭園の最初の記事は、文明年間(1469~1487年)当時の太田道灌築城の江戸城について記した「左金吾源大夫江亭記」だとしている。それによると、楼館が建ち、「翠壁丹崖 屹然以高峙 珍卉佳木 蔚然面中秀(緑の木々と赤い地肌の崖が屹然と高くそびえ立って、珍卉佳木が一面に繁茂し秀でた光景になっている)」とした記述があり、これにより江戸城内に庭園があったのではないかと、推測している。 

 しかし、明確な記録として「東京市史稿」が取り上げているのは、1623(元和9)年の尾張藩徳川義直藩邸への第2代将軍徳川家忠の臨邸に関する記事で、詳細な庭園の描写が「東武実録」などに記載していることを紹介している。同時に将軍の臨邸は慶長年間(1596~1615年)から盛んに行われており、「偃武(えんぶ・武器をおさめる)當初、政略上之ヲ必要トシタルガ爲ナル可シ 従テ大諸侯間ニ第邸ノ壮観ヲ競フ者出デ」なおかつ「秀忠花卉ヲ愛シ、林泉ヲ喜ブニ因リ、庭園ヲ修ムル者漸ク多キヲ致ス」という状況だったという。すなわち、徳川家が支配体制を固めるため、江戸に集めた諸大名の邸宅を訪問し、その折の歓待のために庭園が築造されたというのである。 

 徳川義直邸の庭園は、家忠が来駕し「捨露路ノ御クツロギ所ニ於テ御下輿有テ、内露路ニ渡御アリ。御相伴ノ三輩(徳川頼宣、頼房、藤堂高虎)供奉、数寄屋へ入御」したとしており、「若干ノ庭園設備アリタルヲ推スル足ル」とし、茶庭が中心の造りの庭だったことが推測できる。また、白幡洋三郎は「数寄屋」とはべつに「御クツロギ所」があるので、当時の茶事にかなった程度の建物が庭園にあるとすれば、それほどの規模とは考えらず、「のちの大名庭園のような大規模な回遊式庭園ではなかったことはわかる」としている。 

 さらに、1629(寛永6)年には江戸城西ノ丸に茶庭(露路)の造営が行われ、その指図に小堀遠州があたっていることが、「東武実録」に記されている。同年には水戸藩主徳川頼房が小石川に邸地を拝領し、「館第ヲ起シ、林泉ヲ築造」し、これを子の光圀が竣工させ、「後楽園」と名付けることになるのである。ここにも家光が1636(寛永13)年に臨邸している。また、加賀前田家の本郷邸(現在は東京大学本郷キャンパス)が築造され、園池が設けられたのもこの頃で、将軍家の臨邸もあり、後にこの庭園は育徳園と称された。この時期の将軍の大名屋敷への臨邸は枚挙のいとまがなく、邸の築造と共に築庭もなされたが、多くは茶庭および小規模な池泉回遊式庭園だったと思われる。 

 白幡洋三郎によれば、「初期の大名屋敷の庭園は、茶事を楽しむにしても山中の谷川の水を汲む趣向を取り入れたり、山間のわびしい茶屋を舞台として行うような装置だった」とし、建設途上の江戸の環境に制約されたものであったため「のちに『大名庭園』として誕生する明るくのびやかな空間は優勢でなかった。芝生と池によって広々とした開放的な景観」とするような造園ではなかったと指摘している。 

 これが大きく変化するのが、前述のとおり明暦年間(1655~1657年)以降となる。明暦の大火以降、大名屋敷の組み換えや寺院の移転に伴う移転先での境内及び景勝地の整備が行われた。多くの大名に上屋敷以外にも中屋敷、下屋敷の広大な別業地が浅草、本所、三田、芝、麻布、目黒、大塚、駒込、染井などの江戸の城下より離れた地にも下賜された。なかでも1670(寛文11)年に尾張藩主徳川光友は和田戸山(現在の戸山公園)の地を別業地として約8万5千坪を拝領し、お抱え屋敷分の約4万6千坪と合わせ、約13万1千坪の広大な敷地に邸宅と築園がなされ、戸山荘と称していたという。 

 この庭園は内庭と外庭に分かれているが、美術史家の岡畏三郎によると内庭は「外庭に比較して石を多く使用してをり、又樹も色々に形を造られてゐる。此の御庭に限りて下草の翠ふかく落付いた庭園を構成してゐる」とされ、広大な外庭については「中央は大池にて、池の西北は大原と呼ぶ丘陵が大部分を占め、池の北側は舊鎌倉、川越の兩街道が入り込み、附近は神社佛閣、数寄屋等配置され樹木多く後年は古木欝蒼として、地形は起伏あり庭園の東北隅は上田地、下田地と稱し穴八幡に接し後々まで 田畑のままに置かれた様である」としているので、自然地形や従来あった神社仏閣、民家をそのまま取り入れている。大名庭園の広大化を示す端緒の事例と言って良いだろう。 

 さらに、少し遅れて、柳沢吉保が駒込に別業地を1695(元禄8)年に拝領し、1702(元禄15)年に修造した六義園は、戸山荘ほどの広大さはないものの、白幡の言う「遊び心を備えた装置」が用意され、その後の大名庭園のひとつのプロトタイプともなっている。それは、明暦以前にも和漢の名所を見立てた景観づくりも行われていたが、六義園では、「遊び心」として和歌をイメージした名所を随所に設け、回遊しつつ「和歌の道に遊ぶのと同じであり、この庭園でさとる人は、和歌の道理をさとる」ことができる庭園として造られたと、白幡は分析している。 

 このような江戸での大名庭園の造園形式の変化は、諸大名の国元での庭園造りにも大きな影響を与えた。江戸での幕府や政治的な駆け引きの場として招待、接待、交流に活用されてきた大名庭園から、もちろん藩主自らの趣味趣向の実現という側面はあるものの、領国支配も意識した庭園造りが国元で盛んに行われるようになった。 

 国元での大名庭園として知られるのが金沢の兼六園(築庭着手1676(延宝4)年、「兼六園」命名1822(文政5)年)をはじめ、岡山の御後園(築庭着手1687(貞亨4)年 竣工1700(元禄13)年 後楽園の名は明治以降)、高松の栗林園(17世紀前半から逐次築庭、栗林園の名の成立は1746(延享3)年)、熊本の成趣園(17世紀前半から逐次築庭、1670(寛文10)年頃竣工、水前寺公園の名は大正期から)、さらに時代が下って白河の「南湖」(1801(享和元)年築造)、水戸の「偕楽園」(1842(天保13)年開園)など数多くある。 

石川県金沢市 兼六園

東京都新宿区・渋谷区 新宿御苑

 この時期以降の大名庭園の特徴については、白幡洋三郎は「雄大な広がりを感じさせる装置」として「泉水(池泉)」と「芝生」が造園の中心となっていること、和漢の名所を見立てた景観づくりで「回遊を楽しませ、話題を提供する園内の造形」を構成していることなどを指摘している。また、広がりを持った庭園は、借景にも効果を挙げている場合も多く、それまでの日本の造園技術、石組や露路なども総合的に取り入れ配置されていると言えよう。これらの造園の意図の中に、御成や外交的接待、家臣団への饗応など観賞的な庭園だけではなく、実用性も意識されていると言われている。この点が京都を中心とした造園の考え方との違いと考えてよいだろう。 

 〇大名庭園と都市公園 

 大名庭園は、明治期に入ると、一部は近代化の流れの中で多くは消滅していくが、いくつかの大名庭園は大衆にも開かれた都市公園、あるいはその一部として維持再生されていくことになる。 

 都市公園については1873(明治6)年1月太政官布達第16号で、「三府ヲ始人民輻輳ノ地ニシテ古來ノ勝區名人ノ舊跡等是迄群集遊観の場所(東京ニ於テハ金龍山淺草寺、東叡山寛永寺境内ノ類京都ニ於テハ八坂社、清水ノ境内嵐山ノ類、總テ社寺境内除地或ハ公有地)、従前高外除地ニ属セル分ハ、永ク萬人偕楽ノ地トシ公園ト可被相定」として、初めて定義されている。この中には「群集遊観ノ場所」ではなかったが、一部の大名屋敷、庭園、敷地が「公有地」として開放されることにもなった。 

 これは欧化政策の一環として、西欧の都市公園にならったものだが、西欧の都市公園の本質は「16-18世紀ごろ英国で王室や貴族の占有地であった大庭園を市民の要求から一般に開放し,パブリック・パークと呼ばれたのに始まり」(平凡社「百科事典マイペディア」)だとされ、市民の能動性と公共性(パブリック)が重要なファクターになっているが、日本ではこの時点では上から与えられた形となり、日本の都市公園は、まだ本来の都市公園の位置づけには至っていない。 

 現在の都市計画法では、公園の設置目的を「人々のレクリエーションの空間、良好な都市景観の形成、都市環境の改善、都市の防災性の向上、生物多様性の確保、豊かな地域づくりに資する交流の空間の提供である」と定義し、都市機関公園、大規模公園、国営公園、緩衝緑地等細かく種別と内容を規定しているが、先に挙げた明治の太政官官符では、「群集遊観の場所」で「永ク萬人偕楽ノ地」であると目的として絞られており、公園の役割、機能が拡張されている。 

 こうした近代に入ってからの日本の庭園、公園のあり様の変化の中で、当然ながら大名庭園も御成、外交的接待、家臣団饗応など造園したもともとの内向きの目的から、一足飛びに近代的なパブリックな都市公園に切り替わったわけではない。 

 その過渡的な存在として、白河藩の「南湖」や水戸藩の「偕楽園」にみることができる。 「南湖」は1801(享和元)年に「白河古事考」によれば、「白河城の南在、初は古き堤あとありと雖も、葦茅生茂り莽々たる地にて顧る人も無りしを、定信公見給て、有司に開鑿を命し給しに、近郡に希なる勝地と成、人工を用ゆること纔(わずかに)にして、功は大也。此水を灌て新田を開き、新に村居する人も出来ぬ、此沼を歌よむ人は關の湖と云ひ、詩なんぞ作る人は南湖と呼び、此湖の邊に花楓を植、雅名を命して、文化年中諸國の名人の寄題を求て、其賞を益しぬ」として、新田開発のために大沼を開削し潅漑に用いるとともに景勝地としたというのである。湖畔を修景し、「士民共楽」の理念のもとに湖畔には庭園との囲いを設けず士民に出入りを自由にできるようにした。湖畔には茶亭の「共楽亭」設け、定信は和歌にこの茶亭について「やま水の高きひきき(低き)も隔なく共にたのしき圓ゐ(円居)すらしも」を詠み、「共楽」の志を示した。南湖の名は、唐代の詩人李白が洞庭湖を詠んだ 「南湖秋水夜無煙」とされ、「共楽」の方は貝原益軒の「民の司となる人、我一人楽しみを好むべからず。民と共に、楽しむべし」によったのではないかという。  

 このように南湖は松平定信の領国の支配の善政のひとつの好例といわれるが、実際に「共楽」や「円居」ができたかというと、定信は江戸在府が長かったためほとんど行われなかったともいわれ、さらに歴史学者の高澤憲治は、天明の奥羽飢饉以後の不安定な経済社会の不安定化に対し「内実は家臣を慰撫して、自分に対する不満を逸らすとともに、民衆を懐柔して蜂起を予防する狙いがあったのであろう」ともしている。 

 松平定信は、江戸においては築地の浴恩園、江戸大塚の里六園、白河城内の三郭四園、江戸深川海荘の4つの庭園を造営し、庭園に関して一家言を持っており、「ひろき庭は、もとより地勢にしたがふ計なり、わが心にたくはふる事なく、池ほるべき地勢ならば池を作るべし、かまへて池をつくり、田を造らんと,しひてはかれば,似あはぬ景色ぞ出来る」とし、あるいは「石にも海と山とのたがひあり、せばき庭ならばともあれ、広くばその地勢をかうが(勘)へてつくるべし。水など流るゝならば、山河のやうにし、滝おとしなどつくらば、手ごろの石は、わけもなくたゞ高くなげあげて、おつるときのおのづからの姿にまかすべし」と南湖造営につながる考えを示している。さらに、この南湖は祖父の吉宗が行った飛鳥山の景勝地整備などにならい、庶民の「群集遊観ノ場所」を設けようとした意図があったのであろう。この点は、先人たちの施策を踏襲しつつも、「共楽」「円居」という新しい理念を試したのではないだろうか。 

福島県白河市 南湖公園

 一方、水戸の偕楽園は水戸藩主徳川斉昭が水戸城下の千波湖を臨む高台に1842(天保12)年開園した庭園である。斉昭が示した偕楽園を創設した理由と利用の心得を記した「偕楽園記」では、善行を目指す人は「四端を拡充して以てその徳を修め、六芸に優游して以てその業を勤む。これその習は則ち相遠きものなり。然してその気稟或は斉き能はず、ここを以て屈伸緩急相待ちてその性命を全うするもの」(四つの道徳⦅仁・義・礼・智⦆を修め、六つの教養徳目⦅礼法・音楽・弓術・馬術・書道・算数⦆を学び、職務に励む習慣によって君子となるが道は遠い。生まれつきの気質も人それぞれだ。そのため⦅屈伸緩急⦆があって生命を保全されるもの)なので、「一張一弛」、すなわち頑張る時とリラックスする時が必要だと説いた。さらに、昼夜怠らないで、徳を治めて、仕事を励めば余暇には友人知人と「悠然として二亭の間に逍遙し、或は詩歌を倡酬し、或は管弦を弄撫し、或は紙を展べ毫を揮ひ、或は石に座して茶を点じ、或は瓢樽を花前に傾け、或は竹竿を湖上に投じ、唯意の適する所に従ひ、而して弛張乃その宜しきを得ん。これ余が衆と楽しみを同じくするの意なり。因ってこれに命じて偕楽園と曰ふ」(二つの亭⦅好文亭と一遊亭⦆でゆったりとした時間を過ごすとよいだろう。また、詩歌、管弦、書画を嗜み、茶を点じ、花を愛でつつ酒の盃を傾けたり、釣糸を垂れたりして、各々が気ままに過ごせば、心身の弛張もバランスがとれ、よい保養となるだろう。このような楽しみ方をみんなと共にしたいと私は思い、この園を「偕楽園」と名付けた)と、偕楽園の開園の趣旨を述べている。 

 「偕楽園」の名は孟子の梁恵王篇上に「文王以民力為臺為沼 而民歡樂之 謂其臺曰靈臺 謂其沼曰靈沼 樂其有麋鹿魚鼈 古之人與民偕樂 故能樂也」(文王⦅周⦆は人民の力をかりて庭と池とを造られたのでありますが、人民は迷惑どころか喜び勇んで、庭を「みめぐみの園」池を「みめぐみの池」と名づけ、園の大鹿小鹿・池の魚や亀を見て楽しみました。すなわち昔の聖王は人民と偕⦅とも⦆に楽しまれたので、よく楽しむことができたのであります=「新訳孟子」穂積重遠)とあるところからとったという。つまり、統治者としての徳をもって「一張一弛」の場を造れば、民とともに楽しむことができるということなのであろう。 

 これからみると、斉昭の理念の新しさは民を含め「一張一弛」という心身のバランスをとる場としての庭園の意義を取り入れたところで、これは評価すべきだろう。ただ、実際のところ、この庭園の開放は、身分別に定められた日に行われていたとされるので、必ずしも理念が全面展開されたわけではない。 

茨城県水戸市 偕楽園

東京都葛飾区 水元公園

東京都江東区 猿江恩賜公園

 ちなみに同じ「楽」が入っている「後楽園」であるが、宋の范文正の『岳陽楼の記』にある「先天下之憂而憂、後天下之楽而楽」(憂うることは人に先だって憂い、楽しむことは人に遅れて楽しむ)から来ており、国を思う忠臣のあり方を問うもので、偕楽や共楽とは立ち位置が全く異なる。 

 このように南湖にしろ、偕楽園にしろ、幕藩体制の揺らぎや商品経済による経済社会の変化のなかで、封建的領国支配の維持していくため、儒教的な理念を動員しての町人、農民の懐柔策あるいは取り込み策の数少ない手駒の一つだったのだろう。南湖について上安祥子は「『共楽』は、君主と民とがともにするだけではなく、居合わせた人びと同士が円居してともにたのしむ、という理念をあらわしていた」と指摘してはいるものの、江戸期末期には、まだ近代的な身分関係も確立しておらず、かつ、庭園の造営の主体もあくまでも封建領主であった以上、近代の都市公園の重要なファクターである公共性(パブリック)が確保されていたとは言い難い。「偕楽園」も「一張一弛」など理念的には新しさは取り入れられ、開明的ではあるものの、当然ながら儒教的な支配論理の範疇であることは「南湖」と同様と言えよう。しかし、クローズドであった大名庭園から踏み出し、近代的な都市公園に向け、儒教的な理念という限界性を有しつつ公共への萌芽とハード面での橋渡しという意味では重要な庭園だったといえよう。 

 いま、あらためて「日本庭園」を観光の視点から見てみると、これまでの述べた歴史的背景と多様な形態を有し、なおかつ、庭園史の研究者西桂が整理したように「神秘的風景式庭園」の中国庭園や「写実的風景式庭園」の英国庭園に対し、「象徴的縮景式庭園」とする独特の世界観、造形思想がみられる「日本庭園」は、まさしく、海野泰男が指摘しているように「日本文化の根本的な特質」を有することから、自ずと観光資源としてその価値は極めて高いといってよいだろう。 

 それだけに、いわゆる欧米的な、あるいは近代的な都市公園とは別の楽しみ方がもっとあるのではないだろうか。折角の日本庭園の観賞においては、その庭園の歴史的位置づけや芸術性、造園技術のレベルなどが観光客にとっては分かりにくいことも多い。このあたりのガイドを単に各庭園、公園施設に任せるのではなく、全国的に官民学が連携して「日本庭園」とそれを継承する一部の都市公園についての資源分析と評価マッピングなどが作成されると、より一層深い関心と理解を広めることができるではないだろうか。 

 さらに、観賞だけではなく、かつて「大名庭園」などで行われていた饗宴の場として利用していたという実用性の観点に着目した利用方法ついても、一部では試行はされてはいるものの、もっと活用の範囲を広げることも必要ではなかろうか。もちろん、利用と保護は相反するし、とくに寺院庭園や書院庭園では大衆的な利用にも困難性はあるものの、「大名庭園」などでは、本来の意義を発揮するためにも、さらなる研究が必要だろう。 

 

引用・参考文献

筆者

典然

観光関係の調査研究機関をリタイヤして、気儘に日本中を旅するtourist。
「典然」視線で、折々の、所々の日本の佇まいを切り取り、カメラに収めることがライフワーク。「佇まい」という言葉が表す、単に建物や風景だけではない人間の暮らしや生業、そして、人びとの生き方を見つめている。

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