[Vol.32]門前町の盛衰

〇門前町と重要伝統的建造物群

 成田山新勝寺の表参道は、東日本では、もっとも門前町らしい町並みになっていると思う。 JR、京成の成田駅近くから表参道は800mほど穏やかなカーブをとりながら続き、その半分ほどを歩くと、緩やかな下り坂に入る。石畳風の舗装に整備された参道は、前半は一般的な商店街と同様、チェーン店や銀行などの店舗が並ぶが、真ん中辺りの薬師堂をすぎると、お土産屋、和菓子屋、漬物屋や、なんといっても成田名物のうなぎ屋の店舗が並ぶようになり、建物も歴史を感じさせるものやそれに合わせた店づくりがなされたものが多くなる。  

 さすがに年間参拝客が1000万人ほどになる、成田山らしい、極めて整備された参道といえよう。全国的にも、京都を除けば、伊勢神宮、善光寺、琴平、出雲大社、浅草などと比べても門前町の町並みとして遜色がない。 

 しかし、成田山もそうだが、門前町はどこも、いくつかの歴史的建造物はあるものの、意外に新しい町並みであることに気付くことが多い。また、当該の神社仏閣はそれなりに参拝客があるものの、門前町として体をなしていないところや他の都市機能に呑み込まれ、わずかに門前町の痕跡程度の町並みも見られる。

 このことは、国の重要伝統的建造物群が全国で123ヶ所(2020年末現在)選定されているのにも関わらず、門前町としては京都の産寧坂(さんねいざか、「三年坂」とも称されている)と嵯峨鳥居本の2か所のみであることからも分かる。里坊群や宿坊群との組み合わせで大津の坂本と長野の戸隠や、寺町、寺内町などの指定は数か所があるものの、門前町が単独で指定されているのは、極めて少ないと言えよう。

 なぜ、このように門前町は歴史的な町並みが残りにくかったのかをいくつかの門前町を取り上げながら、門前町の歴史意義とこれからのあり方について、観光という視点も入れ考えてみたい。

成田山新勝寺参道

 まず、京都で重要伝統的建造物群として選定されている2ヶ所の歴史をみると、産寧坂は、東山山麓で平安京以前からの歴史遺産を有する地区だが、清水寺、法観寺(八坂の塔)、祇園社神感院(現・八坂神社)などの門前の集落として始まり、江戸時代中期以降に「これらの社寺を巡る道に沿って市街地が形成」され、さらに明治・大正時代にその市街地が拡大した。「現在の道に沿って建ち並ぶ茶店や伝統工芸品を商う店は、近世の名所巡りの系譜をひく」とされている。

 また、嵯峨野の西北に位置する鳥居本地区は、室町末期頃から農林業などの集落として開かれ、「江戸時代中期になると愛宕詣の門前町としての性格も加わり,江戸時代末期か ら明治・大正にかけてこの愛宕街道沿いには,農家,町家のほかに茶店なども建ち並ぶようになった」という。

 この2ヵ所の門前町に共通した歴史的な流れは、元となった集落は平安期や室町期から開かれていたが、江戸中期以降から門前町としての町並みが整備され、明治、大正の近代に入って一定の市街地が拡大したということだ。この2つの町並みが残されてきた理由はもちろん、地元の人々の門前町としてのビジネスとして取り組みと伝統継承への熱意などに支えられたものだが、客観的視点として推論してみると、まず、産寧坂地区は、なんと言っても周囲に古くからの有力な神社仏閣が並んでおり、その巡拝路にあたったこと、また、都の東郊にあたり信者が繰り返し訪れ、古くからの門前町の経済が支えられたこと、そして地形的に尾根筋の道で商業地が平面的に広がらず、圧倒的な都市化に巻き込まれなかったこと、などがあげられるだろう。

 鳥居本地区の方は、産寧坂地区ほどではないものの、古来、葬送の地であった化野や全国の愛宕神社の総本山のお山であり、参拝客が継続的に維持されたこと、また、門前町と言っても都の郊外の山間であったことから、集落の半分ほどは農家であり、参詣参拝客頼りだけではなく、経済構造がバランスと取れていたこと、また、沢沿いの地形は極端な市街化を妨げたことなどが、旧来の集落構造が継承された理由に挙げられるだろう。

 

京都鳥居本

 それでは、門前町として重要伝統的建造物群レベルの古い町並み自体は残らずとも、門前町としてそれなりに機能している町はどのような経緯があったのだろうか、見てみたい。 まず、年間の参拝客数が平年でも延べ約700万人、数えで7年1回の御開帳に際しては、4月、5月の2か月間で600万~700万人が訪れるという善光寺の歴史とその門前町の盛衰をみてみよう。

 善光寺は、「善光寺縁起」によると、602(推古天皇10)年に信濃国伊那郡宇招(沼)村麻續里(現在の飯田市か?)の住人、本田善光父子が国司交代のお供で都に上がった際に難波の堀江あたりで「自水底光物飛上取付善光肩(水底から光る物が飛び上がって善光の方に取り付いた)」とし、それが三国(天竺、百済、日本)伝来の阿弥陀如来像であったという。善光はこれを肩に背負って、信州伊那に戻り安置し崇敬したが、642(皇極天皇元)年にお告げがあり、水内郡芋井郷(現在の長野市)に遷座したという。奈良・平安・鎌倉・室町時代を経て大集落が形成され、門前町が整えられた。この間も、火災などで堂宇は失われたが、その都度、源頼朝などの有力者によって再建され、寺領の寄進も受けた。15世紀半ばに書かれた合戦記「大塔物語」には、15世紀初頭(室町前期)の善光寺門前の様子を「三國一之靈場ニシテ、生身ノ彌陀ノ浄土、日本國之津ニシテ門前ニ市ヲ成シ、堂上花ノ如ク、道俗男女、貴賤上下、思々心々ノ風流、毛擧ニ遑アラズ(あまりにたくさんあるので、細かいことまでいちいち数えきれない)」と描写している。また、「傾城白ラ拍子、夜發之倫(売春婦のたぐい)、紅紫之色ヲ纏ヒ、蘭麝ノ薫(よい香り)ヲ染テ、此コ彼コニ留連シテ(夢中になって)窺(ウカガ)ミヒル所モアリ、又由有ル女房ノ英雄者(は)、簾之際ニ莅(臨)ミ、立チ忍フ美女之隠レテ 嬖惑(ヘイワク・あやしき)風情モ有リ、其外異類異形之見物衆雲ノ如ク霞ニ似タリ」と怪しげな場所も門前にあったことが記されている。

 しかし、この地は戦国時代には上杉・武田がその所領を争うところとなり、1555(弘治元)年に武田信玄によって本尊を始め、多くの寺宝が持ちだされ、1598(慶長3)年に戻されるまで荒廃を極めたという。

 江戸時代に入り、徳川家から寺領千石が寄進され、再建が始まった。再建費用充当のため、前立本尊の出開帳(回国巡歴)を繰り返し行い、1700(元禄13)年の火災などの不遇はあったものの、1707(宝永4)年に堂宇伽藍が落成した。これが現在の本堂として残され、国宝に指定されている。

 この再建時などの出開帳が、結局は善光寺信仰を広める役割も果たし全国に善光寺講が組織され、多くの信者を集め門前町も復興した。出開帳と周年での開帳は、広布教化活動という意味合いだけでなく、ここ善光寺のみならず江戸期の寺院経営のひとつの大きな財源でもあった。

 江戸期に復活を遂げた善光寺の町について、1849(嘉永2)年発刊の「善光寺道名所図会」では、1847(弘化2)年の善光寺地震による被害は甚大であったが、それでも「大門町後丁新田町石堂丁など北國街道の順路なり 商家軒を継ぎ旅舎多し 名産牛皮餅銅細工の店多く 其外果肴(くだものさかな)飲食器財等冨有なる事 自由ならずといふ事なく 男女の風俗及び言語迠(まで)も東都の意氣なりて繁昌の佛都といふべし」という繁栄ぶりを挿絵とともに記している。また、多くの文人も訪れており、信濃町柏原が出身地である小林一茶も参詣し「春風や牛に引かれて善光寺」や「開帳に逢ふや雀も親子連」などの名句を遺している。

 一方で、善光寺の門前町は、長野盆地(善光寺平)の中央で千曲川や犀川の合流点にも近いという地理的条件から、中世以来、北國街道の重要な宿場町であり、また、薪、塩、穀物の集散地でもあったため、定期市が開かれ商家も建ち並んでいた。たびたびの火災や戦乱、地震にみまわれ、さらに本尊、寺宝まで持ち去られる時期があったにも関わらず、門前町という機能と宿場町、物資の集散地という役割が互いに補完しながら、街区は幾度となく再建復興がなされてきた。

 善光寺門前町の特色として笹本正治が分析しているように「善光寺門前町の形成に当たっては、領主側の権力よりも町人たちの自発的な意識が強かった。善光寺に参詣に来る民衆と、善光寺そのものや僧侶たちを相手にして職人や商人が周囲から集まり、自然と町が形成」されたといわれ、江戸の都市政策によって生まれた側面のある浅草などの形成過程とは対照的と言っても良いのではないだろうか。

 1871(明治4)年に廃藩置県によって長野県が誕生し、1876(明治9)年には南信地域も合併し、善光寺を中心とした長野町は長野県の県都として地方行政の中心的役割を果たすようになり、門前町に交通、物流の要衝という機能とともに、地方政治都市の色合いも濃くなった。これらの諸因によって消費都市という側面が強くなって都市機能の中での門前町の役割は相対的に減少したといえよう。

 この時期には善光寺が寺院としての最大の危機も迎える。明治期初頭の神仏分離政策とそれに伴う廃仏毀釈の運動の高まりである。当時善光寺の門跡は伏見宮家の親王であった 誓圓尼であったが、門跡制度の廃止の中、仏弟子としての立場を守り、還俗せず、この嵐から善光寺を守り抜いた。ちなみに善光寺との関係の深かった戸隠山顕光寺は戸隠神社に転換した。

 廃仏毀釈の波を越え、善光寺は、現代に至るまで、多くの信者や観光客を集めているが、門前町としては、一部の街区には、歴史ある建物がそれなりに残ってはいるものの、いずれも幕末の善光寺地震以後のもので、明治、大正、昭和期のものが多い。全体としては近代化された地方都市として整備されており、門前町的な雰囲気を醸し出している所としては余り多くないと言えよう。

 これは、明治期以降、善光寺講などの信者の集団参詣は漸次減少し、観光客の立ち寄り参拝が多くなったこと、近世における宿場町、物資の集散地としての役割の増大、近代的な地方の政治都市、消費都市としての長野市の機能が相対的に多くなり、近世近代、一貫して周辺からの住民の流入が続き、流動性も高く、地域経済の中での門前町として影響力が減少したことによるのだろう。

 現在、観光における門前町の再評価が始まっていることから、長野市も歴史的建造物の保全や町並みの整備に努力をしているが、必ずしもかつての門前町機能が全面的に取り戻されているわけではない。しかし、このことを否定的に捉える必要は全くない。そのことは、成田山新勝寺の門前町や浅草を例にとってみても同様のことが指摘できる。

 

 

長野市善光寺本堂

〇時代の変遷と門前町の役割変化 

 成田山新勝寺の門前町や浅草を例にとって、門前町の変遷と役割の変化を追ってみる。

 成田山新勝寺は開山縁起によれば、939(天慶2)年に起こった平将門の乱の平定祈願に始まると言われ、乱平定後、天皇の勅願所として公津ヶ原(成田市内)に開山したという。その後中世には、源頼義やこの地を治めていた千葉氏に保護されたが、戦乱などにより一時は荒廃していたといわれ、1566(永禄九)年に現在地に移り再興された。

 このため、江戸期に入り、徐々に諸堂の再建がなされたものの、成田の町は香取、鹿島方面への街道筋として、また、農村地帯として小さな集落があった程度で、門前町は形成されておらず、宿屋もなかったという。1674(延宝)年この地に水戸光圀が立ち寄った際の記録が記されている「甲寅紀行」では「成田村に到る。成田山に詣でて不動を拝す。石坂少許を上り、本堂あり」と素気にない記述で、宿泊も酒々井の宿にしている。

 1701(元禄14)年までには、諸堂堂宇が再建され、1703(元禄16)年には、江戸で出開帳も行われたことにより、一気に参詣者が増えたという。それには、初代市川団十郎が成田山の本尊への祈願によって跡継ぎに恵まれたことなどを縁に歌舞伎の演目でも成田山を取り上げたことも大きかったともいう。

 これ以降、門前町が急速に形成され、善光寺講や大山講と並んで人気のあった成田講が組織され、多くの参詣客が訪れた。1798(寛政10)年に書かれた紀行「成田の道の記」(著者不明)では、江戸から酒々井宿を経て成田街道で成田山に向かい、「石田村(飯田村か?)」を経て一里余りで「此の前より成田の入口と見ゆ。此の坂より両側に商家あり。宿屋數々あり。坂下に猶はたごや(旅籠屋)あまた。是より左手成田山の境内、弐拾間ほどにて山門あり。敷石の間に御手洗いあり。石橋かかり、両方の森茂れり。石垣を余程上がれば本堂前に定香(静かな穏やかな心を持つよう決意するための焼香場所)あり」として、門前町の整備が進んだことがわかる。

 また、文化文政期(19世紀前半)の津田十方庵の「遊歴雑記」では、「當所を成田村とはいへど、今は能(よく)町並みと成りて、西の坂口より東の出外れ迄四町半、家居軒を並べ、繁昌にして萬辨利(よろず便利)なること片鄙とは思はれざるし」と繁華ぶりを記しており、さらに「参詣群がる事蟻の行道の如く、その繁昌浅草寺観音の面影あり…中略…實にもかかる僻地に、善盡し美盡したる花麗の堂舎、又男女老少の群集せる様、又尼店(あまた)の商人より、市中の繁花なるは、下総の壮観ともいはんかし」とも評している。1843年(天保14年)の記録では旅籠32軒や居酒屋20軒などの商店が建ち並ぶようになったとされ、まさに繁華な門前町へと発展した。

 しかし、ここでも明治初頭の廃仏毀釈の嵐に巻き込まれ廃寺の危機に遭遇し、「我国神代の不動尊(うごかずのみこと)」を祀っているとして切り抜けたが、参詣客の落ち込みは激しいものがあったという。「千葉銀行史」によると、前身の銀行のひとつ「成田銀行」設立に関連して「明治期に入ると廃仏毀釈の風潮などから町勢(成田町)は不振であった。そこで、新勝寺住職らは、寺と町の繁栄のため下総鉄道(のちに成田鉄道と改称)を興して、佐倉〜成田〜佐原間の鉄道(現・JR成田線)敷設を進めるとともに、銀行設立を計画した」という。成田鉄道は、佐倉~成田間は1897(明治30)年、成田~我孫子間は1901(明治34)年に開業しているが、この成田線建設が促進されたのは、日清戦争に関連した兵員輸送のため、軍部の後押しが強かったことも付け加える必要はあろう。

 その後、この鉄道の敷設や講組織の立て直しにより、参詣客は戻ったが、一方では、都心からの利便性が増したことで、日帰り客が増大したため、宿泊需要は激減することになる。また、交通インフラの整備は、とくに第2次世界大戦後は、成田の町全体が、首都圏の郊外都市としての役割が強まり、講中の信者数も減少し、観光として訪問、参拝する客層が多くなった。このため、門前町もその需要に対応した店舗に入れ変わり、一般商店化するものも多く、古い建物はあまり顧みられなくなった。

 しかし、1990年頃から観光としての地域の再活性の中核として、新勝寺と門前町が見直され、新しい門前町の景観統一事業が始まり、成田駅前から新勝寺までの表参道の現在の町並み景観が形成された。その意味では半ば「作られた門前町」である。

 しかし、「作られた門前町」は、成田山だけではなく多くの「門前町」で見られ、そのことは町の生成、経済活動、都市構造から言って、「門前町」の本質そのものと言って良いのではないだろうか。

 「作られた門前町」という意味では、伊勢神宮の内宮前にある「おかげ横丁」もその典型的な例である。内宮前には江戸時代から「おはらい町」という「鳥居前町」が形成されていたが、第二次世界大戦後、立ち寄る参拝客が激減し衰退の一途を辿った。そこで、1979(昭和54)年頃から官民が協力し電線の地中化や石畳への再舗装などの町並みの整備に取り組み、さらには伊勢神宮名物の「赤福」の製造販売会社(株)赤福が1993(平成5)年には「おはらい町」の中程の一角に「おかげ横丁」を開業し、往時の町並みを再現した。これが現在の内宮鳥居前町らしい賑わいに繋がったといえる。

 これ以上に「作られた門前町」という意味では東京の「浅草」だ。浅草の門前は江戸末期までは、幕府による都市政策のなかで、色町や芝居小屋などの遊興施設の配置に伴い、飲食店や商店が並び、浅草寺の門前町的機能を併せ持った街として発展し、すでに「伝法院から仁王門寄りの店を役店(やくだな)と呼び、20件の水茶屋が並び、雷門寄りは平店(ひらみせ)と呼び、玩具、菓子、みやげ品などを売って」(仲見世HP)いたという。幕府の江戸の都市政策は、防火対策や都心の整備という観点もあって、庶民のアミューズメント、エンターテイメントを郊外に設定したが、それを神社仏閣側も参詣客参拝客のプロモーションに、また、講中の組織化に利用したともいうこともできる。それは神社仏閣が門前町と協力して、出開帳や居開帳、奉納相撲、富くじなどを盛んに行ったことからも分かる。

 また、歌舞伎なども、前述の成田山新勝寺のように神社仏閣まつわる演目を興行に載せた。そのため、琴平のように「金丸座」の常打ちの芝居小屋も建てられた門前町も多かった。その意味では、浅草は門前町として機能を江戸期からもっとも幅広く有してきたところといってもよいのだろう。

 しかし一方では、現在、門前町として雰囲気をもっとも残している仲見世は、明治維新以降の形成されたものであることも認識しておく必要がある。1910(明治43)年発行の「浅草繁盛記」によれば、「旧雷門のありしところより二王門に至る間、七十餘間を仲店といふ。道幅五間餘を全部石にて敷きつめ、両側に煉瓦造りの商店百三十餘戸 あり。もと此地は、浅草寺支院のありしところにて、左右兩側各六院ありき。その二王門に近きところには茶店ありて、二十軒茶屋と稱したりき。明治維新後、支院は或は移り或は絶えて、その跡には露店などならびしが、今の店は、明治十八年十二月に、東京市により建設せられたるものなり」と、廃仏毀釈の流れなかから、行政によって整備された。当時の仲見世では「玩具。絵草紙。煎豆。飴。紅梅焼。和洋小間物。頭髪飾物。袋物。組糸類。」などがすでに販売されており、現在の形に近いものになっている。

 その後、関東大震災により壊滅したが、再建され、戦災にも遭いつつ、戦後に改修工事が繰り返されて現在の形が整えられた。こうした経緯から、建造物や町並みには周辺部も含め、歴史的なものは極めて少ない。

浅草雷門

 このように門前町の発展過程をみてみると、それぞれの町の状況、歴史の違いはあるが、現在の門前町となる基盤は、江戸期に形成、発展したと思われる。江戸末期から明治に入り、廃仏毀釈など日本人の信仰のあり方や、交通インフラの変化、戦災、そして戦後の高度成長経済による社会構造の変化の波のなかで、常に新しい街の形を求められ、町の構造が変化を続けざるを得なかったといえよう。こうした構造的な背景から住民の流動性が高く、経済基盤が弱いため、門前町は、圧倒的に古い建物が残っておらず、重要伝統的建造物群の指定も少ないことにつながるのだろう。しかし、一方では、門前町はこうした変化をエネルギーとして、発展し、新しい文化や創造的な思潮、芸術も生み出して来たとも言える。

浅草仲見世

 とすると、これからの門前町はどうあるべきなのだろうか。

 まず、神社仏閣への信仰に付け加え、神社仏閣の歴史的価値を再検証・再認識し、そこにつながる伝統文化芸術の継承を後押ししていくことだろう。また、門前町のアミューズメント性を高め、江戸期や戦前がそうであったように、芸術文化における時代の先駆けを培養し、若者文化の醸成 の場づくりに努めるべきだろう。

 それには中核の神社仏閣や行政との連携はもちろんのこと、次世代の芸術家やエンターテナーなどに活動する場や機会を提供することなどが必要だろう。それが古くから信仰のサポートと、それに連携したアミューズメントやエンターテイメントで集客機能を果たしてきた門前町の本質ではないだろうか。決して門前町のアイデンティティは、古い町並みにあるのではないのだ。

 

 

浅草門前のエンターテイメント

引用・参考文献

筆者

典然

観光関係の調査研究機関をリタイヤして、気儘に日本中を旅するtourist。
「典然」視線で、折々の、所々の日本の佇まいを切り取り、カメラに収めることがライフワーク。「佇まい」という言葉が表す、単に建物や風景だけではない人間の暮らしや生業、そして、人びとの生き方を見つめている。

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