城や城下町への関心度は相変わらず高い。テレビの旅番組や歴史教養番組でよく取り上げられており、大河ドラマでも城や城下町の場面が数多く設定され、若い女性や外国人にも人気のスポットになっている。そのこともあって、各地で、観光客誘致の重要なツールとして城や城跡、城下町が脚光を浴び、町づくりや景観計画のなかでも城郭の復元、再建、修理や町割りの再整備、家並みの保全、改修などに力を入れている所が多い。しかし、全国の城下町を訪ねてみると、松江、金沢や彦根など、しっかりと町の風情や生活のなかに町並みや城跡が根付いている所も多い一方、書割のような表面的な町の造りであったり、時代考証にそぐわない家並みの再現であったり、コンクリート造りの天守閣もどきなどであったり、わざとらしさが目立つところも多い。日本の歴史が作り上げてきた、われわれにとって貴重な有形、無形の文化遺産であり、社会的レガシーでもある城下町を、今、どうとらえ、そしてこれからどう生かしていけばいいのだろうか。とくに観光という視点からは重要だろう。
そこで、太宰治が住み、かつ、彼の多くの作品に登場する2つの城下町―弘前と甲府、それに小泉八雲が愛した松江を対比させながら取り上げてみた。いずれも、作家自身の生き方のなかで重要な位置、役割を占めていると思われる城下町で、日本人にとっての城下町の意味とこれからを考える素材になるのではないだろうか。
まず、そもそも城下町とはどのようにして生まれたのか、そして日本全国でどのくらいの城下町があったのだろうか。日本における城下町の形成は、在地領主の力が強まった中世末から始まり、戦国時代には戦国大名が領国の政治経済の中心機能を城下に集中させたことにより、急激に発展したという。江戸時代に入り、徳川家による幕藩体制確立のため、改易、転封などが頻繁に行われ、いくつかの城下町の興廃はあったが、各地で藩による統治機構が整い、その地方の中心地として、城下町は発展、成熟をしていった。1871(明治4)年の廃藩置県の対象となった藩は280ほどあったという。小規模で城郭などがなかったところもあり、城下町の形成とまでは至らなかった藩もあったというが、それでも相当数の城下町が全国に散らばっているということになる。
近代に入ってからの城下町は大火や戦災で焼失したり、近代化の波のなかで都市構造が変わったりしたところが多かったが、第2次世界大戦の空襲などの被害もなく、また、比較的近代化の影響を受けずに江戸時代の町割りを残すことができた町も少なからずある。多様な歴史的な背景はあるが、多くの城下町は近世を通し、地方における政治、経済、文化、教育の中心地だっただけに、支配者、支配者一族の属性、支配体制の違いなどの影響を受けつつ、その地域社会独特の文化、伝統、生活習慣などが醸成されていることが多い。昨今の城、城下町ブームもこれらに対する関心の高まりによるところが大きいといえるのだろう。
城下町をすぐに実感できるのは、その町の町名だ。いまは、都市の近代化、自治体の合併のなかで、ほとんどのところで凡庸としか思えない町名になってしまい、多くの城下町でも、近世の町名を失った。
この町名について、太宰治は小説「津軽」のなかで、生まれ故郷の近くであり、旧制高校生時代を過ごした弘前を回顧し触れている。歴史のある城下町の弘前と近代に入り交通の要衝となった青森を比較し、「本町、在府町、土手町、住吉町、桶屋町、銅屋町、茶畑町、代官町、萱町、百石町、上鞘師町、下鞘師町、鉄砲町、若党町、小人町、 鷹匠町、五十石 町、紺屋町、などといふのが弘前市の街の名である。それに較べて、青森市の街々の名は、次のやうなものである。浜町、新浜町、大町、米町、新町、柳町、寺町、堤町、塩町、蜆貝町、新蜆貝町、浦町、浪打、栄町」と、それぞれの町名を並べ、あえて弘前と青森と違いを記したのは、これらの町名は太宰にとって弘前の城下町としてのこだわりを強く意識するものだったからといえよう。弘前は旧町名を比較的残そうという努力がなされており、旧町名の標示案内も市内各地に建っている。
また、結婚した太宰治が住んだ甲府も、第2次世界大戦の空襲で壊滅的な被害を受けたものの、1960年代の終わり頃まではまだ城下町の風情を醸し出す町名が残されていた。それは「元城屋」「元紺屋」であり、「元連雀」、「大工町」、「細工町」、「柳町」、「紅梅町」などなどだった。いまは、近世の町名の大半が消し去られ、「北口」「中央」など、大きな機能的な括りの町名となっているところが多い。
城下町だと実感できるという町名は全国各地で失われつつあるが、太宰は、当時、まだ残っていた「鷹匠町、紺屋町などの懐古的な名前は何も弘前市にだけ限つた町名ではなく、日本全国の城下まちに必ず、そんな名前の町があるものだ」と、町名は城下町のアイデンティティのひとつであっても、弘前という町の独自性あるいはアイデンティティを示すものではないともしている。それでも、現在、弘前は旧町名を比較的残し後代に伝えようとする努力もしているが、いまや全国的にはその意志すら失っているところが多い。
それでは、太宰は、弘前の城下町としてのアイデンティティをどこに求めていたのか。 弘前人は「どんなに勢強きものに対しても、かれは賤しきものなるぞ、ただ時の運つよくし て威勢にほこる事にこそあれ、とて、随はぬ」とし、太宰自身の中にもそれを有しており、「何やらわからぬ稜々たる反骨」があって、弘前について問われても「汝を愛し、汝を憎む」と遠慮ない心情を吐露してしまうとしている。その「魂の拠り所」となっているのが、弘前城や城下町だとも論を広げ、さらにその拠り所とはなにかということを突き詰めると「見よ、お城のすぐ下に、私のいままで見た事もない古雅な町が、何百年も昔のままの姿で小さい軒を並べ、息をひそめてひつそりうずくまつてゐたのだ。ああ、こんなところにも町があつた。 年少の私は夢を見るやうな気持で思はず深い溜息をもらしたのである。…中略…この町の在る限り、弘前は決して凡庸のまちでは無いと思つた」と結論付けるのだ。
この「息をひそめてひつそりうずくまつてゐ」る「古雅な町」を「万葉集などによく出て来る隠沼(こもりぬ)」に喩え、「隠沼のほとりに万朶の花が咲いて、さうして白壁の天守閣が無言で立つてゐるとしたら、その城は必ず天下の名城にちがひない」とまで言い切っている。この場合の「隠沼」の意味を考えてみると、「万葉集」での歌の例では、柿本人麿の挽歌「はにやすの池の堤の隠沼の行方を知らに舎人は惑ふ」(埴安の池の堤に取囲まれた池の水は、流れ行く先も分らぬが、ちょうど其のように、これから先の行くべき方向も分らないで、舎人たちは途方にくれている)では、「隠沼」は堤におおわれて水がどこへも流れようがない「はにやすの池」(大和の天香具山の西麓にあった池で藤原京の東側にあたる)という意味で使われており、作者不詳の「隱沼の下ゆ恋ふればすべをなみ妹が名告りそ忌むべきものを」(心の底で窃かに恋い慕っていると、苦しくて仕方がないので、つい、いとしい女の名 を口に出してしまった。憚るべきことであるのに)では外からは見えにくいものであり、心の奥底にあるという意味の「下」に掛る詞として使われている。太宰は当然ながら、これらの歌を前提にしているだろうから、ここでは良い意味での滞留性と心秘かに隠しておきたい思いがある町として形容したのではないだろうか。
太宰が、弘前を「凡庸のまちでは無い」としたのに対し、同じ城下町で、新婚時代を含め4回ほど居をおいた甲府の町についてどうみていたのだろうか。
「甲府は盆地である。いはば、すりばちの底の町である。四邊皆山である。まちを歩いて、ふと顏をあげると、山である。銀座通りといふ賑やかな美しいまちがある。堂々のデパアトもある。道玄坂歩いてゐる氣持である。けれども、ふと顏をあげる と、山である。へんに悲しい。…中略…すりばちの底に、小さい小さい旗を立てた、それが甲府だと思へば、間違ひない」と描写し、裏通りは「家の軒は一樣に低く、城下まちの落ちつきはある。表通りのデパアトよりも、こんな裏まちに、甲府の文化を感ずるのである。この落ちつきは、ただものでない。爛熟し、頽廢し、さうしてさびた揚句の果が、こんな閑寂にたどりついたので、私は、かへつて、このせまい裏路に、都大路を感ずるのである」と、昭和初期でもすでに失いつつある城下町の匂いと頽廃を感じ取っている。さらに、甲府で再挙を計ろうとする太宰にとっては、井伏鱒二から勧められたこの街は「ひそかに勉強をするには、成程いい土地のやうである。つまり當りまへのまちだからである。強烈な地方色がない」とも評している。要するに甲府は地方都市としては近代化が進み、文化的ではあるが、裏町に城下町の匂いはあるものの、「當りまへのまち」で「強烈な地方色がない」とまで言い切っている。
太宰のこのふたつの城下町への見方、感じ方の違いが大変面白い。もちろん、太宰の生まれ故郷で青春を送った弘前と、結婚し再挙を計ろうと作家として戦いの場であった甲府では、その見方や感じ方が違っても当然だが、城下町の歴史的背景の違いにもあるように思われる。
そのなかで一番大きな相違点としては、江戸時代を通じて津軽家の支配が続いた弘前と同じ時期に天領時代が長かった甲府ということにあるのではないかと思う。
甲府は16世紀後半に武田家三代が甲府盆地の北端、躑躅が崎に館を設け、扇状地の地形を利用して城下町を築いたものの、その統治は60年ほどで終わりを告げた。その後、豊臣家、そして徳川家の影響下に入り、浅野長政父子や徳川綱豊、柳沢吉保父子などの支配下にあったが、江戸中期からは幕府直轄の天領となった。このため、支配者がたびたび代り、甲府での勤めは甲府勤番と呼ばれ、いわば、官僚の転勤族の支配下にあったといえよう。しかも、武田家の本拠地は盆地の北端、扇状地の要の部分にあったが、浅野長政によって扇状地の扇の先端部分の一條小山に城が築かれた。これが現在、JR中央本線の甲府駅の東南側にある甲府城跡である。つまり、甲府の城下町は、中世末期に造られた城下町と微妙にずれた形で、近世になって再構築された複層的な構造の町なのだ。それが、前述した、かつての町名に「元城屋」「元紺屋」「元連雀」など「元」の付くところが多かった理由だ。これらの町のほとんどは、現在の甲府駅より北側の扇状地上にある。
一方の弘前は「津軽藩祖大浦為信は、関ヶ原の合戦に於いて徳川方に加勢し、慶長八(1603) 年、徳川家康将軍宣下と共に、徳川幕下の四万七千石の一侯伯となり、ただちに弘前高岡に 城池の区劃をはじめて、二代藩主津軽信牧の時に到り、やうやく完成を見たのが、この弘前城で」あり、1869(明治2)年の版籍奉還まで12代に渡り、津軽家の統治であった。
こうした歴史的背景から、弘前城に対し弘前の城下町が「隠沼」とも太宰が表現するような関係を作りあげることができたと言えるが、町が複層的な構造となっている甲府では物理的にも精神的にも城と城下町のこうした関係は作りえなかった。
さらには文化の継承という意味では、津軽家の長い治政で培われた弘前人の「反骨心」など一貫した精神は、いわば転勤族の官僚の支配のもとで、江戸文化の流入はあってもその時の風潮に流れやすい空気感があった甲府では醸成することは難しかっただろう。太宰が「當りまへのまちだからである。強烈な地方色がない」とか「シルクハットを倒(さか)さまにして、その帽子の底に、小さい小さい旗を立てた」と評し、文化性はあるが特色のなさと底の浅さを指摘する由縁なのかもしれない。それゆえ、甲州人はアイデンティティをどこに求めたかというと、武田家三代、とりわけ信玄となる。確かに武田信虎が躑躅ヶ崎に本拠を構え、城下町の整備を行い、信玄が甲斐一国のみならず信州の大半を傘下に収め、信玄堤や甲州金など民政にも手厚かったことなど、武田三代は甲府の始祖ではあることは事実だ。しかし、その後の幕政下の甲府も、例えば、江戸中期に甲府を視察した荻生徂徠の「峡中紀行」のなかで「府城入ル、街坊荘麗、東都甚ダ譲ラズ」と記したほど栄えていた。それでも、転封、交代が多い支配者のもとでは、そこに自らのアイデンティティを求めるのが難しく、結局、16世紀後半にたった60年ほどしか統治しなかった武田三代、とりわけ、信玄に帰結するのだ。
これらが太宰にして、弘前と甲府の違いを敏感に感じさせていたのではないだろうか。
弘前と同様、城下町の雰囲気を色濃く残す松江は、町全体として、お城はもちろんのこと、町割り、掘割りなどが「魂の拠り所」としての城下町を具体的に感じさせてくれる。ただ、弘前のような城に対して城下町が太宰治のいう「隠沼」であるような関係とは違い、いわば「隠沼」が宍道湖によって具象化・表徴化され、「神の国」出雲の首都として構造的にも精神的にも開かれた城下町といってよいのではないだろうか。
松江城は、1600年(慶長5)年に堀尾吉晴が最初に入部した月山富田城から、出雲・隠岐両国の支配のため本拠地を松江に移し城郭と城下町の礎を築いた。その後、京極家が入部したが短期間で改易され、1638(寛永15)年に譜代の松平直政が藩主となり、松平家が明治期の廃藩置県までこの地で出雲を治めた。
こうした歴史的背景のもと形成された松江の城下町については、小泉八雲が「知られぬ日本の面影」のなかで、明治期の近代化が進む中での松江の町の様子について詳しく触れており、城下町として、「神の国」の首都としての構造や精神性が垣間見える。
小泉八雲が松江で初めに入った宿は、宍道湖に流れ込む大橋川河畔にあり、そこで風景の美しさはもちろん、日本人あるいは松江の人々の実生活や、行動様式、精神性、宗教心などを知ることになる。
「知られぬ日本の面影」での城下町の松江の描写は、その穏やかで美しい宍道湖畔の朝の光景から始まっている。そして、庶民たちが一日を始めるあたり、「對岸の埠頭の石段を下りる男や女が見える。銘々帯に小さな青い手拭を挿んでゐて。顔と手を洗ひ、口を漱ぐ。これは神道の祈を捧げる前に、必ず行ふ潔斎である。それから顔を朝日に向け、四たび手を拍つて拝む」姿をはじめ、「日本で最古のこの國では、仏教徒も亦神道信者」であることから、朝日のみならず、「杵築大社」や「一畑山の高峯」、「薬師如来の大伽藍」など様々な対象に向け、祈っている姿なども描いている。小泉八雲が松江に入った明治中期には廃仏毀釈の嵐も去り、庶民の信仰生活では、日本人本来の多種多様な神仏に祈りを捧げている光景が、この静かな城下町にも戻ったのだろう。
そして、小泉八雲は城下町の町並みについて、まず、松江での最初の宿があった大橋川河畔から南に大橋を渡った商人町である天神町の様子を「兩側の家々に紺暖簾が垂れて、白く染め抜いた屋號や看板の妙な文字が、湖水から吹く風毎に波動してゐる」と記している。この天神町から新土手川(現・天神川)に架る天神橋の辺りまでが、松江で「市の最も富んだ、且つ繁華な區域であって、澤山寺院の集まったところもある」として劇場や角力場、遊楽の場所もあったとも書き残している。
さらに「松江は封建の城下であったため、昔劃然としてゐた階級の差別が、區域に従って異る建築で以て、まだ珍しくも判然と示されてゐる」と解説し、「町家は市の中心をなして皆二階造りである。寺院の區域は殆ど市の東南部を含んでゐる。して、士族(昔は侍)の區域には、ゆったりとした庭園を繞らした平屋建の邸宅」だと書き記す。「松江は出雲の軍事的中心」であったため、「市の兩端の湖に沿ふて三日月形に彎曲せる處に、主要な武士の階級の住居區域が二つ」あったとし、城周辺には「武士の人々の最も立派な屋敷」があったとも述べている。城自体については、「全然鐵じみた灰色の、巍然たる凶相が、大きい不規則な石で築いた石垣の土臺から、沖天へ聳えてゐる」と描写しており、「異様」、「陰鬱」とも評しているので、小泉八雲はその権威主義的な建物に好感は持っていなかったようだ。
小泉八雲の「知られぬ日本の面影」に描かれている城下町の様子は、町割りも掘割も橋も都市構造の変化に伴い、異動、付け替えはあるものの、現在も当時の様子が推測できる範囲には留まっており、現在もほとんどの町名が何らかの形で残されている。もちろん、建造物は一部を除き近代化はされているが保存継承された町の構造と、「隠沼」としてはあまりにも具象化・表徴化はされているものの、町の前面に広がる宍道湖が心秘かに持ち続けたい魂の拠り所としての役割の一部を分担しているからこそ、開かれた城下町と感じさせるものがあるのかもかもしれない。
弘前、甲府、松江の3つの城下町を中心に取り上げてみたが、城下町の現在のあり様は様々だ。弘前や松江のように、廃藩置県による廃城、交通インフラの変化などの危機もあったが、近世に構築された都市構造の基本的な枠組みがそれなりに遺っているところもあれば、甲府のように、中世、近世、近現代それぞれの時代において、城郭の移転、統治者の異動、廃藩置県による廃城、空襲による戦災などによって、都市構造に大きな変化がもたらされたところもある。また、例えば、山形県の鶴岡のように空襲や交通インフラの変化の影響などによって城下町の構造が限定的にしか遺されなかったところなどもある。
こうした城下町の歴史的背景や都市の発展過程の違いは、良くも悪くも、現在の都市構造の個性になっている。それゆえに、観光誘致による地域活性化の風のなかで、景観の修景や魅力づくりに近世の城下町の風情、情緒を一律に持ち込んで、都市景観計画や観光誘致計画を推進していくことは、住んでいる人々にとっても、訪れた観光客にとっても違和感をもたらし、何よりも観光客誘致の持続性も疑わしいことも認識すべきだろう。
例えば、比較的近世の町割りや景観が残る弘前や松江にしても、しっかりとした時代考証のもとにスト―リーをきっちり組み立て、原形通りに何を遺し、町の状況に応じてどの時代に合わせて修景を行っていくのか、取捨選択をすべきだろう。
弘前においては、岩木山をはじめ周囲の山々を取り込んで、歴史性を重視した景観計画があり着々と進んでいるが、「古雅な町」並みをいくら外形的に維持しようと思っても、そこに営みや精神が伴わないと、町並みが書割り化し「魂」のない町になってしまうだろう。それでは維持継承は困難だろうし、最後は町を荒廃させる。それを防ぐためには、弘前の町の伝統を継承し、新たな発展の目を育てる人材の確保と育成が極めて重要な課題なのだろう。このことは松江にとっても同様だ。
複層的な都市構造を有する甲府の場合では、近世の城下町を強調していくのは難しいと思われるが、それがまた強みでもあろう。不連続で複層的な歴史をもつ甲府は、遺された景観は城跡ぐらいで、景観再現といってもどの時代に焦点を合わせるのかが難しい。逆に言えば、時代に応じ、文化を塗り替えてきた甲府の特性である複層性、積極性を生かし、近代以降発展してきた地場産業の宝飾やワイン、高級果実などを町づくりに取り入れながら、富士山や南アルプス、八ヶ岳という格好の借景と城下町という土台の上に、新しい都市景観を生み出す方がより一層面白い町になるのではないだろうか。
全国には沢山の城下町がある。しかし、ともすれば、遺構も少ないのに、一般受けしやすい戦国時代に結びつけた修景を行ったり、生活、営みが伴わない近世の町を復元修景したり、違和感を感ぜざるを得ない町も多い。できれば、それぞれの歴史的背景をもとにその都市の個性を磨き、さらには、現代の営み、特産品を中心とした生産活動との連携、相乗効果をもたらす町づくりが進むことを祈っている。
引用・参考文献
- *太宰治「9月10月11月」「津軽」「新樹の言葉」『太宰治全集』〔Kindle 版〕
- *小泉八雲「知られぬ日本の面影」『小泉八雲全集.第3巻』、第一書房、大正15年(国立国会図書館デジタルコレクション)
- *荻生徂徠「峡中紀行」『甲斐志料集成.1』、甲斐志料刊行会、昭和7年(国立国会図書館デジタルコレクション)
- *甲府市「甲府市景観計画」、平成29年6月
- *弘前市「弘前市景観計画」、平成24年3月
- *佐佐木信綱『校訳万葉集(現代語訳付)』、Yamatouta e books. 〔Kindle 版〕