[Vol.33]「祭り・祭礼」、「年中行事」の変遷と観光

 数年前に国の無形重要文化財となっている「毛馬内の盆踊り」を見た。毛馬内は、現在は秋田県鹿角市となっているが、明治以前は長く南部藩の所領で、米代川に沿って立地し、西に向えば大館を抜け能代や男鹿の日本海側、東にたどれば八戸、久慈方面の太平洋側、北に上ると弘前、南東に下ると盛岡に通じ、古くから交通の要衝であった。また、近世以降は、尾去沢や小坂の鉱山などに近く戦略的にも重要な地区であり、古くから開けた場所である。 

 「毛馬内の盆踊り」は、決して華やかの盆踊りではない。そう長くもない地区内の本通りにいくつかのかがり火を焚き、その周りを最後に数分踊られる「じょんがら」をのぞけば、「大の坂踊り」も「甚句踊り」も哀調を帯びたメロディに合わせ、テンポもゆっくりとした振付である。衣装は基本的には浴衣ではなく、男性は黒紋付の裾をはしょり、水色の蹴出し、胴〆を締めて黄色のしごきを結び、白足袋に雪駄または下駄。女性は留袖・江戸褄・訪問着などの裾をはしょり、鴇色の蹴出し、太鼓結びの帯で、下腰に黄色のしごきを結び、白足袋に草履。男女とも、豆絞りの手拭いで頬被りをするといった、盛装に近い姿で踊る。周囲は街場といっても明かりもそう多くなく、かがり火に照らされた優雅に踊る姿は美しく懐かしいものがある。 

 現在の「毛馬内の盆踊り」の構成としては、まず、祖先供養の意味があるという「大(だい)の坂踊り」から始まるが、この音曲には、歌詞がなく太鼓と笛の囃子のみで踊り、続いて豊作などを祝う娯楽的な「甚句(じんく)踊り」となり、こちらは無伴奏で唄のみで踊る。そして、最後に「毛馬内じょんがら」と称する、「じょんがら節」で、華やかに踊り締めくくられる。いずれの踊りも数か所のかがり火を大きく巡るようにして踊る。 

 この構成については、全国各地に残る「祭り」や「年中行事」と同様、時代の潮流に合わせ、いろいろな要素を取り入れ、変化しながら、現在の形となった。例えば、最初の「大の坂踊り」は、現在は歌詞なしで踊るが、江戸中期には歌詞付きのお囃子と踊りとして成立していたとみられ、歌詞については少なくとも大正期までは歌われていたという記録がある。しかし、その後、唄い手を継承する者がいなくなり、歌詞が抜けたとされている。  

 江戸後期の国学者で旅行家の菅江真澄の採録では「ここは大の阪ヲヤイテヤ七まがり、中のナア曲り目でノヲヲヽヲヽ、日をヤイくらす、 ヲヤサキサイノ ソレヤヤイ。俤(おもかげ)の來てはまくらをしとゝうつ、うつとおもふたりや夢じゃもの。夏蟬は蜘のゐかぎ(クモの巣)に釣るされて、これですぎよか夏なかに。今朝坂で古の女房に逢ました、にくゝは(恥)づかしくねたくや(悔)し。十七八は籠の鳥、籠は小籠であそばれぬ」がこの歌詞だったとされる。この歌詞について、柳田国男は「宮古(岩手県)の海岸で踊っていたのと同じ歌が、鹿角の山村に於いても歌はれ居たのである。大の阪七曲りは多分馬方唄であつたらう」とし、菅江真澄は毛馬内の紫根染の原料を臼に入れ杵でこねる時の「舂女(つくめ)歌」としても同様の歌詞を採録し「盆踊りをおもい出してうたえり」と記している。すなわち、労働歌であったわけだが、その労働自体が機械化により人間の直接的、身体的な動きがなくなったため、唄い手の継承も難しくなったのだろう。 

 「甚句踊り」は、1567(永禄10)年に南部氏が鹿角地域での安東氏との戦に勝利し、毛馬内に凱旋した際に将兵をねぎらうための陣後踊りという説もあるが、歌詞の方は、豊穣祈願、豊作祝祭、郷土の風物讃頌が込められているものが多く、祖先供養の盆踊りに娯楽的要素の踊りが加わり、現在の姿になったのではないかとされている。歌詞は七・七・七・五調になっており、「サーハー甚句踊の始まる時は箆(へら)も杓子も手につかぬ 盆の十六日闇の夜でくれろ 嫁も姑も出て踊る・・・」など、60種類以上もあるとされる。その唄には交流のあった各地の影響がみられるという。 

 最後の「じょんがら」は、徴兵で弘前連隊に行っていた青年たちが大正から昭和初期に持ち帰ったともいわれている。「大の坂踊り」や「甚句踊り」に比べてあきらかに成立は遅く、近代に入ってからであり、付け加えられたものだ。 

 盆踊りの全体構成も、音曲も踊りも衣裳も多くの地域からの影響を受け、江戸期に徐々に形成され、その後、変化や付け加え、省略、中断もあったが受け継がれてきた。比較的古い型式が遺さている「毛馬内の盆踊り」においても、歴史的な変化は大きいものがある。

毛馬内盆踊り像 秋田県鹿角市毛馬内本通り

踊り念仏 一遍聖絵6巻 1299年(正安元年国立国会図書館デジタルコレクション)

 これらの踊りや衣裳、構成の変遷は、同じ秋田県内で、「毛馬内の盆踊り」とは対照的に鮮やかな色合いの衣裳で踊る羽後町の「西馬音内盆踊り」においても見て取れる。 

 「西馬音内盆踊り」の踊り手たちは「端縫い(はぬい)衣装」と「藍染め浴衣」に鳥追い笠や彦三頭巾(歌舞伎の黒子のような頭巾)をかぶるという独特な姿で踊る。 

 まず、前奏としての「寄せ太鼓」で人々を集められ、宵のうちは「地口」で囃される「音頭」から踊りはじめ、夜が更けてくるにつれ、「甚句」にのって「がんけ」が踊られる。これらの踊り、お囃子の組み合わせ方にも歴史的背景が浮かびあがってくる。 

 お囃子は「寄せ太鼓」、「音頭」、「とり音頭」、「がんけ」の4種類を笛、三味線、大太鼓、小太鼓、鼓、鉦などで奏でる。歌い手は「音頭」の時には「地口」を、「がんけ」の時には「甚句」を唄うということになる。 

 西馬音内の盆踊の由来については、とくに記録は遺されていないが、口承によれば、正応年間(1288~93)に蔵王権現(現在の西馬音内御嶽神社)の境内で豊作祈願の踊りが始原とされる。その後、関ヶ原の戦いで敗れた西馬音内城主小野寺氏の遺臣たちの亡者踊りが融合し、さらに現在の本町通りで盆踊りとして踊られるようになったのは、天明年間(1781~88)だったと伝わり、かつては、送り盆の日から5日間も踊ったといわれる。「西馬音内の盆踊り」や他の盆踊りと同様に江戸時代の後期までに現在のような盆踊りの原形は出来上がったと思われる。 

 1907(明治40)年に羽後町を訪れた俳人河東碧梧桐は、「浴衣を著た女の七人連れが現れた。すぐに拍子に乗って踊り出す。編笠を耳で結んだ眞紅の緒が一様に左向いたり右向いたりする、場中に一異彩を放つと見る間に、黒い頭巾で頭から顔へかけて包んだ、他の五六人連も現れる。著る物は思ひ思ひであるが、赤と白とを染め分けた帯がはりのシゴキは、房々と背ろに垂れるのが目立つ。雙手を上にあげる時、腕から先の白く見えるのも綺麗じゃ」としているので、不統一の衣裳ではあったが、華かではあったようだ。 

 それに大きな変化を与えたのは、1935(昭和10)年に「全国郷土舞踊民謡大会」だったという。「西馬音内盆踊り」がこの大会で紹介されることになり、衣装や踊り方が整えられた。とくに女性の衣装は、バラバラであったものから端布を縫い合わせた「端縫い」と呼ばれる風雅な着物、あるいは藍染めの浴衣に白足袋のいでたちという、現在のスタイルに統一し整えられた。つまり、昭和初期に洗練した形に変化したという。ちなみに彦三頭巾と呼ばれる黒頭巾をすっぽり冠るのは、亡者の姿であり、精霊とともに踊るという亡者踊り由縁の面影をここに遺しているともいわれ、華麗な「端縫い衣裳」と対照的な演出効果を与えている。 

秋田県羽後町 西馬音内の盆踊り

絵本常盤草 中巻(町女 盆踊り1731 享保16年)西川祐信 国立国会図書館デジタルコレクション

 他にも、時代に応じた変化や他地域からの影響も数多く見られる。例えば、「音頭」の踊りは、優雅で静かななかにも抑揚があり、上方風の影響が見られ、手指を大きく反らすことが踊りのアクセントとなっている。その「音頭」のお囃子は、まず、朴とつな唄「地口」とともに「音頭」の節が囃され、さらに哀調と高揚感のあるメロディを笛が主役になって奏でられる「とり音頭」の節へとつながっていく。「地口」は、秋田県南部で使われる囃子言葉を意味する単語で基本的に「8、8、9、8、8、9」の6句からなる節回しである。すなわち、踊りの方は北前船などによって関西の影響を受けつつ、一方、お囃子の方の詞曲は、地元のものがコアになりながら、変化をしてきたのであろう。 

 最後の「がんけ」踊りのお囃子である「甚句」の歌詞は即興的なものから、笑い話、風刺や生活感溢れる事象をとりあげており、民謡の伝統的な形式の「7、7、7、5」の4句で構成されている。現在は洗練され、情緒豊かな格調高い歌詞になっているが、かつては各地で流行している歌に影響を受けたものや時代を反映した下世話なものなどが多かったといわれ、社会状況の変化が歌詞に大きく反映していたという。 

 比較的原形をとどめながらも継承されてきた「毛馬内の盆踊り」と「西馬音内盆踊り」の2つの盆踊りについて紹介したが、この2つの盆踊りでさえ、時代によって大きく変化し、当初の信仰的な部分や祈願、慰霊的な部分は影をひそめ、祝祭的、娯楽的で見せる要素が拡張してきた。「祭り」や「年中行事」が人間の根源的な営為である以上、時代の潮流や社会構造の変化とともに、変化変遷をしていくことは、その本質であり、継承していくための必然でもあろう。 

 しかし、都市圏においては、人的つながりの希薄化による社会構造の変化や生活習慣の変化によってかつての「祭り・祭礼」「年中行事」を執り行う存在基盤すら失いつつあり、地方では人口減少により「祭り・祭礼」の担い手不足により、「祭り・祭礼」「年中行事」が廃止や存続の危機に陥っているものもあるといわれている。こうしたなかで、一方では、観光振興という視点からは、自らのアイデンティティを示すためにも各地の伝統的な「祭り・祭礼」や「年中行事」の活用、創造が提唱されている。 

 そこで「祭り・祭礼」「年中行事」の変化変遷について、もう少し具体的な事例に触れたうえで、現在の社会状況を踏まえ、「祭り・祭礼」「年中行事」はどのように継承すべきなのか、あるいは残していくべき「祭り・祭礼」の社会的意義はどこにあるのか、観光的な視点も含め整理してみたい。 

 「祭り・祭礼」、「年中行事」の変化変遷について考えるのにあたり、この3つの言葉の意味について、整理してみたい。 

 「年中行事」は角川の「日本史辞典」では「1年間の特定の日に慣習として行なわれる行事」とし、暦日を採用している社会では「社会生活の定型」として行われるものと定義にしている。日本では公家・武家・民間に分かられ、「室町時代より江戸時代にかけて一般庶民の地位が向上するとともに民間の年中行事が次第に盛んに」なったとしている。この民間の年中行事に公家、武家の行事が影響を与えたものは大きく、その根源となった中国の風習も取り入れられているとしている。 

 柳田国男は、「年中行事覚書」のなかで、日本における暦日の「年中行事」への影響については、「暦は大きな統一の力であって、その支配の及ぶ限りは、中央の標準に遵拠せしめようとしていたが、それは正朔すなわち月と日の算え方を主としていて、これに伴ういろいろの行事に至っては、すべて土地毎の自然の発達にまかせてあった」としている。これだと、「年中行事」は土地、土地で差異性が生まれて当然だと考えられるが、しかし、日本全国各地で「隠れたる自然の一致があった」とも指摘している。要するに日本各地の「慣習」、「習俗」は暦日という制度導入により「年中行事」化し、個別に変化変遷したものの、本質的な営為としては自然と似通う、あるいは一致していったとしている。 

 次に「年中行事」と「祭り」の関係を整理しておくと、柳田国男は「日本の祭り」のなかで「祭り」について、日本人が「天然または霊界に対する、信仰というよりもむしろ観念と名づくべきものを、我々は持っていた」とし、個々の家では、「先祖と神様とを一つに視ていたかと思われ」、その神々を祀るという行為は「温帯の国々においては、四季の循環ということが、誠に都合のよい記憶の支柱であった。我々の祭はこれを目標にして、昔から今に至るまでくり返されて」きたものだとしている。 

 「年中行事」と「祭り」の定義からみると、中国からの暦日の導入によって「年中行事」が公家、武家から民間に入り込む過程で、「習俗」「習慣」とともに「祭り」も「年中行事」に取り込まれ、概念として包含されていったことが理解できる。 

 柳田は、かつての日本には、経典もなければ、教団組織もなかったので、「日本では『祭』というたった一つの行事を透してでないと、国の固有の信仰の古い姿と、それが変遷して今ある状態にまで改まってきている実情とは、うかがい知ることができない」と、日本における信仰の独特なあり方、本質は「祭り」の変遷からしか見えないとしている。一方の「祭礼」は外国から来た言葉であり、「祭り」と「祭礼」の違いについて、3つのポイントから分析している。 

 第一のポイントとしては、「社ごとに大祭小祭の区別がまず存し、その大祭の方だけに、朝家官府が参与せられるの風が後に始まったのかもしれぬ」として、「祭礼」は、もともとは朝廷などの官製の「祭り」に権威的な漢語が取り入られ、それが、各地の大祭でも使われたのではないかというのだ。 

 第二に「新たに祭礼という名称を設けて、他の一般の祭と差別しなければならぬ必要はどこにあった」か、第三に「大小各種の祭にも必ず共通した大切な意味がなければならぬのだが、それはいずれの点に求むべきものであろうか」という問題の立て方をしている。 

 これに対する答えとしては、「一言でいうと見物と称する群の発生、すなわち祭の参加者の中に、信仰を共にせざる人々、言わばただ審美的の立場から、この行事を観望する者の現われたことであろう」としている。これを可能としたのは、近世に入ってから農村経済が豊かになって、「見られる祭」が可能になり、一方では「彼ら伝来の感覚、神様と祖先以来のお約束を、新たにしたいという願いを棄てなかったゆえに、勢い新旧の儀式のいろいろの組合せが起こり、マツリには最も大規模なる祭礼を始めとして、大小幾つとなき階段を生ずることに」なったと分析している。これに加えて「見られる祭」が可能になったのは、蝋燭や紙の提灯など工芸における技術発展が支えとなり、「祭り」に「灯り」や飾り付けを華麗に大胆に取り入れられことができるようになったことも、大きな要素であるとも指摘している。 

 さらに、都市の形成も大きな意味を有しているとし、中世以降の都市では、その環境により「大雷雨と疫病のまん延への畏怖」が強く、これらが水に起因あるいは関連している事象だということから、水を祀る「祭り」が盛んになったという。これが季節的に都市における夏祭りにつながっているというのだ。柳田は「起原は農民と共通の信仰にあるにしても、特に夏の祭をこのとおり盛んにし、また多くの土地の祭を『祭礼』にしてしまったのは、全体としては、中世以来の都市文化の力であったと言い得る」という理解をしている。 

 とくに「祭り」のなかで、神事そのものであった、神輿の渡御などの行列は、派手な練り歩きや装飾的になり「祭礼」化していったのは、都会において「祭り」を執り行うものと「ただ審美的の立場から、この行事を観望する者」の分離がより明確になり、いわばウケ狙いで、より過激に派手になり、また、洗練していくということだろう。 

 この動向の決め手になるのは、中世以降、京都などで「風流( フリュウ)」と呼ばれていたものだという。「風流」は、「すなわち思いつきということで、新しい意匠を競い、年々目先をかえて行く」衝動に沿ったもので、これが伝播して、「諸国の多くの御社の神の御渡りにも、このきれいな神輿を用い始めたのは流行であり改造であり、近世の平和期以後の文化」にもなったのだとしている。事実、その名もずばりの「風流物」という、祭りもあれば、名実はその地域の伝統的なものを取り入れながら、「風流物」の華美な飾り付けを取り入れ、発展したものもある。 

 例えば、茨城県の日立市の祭りは、その名も「風流物」であり、それが佐竹家の転封により、江戸初期に秋田に持ち込まれたともいわれている。もちろん、秋田は北前船による京都からの直接的影響もあったとされるが、それが、能代市の「眠流し」や 秋田市の「竿灯」へと形を変えて行ったものだともされているのだ。 

 柳田国男は、「祭礼」は「つまり祭の一種特に美々しく花やかで、楽しみの多いものと定義することができるかもしれぬ。あるいはもっと具体的に、見物というものが集まってくる祭」であるとして、単に神々を祭る(祀る)行為から「見せる」相手が形成され、「楽しむ」という行為が付け加えたことによって、「祭り」の「大規模化」、「見せる化」「娯楽化」により「祭礼」となったと結論付けている。 

茨城県日立市 風流物

秋田県能代市 「能代ねぶながし館」

秋田県秋田市 民俗芸能伝承館 ねぶり流し館

 柳田の論をみてみると、日本の土着的な「祭る」(あるいは「祀る」)行為が、社会構造、経済構造の変化とともに「祭礼」として、権威づけられ、形と担い手、意味合いも変化していったということが理解できる。しかも、最後は、「信仰」「祈り」「祀る」部分が脱落していく場合もあったとしているのだろう。「盆踊り」や「竿灯」などは、「年中行事」の系譜を引きつつ、「祭る(祀る)」的な部分が薄れた事例として挙げられるのだろう。結局、「祭り」や「年中行事」の変遷のなかで、現在では「祭り」「祭礼」「年中行事」の言葉としての定義も使用の仕方も曖昧模糊としてきて、明確な使い分けがされなくなり、ことに「祭り」は、言葉としてはイベントまで含め極めて広範囲に使用されるようになった。 

 これを現代で考えてみると、柳田が指摘したのと同様の構造でさらに劇的な変化となっていく、と、言ってよいだろう。 

 この大きな変化について、山口智は、第二次世界大戦後の1945(昭和20)年から現在までを4期にわけ、第1期は「約10年間は、戦争で中断した祭りの復興期」とし、第2期については、高度経済成長期に入り、地方の過疎化の影響で「祭り」の中断、継続の危機を余儀なくされる「祭り」が出てきたが、一方では観光を重視する柳田國男のいう「祭礼」化の度合いがより強まり、新しい「祭り」が出現した時期としている。 

 第3期では、高度経済成長が終わり、「モノの時代」から「こころの時代」となり、大きな祭りのなかった大都市や郊外のベッドタウンで「祭り」が創出され、伝統的な「祭り・祭礼」が見直される時期だと分析している。さらに第4期、1990年代に入ると、地域振興推進のなかで、商業的動機に基づく「祭礼」というより疑似「祭礼」としての「神なき」イベントが増え、それを梃子に地域の住民の地域への愛着を醸成しようとする動きがみられるようなった時期だと整理している。 

 同様に阿南透も高度成長期に焦点をあわせ、この時期の「祭り・祭礼」の変化とその特徴について、「高度成長期前期には,どの祭礼にも衰退や中断、重要な変更がみられた。一方、後期には、祭礼が復興し発展したことが明らかになった。変化の要因として、前期の衰退には、経済効率第一の風潮のほか、新生活運動も関与していた可能性がある。後期の復興には、石油ショック以後の安定成長期の『文化の時代』に、祭礼が文化として扱われ、文化財指定を受ける『文化化』、祭礼が観光資源になる『観光化』、行政などが予算を立案し,業務として運営する『組織化』、さらに事故のない祭礼を目指す『健全化』などの特徴が見られる」と指摘している。 

 こうした変化は、地域あるいは「祭り・祭礼」によって、成功例、失敗例の双方を生み出した。例えば、秋田の「竿灯」のように「見られる祭り=祭礼、年中行事」の徹底化は図る一方、継承の側面を強く意識した組織化や行事化を官民挙げて取り組み、そのことにより地域住民の「祭り・祭礼」「年中行事」への愛着が増し、観光への貢献度も高くなった「祭り・祭礼」もある。また、西馬音内盆踊りでは、地域のアイデンティとしての機能を果たし、平成の大合併議論のなかで、地域の独自性を活かすために合併に応じないことを選択し、その独自性の軸の一つとして盆踊りがとらえられ、現在も地域活性化の中心的役割を果たしている。 

 逆に地元の想いとは異なる結果となった事例としては、福島の「わらじ祭り」が挙げられるだろう。「神なき祭り」への転換が成功したと言えず、「見られる祭り=祭礼、年中行事」としてもコンセプトが迷走し、住民の支持も、観光による地域振興にも必ずしもつながらなかった。 

 以上から見れば、「祭り・祭礼」「年中行事」の現代化に向けての変化は、必然であり、社会構造や経済構造や社会意識の変化に伴い、「祭り・祭礼」は変化すべきでもある。しかし、問題は現在の変化の方向が、本来の担い手である住民や見学者たちの主体的参加意識が保持され、地域のアイデンティティとなっているかという点が問われるだろう。この部分が欠ければ、「祭り・祭礼」における伝統文化の継承も困難になり、地域社会の紐帯としての意義を失い、単なる商業的イベントに化し、地域の主体性や独自性は薄まり、継続性の保証もないだろう。 

 できれば、日本人の培ってきた文化としての「祭り・祭礼」の要素・本質を残し、次代に繋げる意義を見出せる「祭り・祭礼」あるいは「年中行事」として、創造的で、それぞれの時代に見合った変化変遷が地域の特性に合わせて展開されることを願いたい。 

茨城県日立市 日立さくらまつり

引用・参考文献

筆者

典然

観光関係の調査研究機関をリタイヤして、気儘に日本中を旅するtourist。
「典然」視線で、折々の、所々の日本の佇まいを切り取り、カメラに収めることがライフワーク。「佇まい」という言葉が表す、単に建物や風景だけではない人間の暮らしや生業、そして、人びとの生き方を見つめている。

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